個性的な営業は得か

投稿者: | 2011年4月21日

出版社のベテラン営業マンの中にはとても個性的な方がおられます。
中には「名物」という冠まで付いてしまった方もおられます。
冠が付くほどになった方の中には個性的すぎて誰にでも全面的に歓迎されるというわけにはいかなくなってしまっている場合もあるのがいささか頭痛の種ですが、しかし、少なくとも非常に印象に残ることは間違いありません。
印象に残ることは営業職の場合とりあえず有利であるように思えます。だから出来るだけ個性的に振る舞った方がいいような気がします。
そうなのでしょうか?
時々個性的であることについて完全に誤解をしているのではないか。あるいは強い幻想を持っているのではないか、と思う人に出会うことがあります。
営業活動に即役立つとは言えないかもしれませんが、今回はそのお話しをします。

個性的であることはべつに「良い」ことではない

個性的であることが良いことであり、すすんでそうなれるようにすべきであるという風潮が出来てからすでにずいぶんになります。自分自身そう努力すべきだし、周囲もそれを助ける方が良い、というわけです。
しかし、そもそも人はみんな個性的です。
もしも個性のない人がいたら、その人は心のどこかが深刻な病気です。ですから意識して個性的であろうと努力する必要はそもそもありません。

「より」個性的であることが「それほどは」個性的ではない人々にたち混じった時に「有利」であるというような、個性を相対的な(量的な多寡で量れる)ものとして捉える考え方もあります。
どちらかというと「個性的」という言葉が使われる場合このような解釈のことが多いでしょう。

この考え方にはしばしば誤解と甘えが入りまじっています。
簡単に言ってしまえば、自分がオリジナリティを持っていることをアピールするということなのでしょうが、オリジナリティはそもそも相対的なものではありません。オリジナリティは「オンリーワン」であり、比較するものではありません。

この誤解はさらに「オンリーワンとはナンバーワンである」という思いこみへ進んでいくことが多いようです。
確かにある分野で唯一無二であれば自動的に一番ではあります。しかしそれは社会生活一般の意味で「勝っている」こととは関係ありません。
歴史上類のないきわめて独創的な方法で犯罪を遂行した犯罪者は、おそらく非常に個性的で間違いなくナンバーワンです。しかしもちろん、それを喜べる人はほとんどいないでしょう。
犯罪者と一緒くたにするのは話のすり替えだと思う方もいるでしょう。
いいえ、すり替えではありません。
個性は平均から外れなければ決して生まれないので、多かれ少なかれ誰でも「外れもの」なのです。

平均はあくまでも平均です。
身長190センチの人と150センチの人がいれば、その平均は170センチですが、二人はどちらも170センチではありません。
また1000人中900人が170センチだという分布データがあったとしても170センチが「良い」身長なわけではありません。
当然ですが、逆に190センチの身長が「良い」わけでもありません。
誰でも何かしら良いところがあるから、とか、何かしらの才能を持っているから、というようなおためごかしの空論ではなく、個別性と平均はそもそも交換できないというだけのことです。

個性は免罪符ではない

個性的であることと、それが受け入れられるべきであるかどうも、全く別問題です。
「私ってこんな人だから」という言い方がありますが、「だからどうしたの?」と言いたくなります。下手くそな俳句や短歌を聞くと反射的に「それがどうした」と合いの手を入れたくなるのに似ています。

だから…という言い方には、だから批判も価値判断も無しに自分を受け入れろという主張が暗に含まれていますが、それを決めるのは他人であって自分ではありません。
そもそも(オリジナリティという意味で)本当に個性的な人は自分の個性を説明したり主張したりなどしません。ただそれを生きていくだけです。

個性は何かのいいわけにはなりません。まして他人に受け入れるように強要するものでもありません。
ピーマンが大嫌いでもかまいませんが、他人がおいしそうにピーマンを食べるのをやめさせる権利はありません。
私がにおいをかぐのもいやなのだから食べるのをやめてくれるのが優しさではないかと思うかもしれません。それを言うなら、相手がにおいをかいだだけでもよだれが出そうになるのだから食べさせてあげようと思うのも優しさです。
その逆も、全く同じです。
あなたがピーマンが大好きでも、ピーマンが嫌いな同席者に「嫌そうな顔をされるとせっかくの料理がまずくなるからニコニコしろ」と強要する権利はありません。ニコニコして見守ってくれるのが優しさではないか…以下ずっと同じ。

「自分らしさ」の罠

女性の場合は外見や服装で、男性の場合は趣味嗜好や持ち物で、自分というものを表現しようとすることが比較的多いようです。
その時に多用される理由付けに「自分らしさ」とか「自分らしく」という実に不思議な言葉があります。
あなたは今そこに暮らしていて自分ではないと?

多くの場合…そう、おおよそ、半分くらいの場合、「自分らしさ」という言葉は、前段で述べた「だから」症候群です。自分らしさを主張しているのだから(根 拠無くそれは尊重されるはずだから)自分は相手に気遣いをしたり礼儀正しく振る舞ったりすることは頭から無視するからね!というわけです。
単に傲慢であるか、怠惰なだけです。

残りの半分くらいの場合「自分らしさ」という言葉は、他人に自分をどう見てもらいたいかということを意味しています。出来るならばより良いものとして見てもらいたい、ということも意味しています。
なにしろ「自分」ではなく「自分らしさ」なわけですから、その言葉がはっきりと表しているように、その考え方自体にすでにして曖昧で、架空、多分に演出的なのものが混じり込んでいるわけです。

「本当の自分デビュー!」という台詞のコンタクトレンズのTVCMがありましたが、あれは自分が自分自身を差別するというとても不思議な台詞です。
いや、コンタクトレンズをすることを選ぶのは自由です。
自分を他人にどう見てもらいたいかを自分で選択し、演出するのも自由です。
けれども、そこに「本当の自分」と「本当ではない自分」が存在しているわけではありません。他人に見てもらいたいと思う自分こそが本当の自分であるということも、ありません。

「自分らしさ」という言葉は、どこかに別の自分が存在している、そしてそれは何かしらより良い自分であるというような勘違いをさせる、とてもよくできた罠です。
商売のキャッチコピーに使われる場合には、コンプレックスを巧妙に刺激します。自己啓発の文脈で使われる場合には、まるで自分というスイッチが切り替え出来るものであるかのような偽りの安心感を与えます。
個性的であることは、より良い自分自身であるかどうかとは直接には関係ありません。

個性的であることそのものが評価されることはない

「歴史上類のないきわめて独創的な方法で犯罪を遂行した犯罪者」は、そのきわめて独創的な方法を思いつくためにきわめて独創的な思考方法やひらめきがあったに違いありません。その通りにやり遂げることが出来たということは、意志もきわめて強かったことでしょう。
もともと平均から大きく外れた個性を持っていたのかもしれませんし、なんとしてでも目的を達成しようと努力するうちに平均から大きく外れていったのかもしれません。
いずれにせよ、この犯罪者の場合最も大切だったのは自分の個性がどのようなものかということではなく、犯罪がやり遂げられるかどうかということだったでしょう。

何かを真剣にやり遂げようとすれば、おのずと自分なりのユニークな方法を編み出すものです。それが個性的な言動や外見を「結果として」もたらすかもしれません。もともと持っていた個性を目的に合わせてより上手に使うようになるために、個性が際だってくるかもしれません。
しかし、個性的であるから他人が何かを受け入れてくれるわけではありません。あなたがもたらすものを良いと思えば個性的な言動や外見もついでに受け入れてくれるだけです。

印象的であるということは、常に肯定的なわけではありません。
私がオレンジ色のモヒカン刈りで、額にバーコードのタトゥーを入れて現れ、でかいバッグからキティちゃん仕様のノートパソコンをさっと取り出して話を始め たら、多分きわめて印象的でしょう。多分多くの人が笑い出すか、逆に出来るだけ深く関わりにならないように曖昧に相づちを打って早く帰ってくれないかなぁ と思うでしょう。
モヒカン、バーコードのタトゥー、キティちゃんパソコンの三連コンボが受け入れられるものかどうかは、話の内容があなたにとってどれくらい有益かで変わります。
月並みな話であれば、二度と私の三連コンボは見たくないでしょう。一瞬にせよそんなことを忘れて聞き入るほどの話であれば、苦笑しながらも、次にあった時も受け入れてくれるでしょう。

仕事をしよう

ここまで読んでこられた方の中には、石塚は個性的なことが嫌いなのか?と思った方もあるでしょう。
とんでもありません。
個性的ということにまつわる傲慢と幻想を捨てるように勧めているだけです。

あくまでも「私個人は」ですが、スーツを着ていなくても下駄履きで現れても、髪がピンクでも舌にピアスをしていても、スケートボードで現れてもポルシェを乗りつけても、全くかまいません。
外見だけのことではありません。「ユウコリン」しゃべりで営業をしてくれたってかまいません。
それらを上回る仕事の出来であれば、どうだってかまいません。
多くの書店員さんからは「ふざけんじゃねぇよ」と猛反発を食らうでしょうが(笑)、それでもむしろ、そんなふうにして出かけて行ってもまともに話を聞いてもらえるほどの何かを自分が持っているのかどうか、チャレンジしてみてもらいたいくらいです。

個性を尊重すると称しながら「しかしTPOに合わせろ」だのという枠をはめようとする似非個性推奨派のことも、地味で控えめなことそのものがその人の個性なのに「もっと積極的に自分をアピールしろ」と勘違いの善意で強要する差別主義者のことも、気にすることはありません。
そんなことは全部忘れて、やり遂げたいことに打ち込む。

スポーツ選手が目標を達成したいと思えば自ずと独特の筋肉が発達します。それはスピードスケートの選手の太股のように、時としてきわめて印象的なものになることもあります。
しかし、直径何十センチの太股を持っていようとも速くないならなんの意味もありません。逆に速くなりたいがために結果として太くなってしまった太股は他人がどうこう出来るものではありません。
「名物」営業は、そうやって自然に出来上がっていくのです。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。