外側の思考

投稿者: | 2011年4月24日

液晶モニタとブラウン管モニタ

今更言うまでもないが、日本では年々人口に占める高齢者の割合が増えている。
私も歳を取ってきたから実感として分かるが、歳を取ってくると老眼が進み、小さな文字を見るのがつらくなってくる。また、そもそも目が疲れやすくなる。
パソコンにある程度以上の年齢の人が取り組む時、この問題は避けて通れない。
誰でも(特にパソコンの操作にある程度慣れてくると)広いデスクトップに複数のウインドウを開いたり、複数のプログラムを同時に起動させたりして効率よく 作業をしたくなる。そのためには画面の解像度を上げる。しかし解像度を上げると、相対的に表示される文字は小さくなるので、出来ればモニタそのものが物理 的に広いものが欲しい。
さてしかし、一般の家庭で17インチ(最大でも19インチ)以上のブラウン管モニタを設置するのは簡単ではない。場所がないという問題もあるが、実はそれが最大の問題ではない。
万が一そのモニタを動かさなければならなくなった時、ある程度以上の、体の弱った人間ではどだい無理だ、ということなのだ。実際に自分の腕で17インチ以上のブラウン管モニタを抱えてどこかへ設置したことのある人なら、それは実感としてすぐに理解できるはずだ。
だから、ある程度以上の年齢の人が広いデスクトップを手に入れたい場合には、液晶モニタの方が良い。おまけに同じインチ数でも液晶モニタの方がさらにすこし広いデスクトップを手に入れられる。さらに(原理的には)フリッカーが無いので、目も疲れにくい。
従って、液晶モニタは、何となく先進的で格好がよいというようなイメージにとらわれずに、事実の積み上げで考えれば、実際に消費のターゲットに定めるべきは若者ではなく、高齢者である、ということが分かる。
老眼が進行しつつあり、筋力が弱り、目が疲れやすくなってはいるが、知的な活動は衰えていない人々に最適なモニタは、液晶モニタである。

他人のことはすぐ分かるが…

上記のブラウン管モニタ液晶モニタの話は、けっこう多くの人が、簡単に納得してくれたのではないかと思う。100%正解だとは思わないまでも、どのような問題提起をし、それに対してどのように回答のひとつを示したか、ということだけは、少なくとも、理解はされたはずだ。
よその業界のことなら、このように冷静に判断できるものの、自分自身が身を置いている業界のこととなると、とたんに盲目になるのは人の常。
しかしより正確には「他人のことだから分かる」のではない。
上記の例のように自分が「利用する側」「消費する側」の立場にある時は分かる、ということだ。もしも自分がモニタを製造したり、販売したりする側にいたら、おそらくここまで割り切っては考えられないだろう。
新開発された技術で生まれてきたもの(受け入れられるのかどうかは別として、とにかく現に生まれてきてしまったもの)をどうやって売るか、という思考法し かもてないかもしれない。現行のラインナップが(長年続けてきた結果として)低コストになっているので、何とかそれを存続させていきたい、という視点から しか発想できないかもしれない。
それらは全て「内側の思考」である。
実際にそれを購入して使ってくれる「外側の思考」とは違う。

立てられる本、ばらせる本

私個人が、コンピュータ書を利用していて一番イライラするのは、それが扱いにくいことだ。コンピュータ書は一般に大判のものが多い。初心者向けのものの場 合には、画面キャプチャを多用するために必然的に大判になるし、やや上級向けのものもマクロのコードやコマンドラインがさっと一覧できた方が良いので、や はり大判になりがちだ(小さな本でコードが何ページにも分割されてしまうことくらいイライラすることはない)。
さて、初心者であっても上級者であっても、必要な時はPCを操作しながら本を参照することになる。私はそんな時、片手で本を支えながらページをめくり、コ マンドやコードを片手で打ち、必要が終わった瞬間にすぐそばのベッドの上にその本を放り投げる、ということを何度も繰り返している。
ムカつくくらい、非効率的だ。
そもそも片手でしかキーボードを打てない、という状態が、すでに許し難い。
しかし、モニタとキーボードを載せた机の上に、更に大判の書籍を広げておく余地などすでにないのだ。
その本が机の上に立ってくれると良い、と何度思ったことだろう。
立てられるということを最大の売りにしたコンピュータ書を開発する気のある版元さんはいないのだろうか?

「閉じない本」としてバインダ式の本が開発されたことは、悪くはなかった。それ自体の価値は、認める。
しかし、それ以来少しも進展がない。
コストが見合わないからかもしれないが、相変わらずバインダは簡単には取り外しが出来ない。バインダ式の本はなにも初心者向けに限るものでもない。やや専門的な本を読みたい熱意を持った素人のために、より進んだバインダ式の書籍を投入してもらいたいものである。
専門職ででもない限り大判のやや専門的なPC書を、どっかりとデスクにおいて熟読している時間は取れない。通勤途中の電車の中でも読み続けないかぎり自分 のスキルを高める時間がないのに、せめて章ごとにばらすことさえ出来ない。腕を鍛えるために持って歩いているわけでもあるまいに。
繰り返しになるが、電車の中で読めるようにと小型版にはして欲しくない。コードが分割されて(たとえば if で始まったものは遙かに離れた end if でようやく意味の通る閉じられ方をするのだから)あちこちを参照しながら読む時に無駄に手間が増える。大判のままでよい。
ばらせるコンピュータ書を開発する気のある版元さんはいないのだろうか?

外側の思考

上で、私はわざとかなりワガママなふりを装って二つの要望を述べた。
これは「利用する側」「消費する側」の思考だ。
外側の思考というのは、つまりは、たとえ自分がある組織に身を置いていても、自分があたかも部外者であるかのように正直に振る舞ってみる時に出て来るもの だ。今あるもの、今の組織内の状況、これまで組織が作り上げた来たもの、を「考慮する」することが少ないほど、外側の思考に近づく。
正直に言えば、上に述べた二つの要望にしても、随分と「業界」に長く身を置いているために、じゅうぶんにワガママではなくなっている。おそらく本当に「外側」にいる人の中には、もっともっと画期的な要望を持っている人がいるだろう。
従って、二つのことを真剣に行わなければいけない。
自分たち自身が出来るだけ外側の思考をするよう努力すること。
そして、本当の外側の思考を捉える機会を出来るだけ増やすこと。

組織の内側にいて外側の思考をするのは、とても難しい。
最大限努力してはいても、結局それはエセ外側の思考に過ぎない、という場合も多い。私自身、何度も何度もすばらしい思いつきだと思ったものが単に「内側」の延長に過ぎなかったと思い知らされてきた。
組織の中に、外側の思考をしやすい人間、ちょっとしたハズレ者、あれをしろと命令されたときに盲目的に従わない嫌な奴、を是非とも飼っておく必要がある。
その人間自身は、最悪の場合には、自分自身では生産物という意味での実績はさっぱり上げないかもしれない。しかし、おそらくその人間は、本当の外側の思考を耳にした時、敏感にそれと察して社内に伝えてくれるだろう。
そんな人間をフルタイムで雇っておく余裕はないというのなら、パートタイムでもいい。最悪、直接は組織に属さなくても良い。しかし、とにかく「外側の思考が必要だと思い立った時ではなくどんな時でも定期的にその人間の言葉に真剣に耳を傾ける必要がある。
「外側の思考が必要だと思い立った時」の99%は「内側の思考」から導かれた思いつきを検証したいだけで、本当に外側の思考に耳を傾けるつもりなどないからだ。
場合によっては不快に感じられるようなことにでも、また現時点ではとうてい実現が不可能だとはっきり分かるようなたわごとにでも、とにかく耳を傾け続ける 勇気がないのであれば、外側の思考を取り入れようと努力している、というポーズを取って「内側」で安心しているだけである。