書店人はどうしてまともな仕事が出来ないのか 続き

投稿者: | 2011年4月24日

あまりにアイテム数が多すぎる上に、それらの組み合わせのバランスなどを含めて一品一品に配慮するのが本来の書店人の仕事であるため、書店人は常に過剰な負担にさらされている、ということを前回はお話しした。
過剰な負担は、時間という側面と、精神という側面がある。
 
時間は、常に足りない。
上記したような非常に複雑で繊細なことを時間をかけて実行しなければ、本来は良い書店は出来ないとすれば、時間不足はとても大きなダメージになる。
これまでも何度か雑誌の付録問題を取り上げてきたが、ここでもそれを代表例として取り上げる。雑誌の付録を書店の店頭で組み込むことは機械化できない。ひたすら人海戦術に頼るしかない。ただもう無駄に時間がつぶれていくのである。

この言い方には暗に「雑誌の付録そのものに価値がないのであるから、それに費やす時間も無駄である」という考えが含まれているようであり、せっかく付録の企画に頭を絞った版元の関係者に対する侮辱である、と思われるであろうか?
…そうだ、と言いたいところだけれど、ほんの少し違う。
最近の女性誌には、特定の化粧品メーカーや百貨店と提携した事実上広告であるようなカタログ的付録が非常に多く見られる。読者がそれを(興味を持っている メーカーであった場合)喜ぶ可能性はあるということは大いに認めるので、その付録そのものに価値がないと決めつけることはしない。
しかし、おそらくこの企画は(実態を確認したことはないが)版元さんには経費面でかなり大きなメリットがあるはずである。制作経費が、最も少なくとも見積 もって「軽減」される、最大では「むしろ収入を得る」ということさえあるかもしれない。こういうやり方を最初に思いついた人はなかなか賢かったと思う。
しかし書店にとってはたったの 1 円のメリットもない。
自社の利益を得るための思いつきの実行を 100%小売店に押しつけるのはいかがなものであろうか?

その付録が好評であれば小売店にも売上げ増というメリットがあるのだから、非難されるのは不当だという反論もあるだろう。もっともである。
しかし、それをなぜ本誌内に綴じ込みで製本できないのか、あるいは簡単に取り外して小冊子に出来るような形にして読者の利便も図り、書店の負担も軽減するという形になぜ出来ないのか?
それでは結局経費がかかりすぎて、せっかくの企画のメリットが薄くなるかもしれない。
そうではあろうが、では、その部分の負担は書店に負ってもらおうという考え方のどこに正当性があるのだろうか。いや、そもそもそういうことまで思いをいたし、しっかりと計算をしてから企画を実行している版元さんはどのくらいおられるのだろうか?

よく知られていることだが、雑誌の多くは(全ては、とは言わない)その版元さんに経営的な余裕をもたらす。その余裕で書籍をある程度自由に制作する。
だが、雑誌の処理で書店人の時間を無駄に奪ってしまうと、結局書籍にかける書店人の時間がその分だけ削られてしまうのである。まわり回って、自ら首を絞めているのである。

雑誌の付録問題は、ひとつの分かりやすく目立つ例にすぎない。
かけてもかけてもつながらない受注センター、在庫照会と発注が連携しない二度手間、各社でフォーマットがバラバラで一括管理できないデータ、まるで知って いて当然というような高慢さで自社の ISBN コードの冒頭を載せていない注文書、一切連絡無く次の重版へ次の重版へと勝手に先送りされる受注品、などなどのありとあらゆることが、書店人の時間を奪っ ていく。
どのくらい奪っているか?
かつて複数の版元さんから、FAXによる情報提供に関して、どのようなフォーマットなら読んでもらいやすいか、どんな記事があって欲しいか、どのくらいの 文章量が適当か、などについて意見を求められたことがある。この時は出来るだけ具体的にお答えするように精一杯努力した。
しかし、現実には週の半分は強制的に残業しない限り FAX による情報を読んでいる時間さえない。書店の現在の現場は、そのくらい時間が無い。
哀れなくらい、時間が無いのである。

アルバイトを増やし、出来るだけ機械的な作業は彼らに任せるようにしたいのはやまやまだ。出来ることなら、とっくに実行している。だが、現実には出来ない。
冗談でたまに話すことがある。
書店を体験してみませんか?というキャンペーンをうって、一般の読者を書店業務の中へ無給の労働力として組み込んでしまえ、と。そうすれば書店業務の本当に重要な部分にかける時間が少しは生まれ、その上、書店でどのように振る舞えば効率よく求めるサービスが得られるかの啓蒙にもなるだろう、と。
やけくその、たちの悪い冗談ではある。
しかし、時々真剣に考えてしまうことがある。