POP を配るのはやめろ

投稿者: | 2011年3月28日

多くの版元営業さんから POP をいただきます。DTP できれいに仕上げたものから、フェルトペンの手書きで心を込めたものまで様々。
しかし、「よかったら使ってください」と渡されると、内心「う~ん」とうなってしまいます。申し訳ないけれど、そのようにして受け取った POP の半分以上は実際には使いません。(「半分以上は」というのは実は波風を立てないための表現で、ズバリの現実では、おそらく8割近くは使われていないで しょう)。
「せっかく苦労して作ったのに」と怒りと失望を感ずる版元さんが多いでしょう。
なぜそんなことになるのか、ということについて考えてみましょう。

じゃまである

書店の展示の基本は平積みですから、特定の商品を目立たせるという目的で POP を立てると、POP の背後に隠れる商品というものが必ず出来ることになります。
特定の商品にPOPをつけることで力を入れると言うと、しごくまっとうなことのように聞こえます。
しかし特定の商品以外にPOPをつけず、しかもあるPOPで幾つかの商品を見づらくすることで、それらの商品の販売チャンスを削減すると言い換えてみると、書店人が言う「じゃまである」という意味が少し分かるかもしれません。
書店の平台は有限であり、常に激しい競争にさらされています。書店人は有限のスペースに、売上げが立つと見込める商品を可能な限り詰め込もうと日々努力し ています。ですから、そもそも販売チャンスを削減してもたいした影響がない商品というのは無い(少なくとも理想論としては、あってはならない)わけです。
POP に対して書店人が反射的に「じゃまだ」と思ってしまう理由は、ここにあります。
意地悪な言い方をすれば、他の商品の邪魔をしてでもその POP をつけると当該の商品は他の商品の邪魔をすることを遙かに上回る販売効果を上げると、そう主張するのだね?となります

じゃまである。のもうひとつの意味

書店員が言う「じゃまである」には、上述したようなことの他に、単純に物理的に扱いが面倒でじゃまであるというケースもあります。
これはスタンドなどで個別に立てるPOPではなく、ポスター、シール(シールを一部に使った「スウィングPOP」も)などの場合の話です。
書店店頭の展示は毎日のように変更されます。各コーナーに毎日のように複数の新刊が投入されますから、たとえ展示(ディスプレイ)に意識的な社員ではなくても、必然的に変更します。
すると当然、たとえ力を入れている展示品であっても、他とは完全に独立したコーナーを占有していない限り、やはり最低でも数列分程度微妙に移動されることは日常茶飯事です。
移動するとポスターやシールと実際の展示場所がずれます。
これはみっともないだけでなく馬鹿げているのでPOPも移動しなければならないのですが、シールなどで貼り付けてしまったものは移動できません。移動できても、跡が汚く残る可能性があるのでやっかいです。ポスターはたいていの場合もっと簡単に移動できますが、 動かすたびに破れたり汚れたりしやすくなります。
これを書店員は「扱いが面倒だ」という意味合いで「じゃまだ」と思うことがしばしばあります。つまり、簡単に移動できないPOPは原則としては、あまり好かれない、ということです。

意図が曖昧である

本来書籍はパッケージデザインとして機能するようにジャケット(カバー)が作られているはずです。さらに、それを補うものとして帯(腰巻き)も多用されています。
そこにさらにまた POP をつけるということは、次のようなことを意味するはずです。

  • 商品に三番目の意味を付け加える
    ひとつの商品に三つもの意味を、適切に加えるには、相当慎重に考え抜かなければならないはずです。下手をすると、商品の意味が混乱して逆効果になってしまう可能性さえあります。
  • ジャケットや帯を補う
    パッケージデザインとしてのジャケットや帯が十分機能しておらず、それを補う必要があるのでPOPをつけるということです。
    デザインやタイトルだけではターゲットにしたかった読者層が絞り込めなかった、とか、内容を一目で理解させることに十分成功しなかった、という場合がこれに当たるでしょう。
  • 商品イメージを拡大して提示する
    パッケージデザインは基本的成功しているが、更に部分拡大、あるいは全体を拡大して提示することで効果が増大すると思われる場合が、これに当たります。印象的なコピーや効果的なイラストなどの部分をより大きく提示する、ということです。

これらの「POP の意図」をきちんと考えた上で制作したのか?と自問してみましょう。
意図が曖昧な POP を差し出しても、相手が大喜びしてくれるとは思えません。
たとえ相手の書店員がPOPに関してこのようにきちんと考え抜くということをせずに喜んで受け取ってくれたとしても、呼びかけるべき本当の相手である読者には、じゅうぶんな効果が期待できないでしょう。

POPは本来販売現場で作るべきもの

さてしかし、私が安易に POP を配ることに反対する最大の理由は、上に述べてきたこととは、また別ところにあります。
これまでの部分では、一見 POP なんてじゃまなばかりでさして効果がないと言っているかのようですが、違います。
POP には確かに効果があります。
しかし、POP は本来、とある商品に惚れ込んだ販売現場の人間が、自分の手で、自分の言葉で作るからこそ効果があります。POP はその商品に対する販売現場の愛情表現です。愛情があるからこそその商品を大事に展示し、大事に売り続けるのであって、POP はその延長線上にあります。
愛は盲目ですから(笑)「じゃまである」などということは考えません。他の商品を隠してしまってもその POP を立てたい強い動機があることになります。
また、愛ゆえに「意図が曖昧である」という問題点に陥ることも少ない。たとえ理論的に整理されていない場合でも、その商品にとってもっとも効果的なポイントを本能的に掴みます。
POP という形態に効果があるのではなく、愛情表現のひとつの結果として POP というものが生まれた、ととらえ直してください。

POP はがむしゃらに売り込むことではない

お客様は、この個人的な愛情に敏感に反応します。
「マス」で制作されたものであっても、その中から「プライベート」になり得る可能性のあるもの、個人的なお気に入り(マイ・フェイバリット、マイ・ブーム)になり得る可能性のあるものに反応します。
食べ物屋で「今日は何がお薦めですか?」とか「これはどういう料理ですか?」と聞いてみたくなるのと同じです。
たくさんの選択肢がある中から選択肢を減らし、辛いものは苦手とか柑橘類が好きといったような自分の好みに従って、さらに絞り込む。
その指針になるのがお店の人のお薦めや説明です。
気付いて欲しいのは、この時必ずしもお店の人が「一押し」するものを選ぶ必要はない、ということです。
どんなにお店の人が薦めてくれても辛いものが苦手な人が「とても辛くて最高ですよ」というものを無理に注文する必要はありません。
しかし、「とても辛くて最高」な料理に対しての愛情・自信・適切な説明があれば、おそらくその他の料理もそれなりに信頼に足るだろうということが分かります。
POP は、それを選ばないという選択をするための、信頼に値する指針にもなり得る場合もあると、冷静にとらえなければいけません。

書店さんに作ってもらおう

書店の助けになると考えて版元さんが次々と POP を用意することは、実は書店の現場からこの「愛情ゆえの盲目的な POP 衝動」を殺いでしまうことになります。POP の洪水にさらされているうちに「POP 不感症」になってしまうのです。
書店さん自身に POP を書いてもらえるように手助けをする、という考え方に方向転換してみてはいかが?
忙しくてとても POP を自分で作れないと言う書店さんもあるでしょう。センスがないから作れないと言う書店さんもあるでしょう。「どういう POP をつけたいですか?」と訊いてみて、それを作ってあげてはどうでしょう。
いちいち相手の意図を汲んで作るとなると、もちろんこれはおそろしく手間がかかります。しかし、そうやって出来上がった POP はおそらくかなりの高確率で、大事に使ってもらえるでしょう。

多すぎる POP の愚

誰にでも好きな音楽があり、その音楽が偶然まちを歩いている時に流れてくればすぐに気がつきます。周囲に多くの雑音があっても、その音楽だけがあなたの耳に届きます。
けれどもたいていの場合、すぐに他の音楽や車の音が「うるさく」それを覆い隠してしまいます。あなたはちょっといらだち、そしてあきらめます。それ以上、あなたが大好きな音楽を必死で聞き分ける努力をすることに疲れてしまうからです。
他の人にとっては、あなたが好きな音楽を「うるさく」覆い隠した他の音楽や音が、素敵なものであるかもしれません。車のエンジン音がたまらなく好きで、それをいろいろに聞き分けることに喜びを感じていたのに、あなたの好きな音楽がそれを「うるさく」覆い隠 してしまったのかもしれません。
音が多すぎる場所で多くの人が経験することは、そんな風です。多すぎるPOPが乱立した書店の平台は、そんな経験と似ています。
誰にでも好きなミュージシャンがあり、夢中になっている時期は可能なら一日中でも聞き続けていたいと思ったりさえします。しかしだからといって、そのミュージシャンの複数の曲を同時に聴こうとは思わないでしょう。
同じ読者層をターゲットにした多く本に(最悪の場合には、同じ読者層をターゲットにした同じ出版社の同じシリーズの多くの本に)、同時に複数のPOPをつけるのは、複数の曲を同時に聴くように強制するようなものです。
自分の日常の経験を素直に受け止めれば、多すぎる情報、重なり合う情報は、たいそう疲れるものだと分かります。それらの情報をより分けてきちんと理解するためには、かなり努力をしなければなりません。そのような努力は、短時間は出来ても、長い時間続けるこ とは出来ません。
強い精神力で長時間続けることが実際には可能であっても、その努力から何が得られるのか、ということに見合わないと思えば、可能であってもやり続けたくはありません。
疲れてしまった(潜在的な)読者は、次の一歩で目に入るはずだったある本を見ずに、ため息をつき、こった首をまわして、書店を出て行ってしまったかもしれません。
これは先に述べた、POP はがむしゃらに売り込むためだけにあるのではないということを無視しすぎた結果だとも言えます。
POPが多すぎるということに関しては、版元営業さんの責任と言うより、むしろ主として書店の担当者さんの責任です。
ただし、ある一定面積の専用スペースや専用棚をもらえている時にもそこに必要以上のPOPをつけてしまうというミスを犯す可能性はある、ということには気をつけてください。
専用スペースはそれそのものがひとつの看板であり POP です。そのスペースはすでにひとつの音楽を奏でています。
無理に複数のメロディを持ち込みすぎないように。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。