『猟人日記』ツルゲーネフを読み返してみたりした

投稿者: | 2011年4月1日

震災以降いろんな本(フィクション)が読めなくなった。どれを手にとってみても数ページ、数十ページ読むと、なんだか乾いた喉で乾いた食べ物を無理に口にしているような感じで、飲み込めない。技術書なんかは大丈夫なんだけれどフィクションがいけない。
おやおや、やっぱり人並みに何らかの影響は受けているのかな、と思った。
自分で言っても全く説得力がないけれど、比較的冷静に対処している部類の人間だとは思う。余震にいちいち動揺したりしないし、刻々と悪化していく被災地の 状況や原発の状況は分かっているけれど知ったかぶりに「こうしたらいい」だの「ああだからダメだ」だの意見や批判もしない。買い占めにも走らないし、無く なってしまったものがあれば無いということをとりあえず受け入れる。
そんなふうに過ごしているのだが、本が読めなくなって、やっぱり少しは影響されていたんだな、と気付いた。

そうは言っても、ご飯をたべるように毎日かならず本を読み続けるというのが自分の生活習慣そのものなので、さすがにこれは読めないなら諦めるという事ができなかった。
そこで蔵書をあさってこれでもないあれでもないとやっていたらツルゲーネフの『猟人日記』は読めることに気付いた。高校の始め頃に読んで以来読み返してい なかったと思う。持っている新潮文庫の奥付を見ると昭和四十八年十月の四刷なので、多分計算上も大雑把には合っていると思う(昭和三十三年生まれなのでそ の十五年後に剃られた新潮文庫を持っている、という意味)。
「サモワール」とか「露里」とかのフレーズがいちいち懐かしい。
…という話を書き、まわりまわって自分は実はそういう言葉ができるはるか以前から「セカイ系」の人間だったのかもしれないとかそういうことを書いてみる予定だったのだが…
『猟人日記』は今新刊ルートでは手に入らないということが分かって、なんとも気抜けしてしまった。
またか。

岩波

角川

新潮

そもそも今まで読んだことがない人にとってはどうでもいいことかもしれないけれど。

まあ…出版界、頑張って。

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on TumblrShare on Google+Buffer this pageでシェア