お金という「象徴」と「ありがとう」

投稿者: | 2012年7月22日

先週、上記のようなツイートをした。
何が言いたかったか必ずしも伝わっていないかもしれないので、補足してみる。

発端はそんなにたいした話じゃない。
書店店頭で人手不足になるとあちこちいろいろ手抜きになったりするけれど、レジを開けないでおくということは出来ない。レジが開いていないとお客さんが購入してくれようとしても出来ないのだから、これはあり得ない。
しかしその一方で、必ずレジをあけておかなければならないがそのために今日入ってきたあそこの荷物を開けて展示できないまま時間が過ぎる、ということも、残念ながらある。
あそこに○○の補充が入ってきている可能性があると思うのだが、レジを離れられないので開けに行けない。結果として、絶対必要な仕事をしてはいるのだが、お客さんをもっと喜ばせてもっと売上も上がる状態には出来ない、というおかしなジレンマに落ち込むことがある。

これは結局、会計処理をすることに常に100%人間が従事している、ということから起こっている。
会計はセルフレジにしてしまって、その分の時間を書店員は品出し、展示、そしてほんとうの意味での接客に充てるという考え方も、理論上はあり得るよね、と思った。
人手不足が深刻化する一方だから、思い切ってそういう面で工夫を試みる書店が現れてもいいかもしれないな、ということ。

この考え方そのものは間違っていないと思うけれど、それでもどこかに抵抗感が残る。
機械的な作業である会計処理を人間がするのをやめようと言っているだけで、問合せを受け付けるな、とか、そういうことを言っているわけではない。むしろ書店員は自由に動ける時間が増えるわけだから、可能性としては、いままでよりさらに丁寧に個別の接客ができるようになる可能性さえある。
それなのに、どうしてもどこかに抵抗感が残るな、と思ったら、その原因が多分二番目のツイートで触れている「ありがとう」問題だった。
ツイートでも言っているように「ありがとう」は販売側から購入者に対しての一方通行ではない。
お金の受け渡しという「象徴行為」を通じてコミュニケーションする双方向の行為なのだが、レジという物理的な場所で人間同士が対面しないと、これができるタイミングがなくなってしまう。

なんというか、客と書店員が「交流する」とか「仲良くする」とか、そういうホンワカお花畑な話をしたいのではない。
今では殆どの人はものやサービスを「買う」わけだけれど、それは高度に抽象化されているだけで、もともとは「自分がこれこれのことをするから、かわりこれこれをしてくれ(あるいはこれこれをくれ)」という行為をしているわけだ(自分はあなたのために薪割りをしたから、あなたが作ったその塩漬け肉を分けてくれ、とかね)。
だからそこには実は常に「いや、断る」という反応が返ることもあり得る。
「いや、断る」という反応が返せないのは、奴隷、あるいはそれに近い立場に置かれている人間だけだ。
お金という抽象的だけれど全員で付き合うことに決めている象徴は、非常に便利だ。しかし、それに慣れすぎた結果として「金を払っているのだから文句を言うな」というような錯覚が生まれてくる。つまり、不思議なことに、奴隷や不自由民が圧倒的に減ったはずの現代の方が、奴隷的なサービス提供を求めて当然だという勘違いは増えているのだ。
そしておそらくその勘違いは、ネット上で決済が機械的に完了することが多くなった便利な昨今、ますます加速されているような気がする。

多分、いちいち人間とコミュニケートしないとものを買うことも出来ないなんて面倒でストレスがかかるから嫌だ、という人もすでにかなりたくさんいるんだろうと思う。
でもそれを100%求めるなら、それは自分の周囲が全部自分の奴隷になればいいと望むのとたいして変わらない。
あえてそれでもいいと思うなら、自分も他人からはそうとしか扱われないということを受け入れることでもあるということにも、思い当たって欲しいな、と思う。

つまりね、「ありがとう」は人間を奴隷から開放する言葉なんだよ。