「あざとい」と言われたあの若輩者

投稿者: | 2012年2月18日

昔、店長を務めていた書店の一店舗を評して「あざとい」と言われたことがある。
非常に小さな店舗だけれど立地はそこそこ良くて来店客が多いので多様な要望に応えるために小さな坪数でできることを工夫しなければならなかったし、近くに競合店が幾つもあったのでやはり負けないようにかつ上手に棲み分けるように頑張らなければならなかった、というようなわけで、いろいろと知恵を絞っていた。
あざといと評した人ははっきりと否定的なニュアンスでその言葉を使ったのだが、当時の自分は「『あざとい』と言われるなら商売人として褒め言葉だ」と開き直って笑っていた。

本心でも、そう思っていた。
書店を「商売」として捉えることの大切さを信じていたし、理想を掲げたいならまずはその店舗が赤字で潰れてはならない、お客様に「よろこんでいただく」という抽象的なことではなく「買っていただくことで支持を明示していただく」必要がある、と思っていた。
お客様がものを買って下さるには様々な理由があり、全部が全部「この店の品揃えに満足!」という理由で買って下さるわけではない。なんとなく買ったり、場合によっては仕方なく買ったりすることさえある、ということはもちろん当時の自分も分かっていた。
それでもある程度の満足や喜びを感じつつ、本当にお金を出して購入していただくところまで持っていかなければ、結局自分にとってもお客様にとっても自己満足やなれ合いに過ぎなくなる、と考えていた。
基本的に、今でもこの考えは変わっていない。

ただ「あざとい」と言われたことに関しては、ごく最近になって、まあそうだったかもしれないなぁ、と思うようになった。
あざといという言葉には、ぬけめないとかがめついとか、もっと極端に商売のやり口がいささか悪辣だ、というような意味合いがあるが、この部分だけであれば、当時も今もそう評されたことに対して、さほど胸は痛まないし腹も立たない。
しかし、あざといという言葉には、思慮が浅いとか、小賢しいというようなニュアンスもある。

そう、小賢しい、ね。

多分、当時の自分はそうだったろうな、と思う。
どんな考えで何をやっているかが、分かる人にとってはあまりにも見え見えの状態だったのではないかと思う。
それどころか「さあどうです、思わず買いたくなるような楽しい企画でしょう?」と棚が大声で言っているような、そういう状態だったのではないかと、思う。まさに、小賢しい。
今の私がそんな店舗を見たら苦笑いまちがいなしだ。
確かに見事に気持ちがいいけれど、サビのあたりがあまりにも「売れるだろう感」に満ちている曲を耳にして「悪いとは言わないけど、あざといねぇ」と思うのと同じだ。

つまり、お客様に対する本当の心遣いにまだ欠けていた、当時は。
まだまだ若輩者で申し訳ありませんでした、ということだ。

自分がやってきたことが「全体として」今も正しいと思っている場合、その過程でやってきた個別のことをあらためて批判的に考え直すのはけっこう難しい。しかし、それが出来ないなら、どうにかこうにか社会を生き抜いたバカが過去の自分の全てを無批判に「成功事例」として語ってしまうのと変わらない。
気付くのにいささか時間がかかったとしても「ああ、あの時の自分は恥ずかしい奴だったんだ」とはっきり認められる方がましだろう。