いやな近未来小説:『新刊は出ません』

投稿者: | 2011年4月29日

20xx年、とある朝。
TVをつけるとNHKニュースでアナウンサーがこう言う。

「…これからの1年間、新しい出版物は一切出ないことになりました。では首都圏のお天気情報です。」

今日も蝉の声が、すでにうるさい。
見下ろす向かいのマンションの外廊下が真っ白に照り返している。

人々は新しい本をいっさい目に出来ない。
出版社は新刊を「回して」利益を得ることは出来ない。
書店は新刊を「追いかけて」利益を得ることは出来ない。
取次は新刊を「流して」利益を得ることは出来ない。
取次店を通していない版元は出してもいいとか、改訂版を作って流通させてもいいとか、そういうずるい抜け道も一切無い。
なぜそんなことになったのか、読者は知らされないまま『新刊は出ません』は突き進んでいく。…

新刊が無くてもいいかもしれない…

今の日本では、そんなことはまず起こらないでしょう。
けれどもここしばらく、「もしもそうなったら?」という空想にとりつかれています。
既存のものとは全く別の「出版」ビジネスを必死で考えて、ビジネスを存続させることを真剣に検討する方も沢山いると思いますが、個人的には実は…まあ、それでもいいか、と思ってしまったりします。
いや、もちろん良くはないことは分かっています、死活問題ですからね。
でも、いいんじゃないかとも、思うのです。
日本にはすでに有り余るほどの本があります。
長期の「品切れ重版未定」などの事実上入手できなくなっているものも含めると、本当に膨大な既刊の資産があります。
その中にはいつか読もうと思っていてもまだ読んでいないものが沢山ありますし、そもそも存在していることすら知らないものもそれ以上にあります。
いつか読もうと思っていたけれどこの新刊を先に読もうということであと送りにされていく本は、人々を惹きつける魅力という競争に負けた、ということになるのかもしれません。
存在すら知られない本となると、負けまくっている、ということになるのかもしれません。
でも新刊が全く出ないという(空想上の)想定をしてみると、新しいから読んでみる、という動機はなくなります。
「もうアレ読んだ?」という会話も成り立たなくなります。
『面白いかどうかは別としてアレはとりあえず』読んでおかなければという動機での読書も、新しく出たからという意味では、存在しなくなります。
個人的には、それはなんだかホッとすることです。

既刊は興味深い

堤防決壊のようなベストセラーを、実はリアルタイムではほとんど読みません。
出版業界の隅っこの方に身を置いている者としてそれは如何なものか、と眉を寄せる方もあるでしょうが、大抵は半年後や一年後にこっそり読みます。
世の中の移り変わりが激しい昨今の日本では、一年後には社会状況や風俗ががらりと変わっていることもあり得ます。
それでも読むに耐えれば、それは実際、大したものです。
大ベストセラー全体を否定的に見ているわけではありません。
大ベストセラーになったからには、多くの人の興味を引いた何らかの理由が確かにあるはずです。
また、何十年、何百年と生き残ってきた古典と言われるものの非常に多くは、発表当時(あるいは「再発掘」当時)ベストセラーになったからこそ世に知られ続けた、というのも事実です。
しかし一方では、ベストセラーがそのまま自然に、古典として定着するというわけでもありません。
私が十代の頃、つまり今から三十年ばかり前にベストセラーだったものの中には、すでに忘れ去られた(少なくとも今のところは忘れ去られてしまったように見える)ものも沢山あります。

赤頭巾ちゃん気をつけて赤頭巾ちゃん気をつけて
庄司薫
中央公論新社
たとえば、庄司薫の「赤頭巾ちゃん」シリーズなどは、まさにそうです。いまでも中公文庫で入手できますが目立つほどに話題に上ることはほとんど無くなりました。
語り口が軽妙な青春小説というだけのものだという評価もあり得る第一作ですが、シリーズ後半は思いがけない深みを見せます。
昭和三十年代の風俗が現代とあまりにも違いすぎて主要登場人物達に感情移入が難しいという大きな障害が立ちはだかっていますが、扱われているのは恋愛・死・思想・大人社会などかなり普遍的なものです。
それらを技巧を凝らしたあげくに力を抜きまくったかのように読ませる筆力はなかなかどうして侮れません。
実は村上春樹が、少なくとも初期の『風の歌を聴け』から始まる連作では、庄司薫の影響を強く受けているという研究もあったり、サリンジャーばりにすでに二十年以上も沈黙を続けておりマスコミなどにも一切姿を現さないなど、なかなかに興味深い作家ではあります。
もう七十代くらいのはずですが、このまま行くと次に世に広く知られるのは訃報に接した時かなどと失礼なこともつい考えてしまいます。
若い方には今ひとつピンと来ないかもしれませんが、石田依良の『池袋ウエストゲートパーク』が三十年後にも読み継がれているか、その頃真剣な評価対象になっているか、ということを考えてみるのと似たようなものです。

装丁も楽しい

本の内容に限らず、タイトルや装丁も本の楽しみであり、ベストセラーが生まれる後押しをしている場合もあります。
『窓際のトットちゃん』はあの装丁ではなくても売れていたことでしょうが、おそらく初速の食いつきは若干変わっていたことでしょ う。

ロシアに届かなかった手紙ロシアに届かなかった手紙
ウラジーミル・ナボコフ
集英社
もっと近い例で言えば、司修が(主に翻訳出版ものを多く手がける装丁家として)目立ってきた時には、司修が装丁をしているというだけでとりあえず手にとってみたりもしたものでした。
写真を大胆に使った装丁パターンは類似品を生みやすく、やがては当初ほどのインパクトはなくなっていくのは予測できたことですが、それでもナボコフの短編 集『ロシアに届かなかった手紙』の装丁などは、亡命ロシア人作家ナボコフの本質をとらえた見事な仕事だと思いました。(残念ながらもう古書でしか手に入り ませんが)。
ナボコフが好きで読み続けた来た人々で、あの装丁に不満をおぼえた人はあまりいなかったのではないかと思います。

インディヴィジュアル・プロジェクションインディヴィジュアル・プロジェクション
阿部 和重
新潮社
さらに最近の例では、阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』の常盤響の装丁を見た時、ああ違う時代が来たな、と感じました。目を奪われました。
意地の悪い言い方をすれば、いかにも今風。
深読みされることを意識的に拒むようなポップさ。
生活感は無いけれど、グラビア・アイドル的な作り物めいたものではない「生もの」感だけはたっぷりある。
一見「自然体」風でありながら、実は計算され尽くした過剰なまでにコマーシャルな写真です。
しかし、好き嫌いは別として、阿部和重というちょっとだけ分かりにくい作家の独特のバランス感覚を見事に表現した装丁ではありました。

手間暇のかかる愛情

さて。
この「暇なオジサンの独り言」のような話はいったい何なのだ?
いやな近未来小説:『新刊は出ません』となんの関係が?
本には様々な楽しみ方があり、あれこれ考え合わせれば楽しみはつきないけれど、新刊の洪水にさらされているとその大部分を忘れてしまいがちだ、ということです。
何十年も前の本へ遡って楽しんでも良いし、作家同士の影響やひそかなオマージュの捧げあいを探ってみるのも一興。装丁と作品、そして時代との関係に思いをはせてみても実に面白い。
けれども今、一冊一冊の本にそのような手間暇のかかる愛情を注いで取り扱っている人が、特に出版に関わる業界の内部に、どれくらいいるでしょうか。
書店員さんがPOPひとつ書くにしても、版元の営業さんが書店員さんに勧めるにしても、そして取次店さんが仕入れを決めるにしても。
とてもそんなことはしていられない。現実的に不可能だ。
ええ、その通りでしょう。
特にあらゆるものを取り扱う取次店さんや、あらゆるものが流れ込んでくる書店さんの現場では、間違いなく、不可能でしょう。
けれども、一読者が一番幸せなのは多分そんなことをしている時でしょう。

無礼な企業にならないで

取り扱う全ての出版物一点一点に、手間暇のかかる愛情を注ぐのは、もう今では不可能です。
とても残念なことですが、今はもう不可能になったという現実は、認めないわけにはいきません。
それを認めずに理想だけを追い求めれば、おそらくその人は遠からず体を壊すか心を病むでしょう。
しかし、これまで何度か言ったことですが、せめて本を読む人々のじゃまをしないという、消極的かもしれないにせよ最低限のルールは固持したいところです。
自分個人が読み終えてもいないのに、単に目立って売れてくれればよいという動機しかないようなPOPは、あえて作らない。
「何万人が感動した」などという意味がありそうで実際には内容が何もないキャッチコピーは使わない。
中途半端で浅薄な知識や情報しか身につけていないのに、個性的と称する棚配置や品揃えを誇示しない。
せめて自分の担当範囲の商品は実際に中身を見る。
…これらのことが実践できない職場環境であるなら、職場環境そのものを見直す。
これらのことを「無視してもかまわない」と思うのは、出版物を楽しむことに愛着を持っている人々に対して、あまりにも無礼です。

既刊は大事です

もしも新刊が全く出ないことになったらと空想して、既刊のひとつひとつをどう取り扱うか考えてみてください。
そういうつもりで、実際にあなたが扱う出版物のひとつひとつを見て、触ってみて下さい。
「本当はしなければいけなかった」はずのことが、その時いくつも思い浮かぶはずです。
出版物全体の売り上げを「押し上げる」ことには確かに「最新刊」や「ベストセラー」が大きな影響力があります。
しかし、どの地点から「押し上げる」のでしょう?
最新刊でもなく、ベストセラーでもない、既刊の売り上げが形作っている売り上げの上限、からです。
既刊の売り上げが多ければ多いほど、新刊やベストセラーに頼らなくてもやっていけます。
逆に言えば、既刊の売り上げだけではやっていけないのであれば、すでに根本的に経営が破綻しています。そこまで大げさに言い切らないまでも、新刊の出来不出来に経営の土台が文字通り振り回される状態が永久に続くことになります。
現実には(出版社さんにしろ書店さんにしろ)既刊だけで、大儲けは出来ないまでも「食ってはいける」状態にはなれないところもある、ということはよく分かります。
しかし、既刊の売り上げをふやす程良い、ということは変わりません。
『新刊は出ません』の主人公になったつもりで、既刊をどうするかちょっと考えてみませんか。

その後は皆さんが

今回はやや軽めにお届けしてみました。
いつもは、出来るだけいろいろな角度から問題を眺め、ひとつひとつ検証していくような書き方をするよう努めています。
長いのはまあ許すとしても、ただダラダラと長いだけだ、などというような状態では最悪ですからね。
でも、場合によってはそれが、私個人が主張したいことを補強するための「一人ディベート」のような状態になってしまっていることも、ないではありません。
自分で読み返してみて、いささか強引だなぁ、と思う時もたまに…。
そんなわけで今回は、いやな近未来小説:『新刊は出ません』のその後は、皆さんにお任せすることします。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。