普通の人は自分が強者として発言しているとは思っていない

投稿者: | 2016年3月5日

これは基本的には、しかたがないことだと思う。
闘ったり、非難したりしようとは思っていない。

プロボクサーやプロレスラーが、あるいはお相撲さんが、自分は平均よりはるかに強いということを自覚せずに、力の加減をせずに何かをして一般人が怪我をしたら問題視される場合の方が多いだろう。
けれども、そういった肉体能力を活用したプロフェッショナルではないごく一般的な人が、ごく一般的に行動して、ごく一般的に発言しているかぎり、普通の人であるということは「強者」でもあり得る、とはほとんど思わないだろう。そんな自覚はしないし、周囲もあえてそういう自覚を求めない方が普通だろう。

しかし、普通の人でも相対的には強者になり得るし、相対的に自分が強者であるという自覚なく行動している時、相対的な弱者を傷つけることはある。
たとえば自分がまだ若く、相手が老人で、まったく悪意もなく軽くぶつかったり、軽く体を掴んだりしたら、相手が転んでしまったり骨折してしまったりすることがある、というような例。
自分自身が老いてみないとほとんどの人は直感的には理解できないが、ある程度以上の年齢になるとそれまでは自然に、あるいは、素早くできていたことがどうしても出来なくなる。20年前なら全く、何一つ問題にならなかったであろう軽い接触(お互いに「あ、失礼」「いえいえ」で済んでいたであろう接触)が、転倒やその結果の骨折に発展する可能性が出てくる。
この時必要なのは、老人は自分から見ると相対的に弱者かもしれないので、相対的に強者である自分の側が配慮した方が、比較的簡単に双方幸せになれる、という判断だ。
なぜ相対的強者の側が配慮した方がいいかといえば、「ぶつかりそう」という瞬間に素早くよけられるのは強者の方でしかないから。
その配慮を拒否するのであれば、相対的弱者である老人は道を歩くな、外に出てくるな、ということになり、老人という存在は世の中にとって邪魔で無価値な否定的存在であるという差別に、結果として繋がっていくかもしれない。

さて、ここまではそんなに難しくないと思う。
肉体的に弱り、敏捷性が衰え、しかもそれは人間がだれでも平等に辿り受け入れなければならない歳を重ねることによるもの、という分かりやすい条件なので、それなりに多くの人が理解はできると思う。「いつかは自分もそうなるかもね」という仕方で理解し、受け入れることができる可能性が高い。

次にとりあげるのは、「体が弱い」だ。
ここらへんから、理解の敷居が上がり始める。
老いるということのように、どんな人にも平等に訪れることではないので、いつかは自分もそうなるという理由で他人に配慮する動機がない。
体が丈夫な人でも、病気をすることで、擬似的に体の弱さを経験することは出来る。でも、病気は、普通は一定期間後には治る。体の弱さは、原則として、治らない。

私は、少し体が弱い。
私自身が弱いので、私よりも更に弱い人が沢山いることは分かっているが、ともあれ、普通よりも少し弱い。
例えば、胃が弱い。
普通とは何かという定義は難しいけれど、胃について言えば、毎日三食食べて普通に消化出来てそれ以上これといって問題は起こらないのが、多分普通なんだろうと思う。つまり、食べることに関しては「お腹がが空いたので、食べた」という以上のことが何も起こらないのが、普通の胃の強さなんだろうと思う。
普通の人もたくさん食べ過ぎた時にちょっと苦しかったり、脂っこいものを食べ過ぎてもたれたりすることはあるかもしれない。
胃が弱いと、特に大量に食べたりしなくても、それどころか注意して脂っこすぎるものを避けるようにしているにもかかわらず、胃がもたれたり、痛んだりすることがある。しかも、週に何度もある。少なくとも、私の胃はそういうものだ。
胃が弱い人間はそういう状態でずっと生きている。私自身の記憶では、毎日食事をしていて胃が不調で無かったことは、人間がもっとも元気に溢れているらしい中学生の頃くらいしかない。その頃は自分に胃が存在しているということをいちいち意識しなくても、ただ食べているだけで済んだ。それ以外は、そうではなかった。
そういう胃で暮らしていることに対して、同情をもらいたいとは思っていない。なぜなら、それは私が持って生まれたもので、絶対に変えようがないことなので、それはそういうものとして生きていくしかないからだ。

胃が弱いと「元気をつけるために大量に食べる」という手法が使えない。大量に食べると結局消化しきれないだけでなく、胃腸を痛めてしまって元気になるどころかもっと弱るはめになるかもしれない。だから、やや少なめだけれど消化が良くて栄養バランスがとれたものを選んで食べることを習慣にするように努力する。こういうことを「健康に気を使っていてえらい」と誤解されたり、あるいははめを外すことがなくてつまらないと思われたりすることもたまにあるが、当人にとってはそのどちらでもない。必要だからそうしているだけだ。「普通の人」と一緒に生きていく時に問題になるのは、そこではない。
普通の人は時々楽しみとして大食いしたり、夜遅い時間に脂っこいものを食べたりすることがある。それに付き合うように誘われた時が、とても、困る。
普通の人は私が日常生活を送れるように上記のような食生活をしていることをもちろん知らないし、普段は知ってもらう必要もない。しかし、ここでむちゃ食いにつきあうと体調をくずし明日出社できなくなるかもしれない、という問題がある。今この瞬間の「つきあいの楽しさ」を優先した結果翌日仕事で迷惑をかけるというのは困る。
こういう時に、体が弱いことがいささか困るわけだ。
そして(さすがに今はもう私自身がいい歳なので、そんなことを言われることもなくなったが)こういう時「若いんだからそのくらい食べられるでしょ」とか「男なんだからガッといけ」とか明るく言われたりすることがあるが、いやすみません若くても食べられないんです、とはなかなか正面切って言いにくい。
この時普通の人が、相対的な強者として、普通である自分ができることは君も当然出来る、という発言を相対的な弱者に対してしているのだが、ほぼすべての人はそんな意識はもっていない。分かっていてそういう発言をする人はほとんどいない。みな、悪意は全くないのだ。

しかし相対的な強者としての発言が、相対的な弱者を傷つける、という図式はすでにここにある。
「自分は他の多く人と同じようにごく普通にこれこれのことをやっているので、君にもそうしてもらいたい。え?出来ないの?」
たとえば胃に関して言えば、どんなに「努力しろ」と言われても、出来ないことは決して出来ないのだ。
自分が出来ても他人にはできないことがあり、それは当人のやる気や努力では解決できない場合がある、ということを理解するのは、実はけっこう難しいことだ。

肉体的なことから、話が頭や心へ移ると、理解の敷居はさらに上がってしまう。
ずっと昔から「足が長い/短い」と全く同じように「頭が良い/悪い」は持って生まれたもので、基本的には本人にはどうしようもないのだと、機会がある度に控えめに主張してきたが、じゅうぶんに分かってもらえたことがあるとは思えない。
足が短くても、努力して素早さを身につけることで速く走れるようにはなるかもしれない。それは、本当だ。でも、全く同じレベルの素早さや技術を身につけた、より足の長い人には、おそらく負けるだろう。それでもさらに超人的な努力を重ねてまた勝つということは、可能性性としてはあり得るし、かなり多くの人がそのような努力をした人をハンデを努力で克服したとして賞賛する。しかし、そもそもは超人的な努力をする必要があったのは足が短いということが原因で、その原因そのものは決して消えない、ということには、あまり目を向けない。努力さえすれば誰でもなんでもできるようになるという幻想だけが残る。
頭がよいか悪いかも、基本的には変わらない。
多くの人は平均的な知能以下の人に大変つらくあたる傾向がある。たまたま自分が、統計的に平均的な知能の範囲にふくまれるので「多数派」であるというだけなのだが、その平均より少し下の人々に対して「努力すれば」「訓練すれば」平均と同等の思考・判断のことが誰でもできるようになるに違いない、という大変強いプレッシャーをかけ続ける。
背の低い人に対して、努力すればどんな人でもこの高さの棚に置いてあるものは簡単に取れるようになるのだと言い続けているに等しいのだが、かなり多くの人がそうは思っていない。そんな無茶を主張しているとほとんど意識さえしない。

普通の人であることそれ自体も、本人がどうこうできるものではなくたまたまそうなったことなのではあるけれど、普通の人であること、多数派であること、はよほど気をつけていないとそのことに鈍感になり、気づかずに相対的な弱者を傷つける言動を沢山しがちになる。
多数派であるから正義であるということ「さえ」ない、ということにも、人はあまり気づかない。
多数決も、正しさは決めない。
多くの人が右利きなので右利き用に設計された道具の方が圧倒的多いが、それは右利きがなにか「正しい」ということは示してはいない。ただ単に利用する人が少ないので左利き用の道具があまり作られないということしか、示していない。

こんなことを言っている私自身が普段はそもそもいろいろな面で「普通」だと思っているのだから、実は誰でも可能性としては相当な強者だと思ってみた方がいいかもしれない。
幼い子どもが自分と同じスピードで走れなかったり、自分と同じ大荷物を持てなかったりしても、怒って殴りつけたりはあまりしないだろうが、そのように、強者としての自分はどう振る舞ったらいいのか、一日だけ「自分はなにかスーパーヒーローみたいなすごい強者だ」と思い込んで過ごすという遊びでもしてみると、いいのかもしれない。
相対的な弱者の立場に自分を置いてみるというのは、案外難しい。つい「いや自分はそんな大したものじゃないし…」とむしろ自分自身が弱者ではないのか、などと考えてしまうから、本当の弱者の上に立ちはだかる似非弱者という面倒くさい存在になってしまいがちだ。

挨拶がわりに不用意に知り合いの肩を叩いたらスーパーヒーローである自分の手は知り合いの肩を打ち砕いてしまうかもしれない、などと考えてみる遊びの方が分かりやすいかもしれないし、多分、その方が楽しい。

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