私は彼女に笑っていてもらいたかった

投稿者: | 2014年10月11日

ずっとAndrej Pejićが好きだった。実に不思議で、興味深く、楽しかった。
今年彼が性別適合手術を受けてAndreja Pejicとなったことを知った時、一時的に非常に興味が薄れた。
「そうか、とうとうただの女性になったのか」と思い(ひどい言い草だ)、女性モデルとして見た場合、どちらでもないかのようなAndrej Pejićだった時と同じくらい好きかどうか、微妙な気持ちになった。いや、正直に言えば、それほどでもないような気持ちになった。
そして当然のように気づいた。
私は結局はAndreja Pejicをそういうちょっとふつうではないものへの偏見をもった興味で見ていたのであり、Andreja Pejicを一個の人間として、ひとつの独立した人格として、尊重はしていなかったんだな、と。

これは私にとって、かなり残念な経験だった。
私は自分を比較的偏見が少なく、また、他人を尊重する人間だと思っていた。
でも、Andrej Pejićのことはそういうふうには見ていなかったことが明らかで、このビデオの中で彼女が泣いている姿を見て、私も本当に自分が情けなく、悲しい気持ちになった。
彼女には笑っていてもらいたかった。

そんなことを、何日もかけてぼんやり考え、自分の情けなさを自分に飲み込ませ、受け入れさせようとしていたある日、電車の中でまた別の、でも似たような自分に直面した。

チャードル姿のとても若い女性、多分まだ高校生になるかならないかくらいの女の子が、たまたま乗り込んだ電車の同じ扉口で私と並ぶ形になった。彼女はとても疲れているらしく、少し顔色も悪く、扉の窓ガラスにじっと顔を向け、立ったまま眠りかけるようにしばし目を閉じたりしていた。
彼女は多分なれない環境で疲れていたんじゃないかと思う、肉体的にも、精神的にも。単に疲労しているというより、なんだかちょっと心を閉ざして思いつめているような感じも受けた。

そんな彼女の横顔を見ていた時にふっと、「もし彼女がいま自爆テロをやろうとしていたら、この近距離に立っている自分はまず間違いなく助からないな」などということを思った。そんなことを思った自分にびっくりしたが、びっくりしたあとで、そんなふうに特定の文化圏の人を型にはまった偏見で自分も見てしまうことがある、ということを受け入れるほうがいいな、と思った。
もちろんそういう偏見が良いという意味ではない。そんな偏見はいままでも、これからも、かけらも持ったことがありません、というきれいごとの自分でいるよりもそういうこともあり得る自分を受け入れてしまったほうがいいな、と思ったという意味だ。

おそらくは単に疲れているかわいそうな女の子に過ぎない彼女の隣でそんなことを考えていた事自体がすでに申し訳ないことだけれど、あえて想像を続けてみた。
もし私が今本当にそういうテロに巻き込まれて命を落としたら、たとえば私の妻は、その後一切の偏見をもたずに残りの人生を生き切ることができるだろうか。いや、妻のことは分からないが、逆の立場だったら、おそらく私は怒りと、そして恐怖から完全には逃れることは出来なくなって、頭では分かっていても、そういう服装の人を反射的に避けるようになってしまうのではないだろうか。偏見をもたずに生きるのは理想だけれど、多分、それは実行不可能に近い難題になってしまうのではないだろうか。
そうやって果てしない憎しみと偏見が恐怖に裏打ちされて積み重なっていってしまうんだな、と分かった。

まあ、本当に私がすべきだったことはそんな想像をしながらテロの連鎖の考察をすることではなく、彼女が笑顔になれるような何かをしてあげることだったのは間違いない。
でも、電車の中の見知らぬおじさんがどう彼女を笑顔にできるかは実に難しい問題だ。
難しいけれどそうすべきだったということは分かっていて、そして、やっぱりとてもとても難しい。