物語消費論的に、最近なんとなく思ったこと

投稿者: | 2016年9月10日

auのいわゆる三太郎シリーズのCMは楽しいし、よく出来ていると思う。
なんとなくその場の思いつき的なノリで話が展開したり、「そういうことになっていたんだということにしても…まあ悪いわけではないよね」というような変なこだわりエピソードがあったり、というような面も、実のところ背景に日本の昔話という「世界」を想定して、その世界を自由に歩き回ってみたらそういう「趣向」もあり得たという結果だから、いい加減なようで妙にリアリティがある。
(「世界」「趣向」は歌舞伎の概念で。たとえば、参照:歌舞伎への誘い | 歌舞伎の作劇法)。
だからauの三太郎シリーズはしごくまっとうな物語創作の原理原則にのっとっていて、それを現代の質の高い映像表現を使って展開したら当然面白かった、という成功例と言ってしまっていいんだろうと思う。

で、私自身このCMシリーズがけっこう好きだということは全面的に認めるけれど、じゃあ携帯キャリアとしてのauという商品(サービス)にどのように貢献しているだろうかと考えると、今度はちょっと首を傾げてしまう。
もともと三太郎でいいんじゃないか、というのはau=英雄というただもうベタなダジャレから出ていて、後付でいろいろ言うことは出来るにしても、auとあの物語世界のつながりになにか必然的な強さがあるとは思われない。
とてもよい物語世界創作を現代社会で行った企業であるauに対する好感度はあきらかに上がったはずだし、そのことはauに損ではないけれど、じゃあ三太郎シリーズを見てauと契約して使いまくりたくなるのかと言われれば、少なくとも私自身は、それは無いなとしか言えない。
せいぜいが、三大キャリアのどれでもいいけれど買い替えを検討しているという時、明らかにauに対する好感度のバイアスがかかった状態になるというアドバンテージが得られる程度だろう。もちろんそれでいいのだけれど、その程度しか日本の三大キャリア間のサービスの差はないということでもあるし、そもそも三太郎CMはサービスそのものを直接物語化はしていない、ということでもある。

さて、auの三太郎CMシリーズがまっとうで、しごくよく出来た物語創作の体現化だということに気付く一方、ここしばらくすっかり歳をとったおじさんである自分が、コミックやアニメの「流行り」にリアルタイムでついていけなくなっているなぁ、ということも感じている。
テレビでリボンの騎士や鉄人28号が最初に放映された頃から見はじめた筋金入り世代ではあるのだが、実は「オリジナルをさがして安心したがる」癖がついてしまっている。昔々は問題はさして複雑ではなかった。手塚治虫がコミックスを書き下ろせばそれがまず間違いなく唯一無二のオリジナルであり、そのアニメ化は直線で結ぶことができる分かりやすい派生だった。
その後もライトノベル(のさらに初期時代で実はまだライトノベルという用語が定着していなかった頃)のオリジナル原作があり、そのコミックへの展開は「コミカライズ」という直線で結ぶことができるものだった。
ある時期からこの直線関係が崩れ始め、あるオリジナル原作がコミカライズされたり、ノベライズされたりするのではなく、一気に全てが出てきたり、アニメとノベルとコミックで全部微妙にエピソードが異なっているのに全部公式公認だったりというようなことが起こるようになった。
その時、時代遅れになりつつあるおじさんである自分は「えーと、どれがオリジナル原作なのかな。まずそれから見なくては」と思ってウロウロしている間に祭りに乗り遅れるということが増えた。
気付くべきことは、今目の前で展開していることは「趣向」であり、「世界」を推察すべきだということなのだが、幼かった頃についてしまった癖はなかなか抜けないもので、最初の一歩を踏み出そうとする時に思わず戸惑いながら足踏みしてしまう、というようなことが自分に起こるようになってしまったわけだ。

いつ頃からかなぁと思い返してみると、もしかすると「涼宮ハルヒシリーズ」の頃からかもしれない(ずいぶん前だな。10年以上前だ)。
オジサンどころかオジイサンと言ってもいいような歳としてはけっこういろいろ読んだり見たりしているのだが、そのほとんどが半年から場合によると数年遅れだったりする。(これは理屈ではなく、単なる想像だが)ある程度時間が経った後で、展開された様々な「趣向」の中で最も高い評価が定着したものを「疑似オリジナル」として受け入れて安心したがっているのではないか、と自分を疑っている。
おかげで(最近の例で言えば)「ラブライブ」も「東京喰種」も「シドニアの騎士」も全部出遅れた。「シドニアの騎士」などもともと弐瓶勉が今ほど一般に受け入れられていなかった頃から大好きだったのに、アニメ展開されたものがあまりにもあっさり広く世間に受け入れられている様子が不審でならないというどうにもひねくれた腰の引け具合でしばらく見なかったというもったいなさ。

背景に「世界」を置いて前面では(世間へ出すものとしては)「趣向」をばらまくというやり方があまりにも増えてしまったので、分かりやすい「世界」へのヒントがあからさまに見えすぎているとか、実はろくに「世界」もないのにあたかもそれがあるかのように変に凝った「趣向」だけが独り歩きするとか、つまり我々が楽しむべきもの自体が薄っぺらくなってきてしまっていないか、ということを言いたくなる時もある。
しかしでは昔は全ての作品(表に出てくる「趣向」)が今よりレベルが高かったのか、と冷静になってみると、そんなことはないな。うん、ない。「黄金バット」とかひどかった。おもしろくはあったけれど、なにもかも笑ってしまうほどいい加減な設定で、そもそもあの気持ち悪い造形の黄金バットがなぜ美少女に絶対的な信頼を置かれるヒーローなのかきちんと説明できる人は当時でも誰もいなかっただろう。
まあ、昔は黄金バットの世界設定で100もの別の作品が量産されることはなかったわけだけどね。

そんなこんなで、最近

  • 「物語」「趣向」という組み合わせを最大限活かしたものが増えたよね。
  • でもそのことと、広告でのストーリーマーケティングと言われるやり口って、実はちょっとずれちゃってない?
  • 歳とり過ぎたら素早く展開されてるいろいろについていけなくなってきたみたいだけど、もしかしたらそれは、物語消費論の話とは関係なくてただ興味の瞬発力が衰えただけかもね。

みたいなことを思った、という話。

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