特別より成熟がいいな

投稿者: | 2016年3月13日

何かが特別なものになりはじめたら、それは日常自然に消費されるものではなくなったということでもある。
書店へ行くことが価値ある特別の体験だという発言や記事が増えてきたような気がして、それはつまり、まさにひとつの時代が終わったということなのかもな、と思う。
そのような発言や記事が本当に増えてきたのか、数字を調べていないからなんとも言えない。ひょっとすると(「最近の若者は」のように)はるか昔から言われ続けてきたのかもしれない。
でも増えたような気がするし、数として実際には増えてはいないのであれば、私が無意識にそのようなフィルターを自分でかけて世の中を見ているということだから、つまり世間はどうあれ、私は勝手にそう感じているということだ。

書店へ行くことが特別なことだ、という言い方は、あまり好きではない。
その先に待っているのは、守るべき(守らないと絶えてしまう)文化という扱いとか、助成金を得て存続している伝統芸能とか、そんなようなものへの仲間入りかもしれないし。

少なくとも、紙の本を持ち歩くということは、私も減った。
昔はほぼ365日外出する時には常に本を持っていた。財布を持つように、必ず持っていた。多くの場合、ジーンズの後ろポケットにジャケットを外した文庫本を突っ込んでいた。
今は、ほとんどの日はスマートフォンしか持たない。電子書籍で本を読んでいるから。
読みにくいとか、紙の手触りがなつかしいとかは、実はほとんど思わない。ちゃんと読めるし、ちゃんと楽しめる。
たまに章扉部分の凝ったデザインが作り込んだ一枚絵のままでしかもリーダーで拡大できないので判読できない時に、顔をしかめる程度だ。そんなことも、やがて時とともに解決されていくだろうと思っているからことさら電子書籍の批判をする気は無い。

だからあいかわらず毎日なにかしら本といえるものは読んでいるが、少なくとも外出している時は紙の本ではないことの方が、もう多い。
欲しい本が紙でも電子でも出版されていたら、自動的に電子を買うことが年々多くなった。
そもそも紙の本ばかりを買っていた頃も、実は単行本と文庫本があるなら、文庫本を買っていた。なぜなら(安いからではなく)それならジーンズのポケットに突っ込んで持って歩けて常に読み続けられるからだ。私はつまり、物体としての本が好きだったのではなく本を読むことが好きで、可能なら一日中どこでも読み続けたかったというだけのことだったのだ。
電子書籍の方が文庫本よりさらに持ち運びが手軽なら、それはもう仕方がない。

べつに取ってつけたように持ち出すわけではないが、オンライン書店のインターフェイスは今でもさっぱり良くなっていない。
見づらいし、探しにくいし、本の喜びを感じさせる工夫がまるで足りない。そこには、実店舗の書店が長年やってきた「スペースが限定されているからこそ、限定されたスペースに何を、何と関連付けて、どうディスプレイするか」という自然な必死さがない。
ずっと昔「本は置く、のではなく、ディスプレイするのだ」と書店員だった私は言い続けていたが、今も、そう思っている。
「置く」というのは「在庫する」ということで、それは倉庫の発想だと思っている。本は「在庫する」ものではない、と思いながら書店で働いたものだった。
オンライン書店にはその点での必死さが足りないと、今もとても不満に思っている。

けれども、私自身にしてからが次々電子書籍を買ってしまうようになった今、実店舗の書店はそういう「今も本は好きだし、実際沢山買い続けている人々」をどう扱い、また、それと同時に実は売上の大きな部分をしめていた「なんとなくぶらっと入って、待ち合わせや時間つぶしに使っていただけだが、ついでにちょっと買ってくれていた人々」をどうしたらいいのか、という問題に対応するのが結局手遅れになりかけているのではないか、と思わないでもない。
書店について(実際にその経営に関わったことのない人は特に)一緒くたに論じてしまうことが多いけれど、上に挙げた「本大好き」な顧客層と「なんとなくTVを見るのと同じ程度の雑な関心で本を扱う」顧客層は違い、実店舗の書店はその二つの客層をあわせもつことで支えられてきた。
書店を訪れるのが特別な体験です的なアプローチは後者に対するもので、元々本が好きでたまらない人々はそんなことは今も昔もよく分かっている。

そんなこんなをつらつらと考えるに、結局書店業は時代に合わせて成熟しなかったのかもしれないなぁ、と心配になる。実店舗の書店は変化についていけていないし、一方オンライン書店は書店を名乗るにはいまだに目を覆うレベルの低さだ。
あるいはどちらも、これからようやく成熟していくのだろうか?
そうだといいが。

特別になるより、成熟した日常になってほしいな。