ikimono

1月 242009
 

昨夜のINC、会そのものもなかなか面白かったと思うのだけれど、なんと言っても二次会の上海小吃の4階がすごかった。あの部屋にあがったということだけで昨夜はみんな参加した価値があった。
わけの分からない造りの建築物の夢をよく見る私としては、階段を上りながら自分の夢の中にいるかと思った。

5月 292008
 
多くの方に不義理していたり、つきあいが悪かったり、メールの返信が遅かったり、といろいろとご迷惑をかけているような気がするので、一度はっきりとお詫び表明をしておきます。
今、首の左のつけねあたりの骨がずれてしまっていて、それが神経にさわり、痛みとしびれで哀しいことになっております。
少しずつは良くなってきているのですが、躰を姿勢良く伸ばしたり、首をまっすぐに立てたり出来無い。一日中しばしば左腕の指先まで痛みとしびれが走る。等々、なかなかつらい状況です。

実は長い時間立ったままだったり、歩いたりしなければならない通勤時間が一番つらかったりしますが、会社へ行かないというわけにもいかないのでこれは仕方ありません。
電車の中ですっかり痛めつけられてしまい、駅から会社へ向かう道を「お前はLか(←デスノートの)」というような強烈な猫背でうつむいて歩いていたりします。

そんなわけで、どうか諸々、ご勘弁下さい、
関係者各位。

5月 052008
 
つい今し方まで(この記事を書いているのは2008-05-05の20:32:25)、冗談ではなく、明日が平日だと信じていた。やる気100%で明日の朝渋谷の法務局の渋谷出張所に寄ってから出社するつもりだった。
うにゃー。

予定が狂ったなぁ。
仕事が嫌いなくせに仕事する気満々の勘違いをするとは、不覚。

5月 032008
 

昨年の春に建築物の夢という記事を書いているが、その後気づいたことがある。
そのあとも少なくとも3回建築物の夢を見ているが、どれも共通してエレベーターが目立つようになってきていた。
それ以前の建築物の夢では階を移動することがあっても階段を使うか、エレベーターに乗っても乗っている間のシーンは省略されていた。

エレベーターが目立つようになったと意識できる夢を、振り返るとかなりはっきりとしたものをひつつ見ていたことに、今なら気付く。
かなり大きなマンションに住んでいるらしいが、エレベーターはそのマンションの真ん中を貫いている東京タワーをそっくり小さくしたような赤い鉄塔の中に収まっていて、エレベータに乗ると周囲にはスカスカの鉄骨ばかりが見えるという夢があった。
このエレベーターに乗り込むためには、ロの字になっているマンションの外廊下からさらに内側の鉄塔に向かって、いかにも無骨な滑り止めの凸凹がついている 分厚い鉄板の踏み板を渡って行く必要がある。その踏み板部分は四方の外廊下から入ってこれるように鉄塔の周囲をぐるりとかなり広く取り巻いていて、隙間か ら見上げたり見下ろしたりすると、各階の踏み板部分が延々と続き、豆粒のように小さなエレベーター待ちの人の姿も見えたりする。
今これを書いていて思い出したが、実はこの鉄塔エレベーターはある高さ以上にまで昇ると実際にはマンションそのものの高さを突き抜けて越えてしまい、そこ から横移動出来るようになっているのだった。ある階以上で特定のボタン操作をすると、エレベーターのかごがモノレールのようなものにガタンと乗り移って全 く別の所へ移動していく。
ただし、私の夢はいつでもそんな風だけれど、この先には何も話せるような「出来事」は起こらない。何度もだらだらと、この奇妙なエレベータで昇ったり降りたり横移動したりしてみているだけだ。
エレベーターの窓はちょっと埃に汚れていて汚い。

 この時の建築物の夢のエレベーターは、大きな鉄塔という大げさな姿以外には、実はあまり面白みがない。
次に見た夢のエレベーターは、いったん乗り込むと外側に通ずる扉が完全に消えてしまうというような凝った仕掛けつきだった。
こちらの舞台は厳密には建築物ではなく宇宙船なのだが、乗り込んでしまうと迷うほどの相当の大きさなので建築物の夢のバリエーションだと考えてもいいかも しれない。そもそもは(なんだかは分からないが)何かひと仕事終えて深夜バスでその場を離れようとしている大勢の内の一人なのだが、その深夜バスがかなり 大型で乗り込み口へは地表付近からエレベーターに乗って上昇することになっている。大型のトラックの運転席がかなり高かったりするが、それがもっと極端に なって地面との差が相当にあるのでステップではなくエレベーターを用意してある、というような感じに思ってもらうといい。
乗り込んでしまってからそれが深夜バスなどではなく宇宙船であることに気付くはめになるのだが、エレベータに乗り込んだ時点で、たった今乗り込んできたは ずの扉が素早く何度か折り畳まれるような動作をしたかと思うと、小さな窓だけ残して壁だけになってしまう。機密性も異様に高く、外でかなり大勢が騒いでい る姿は相変わらず見えるが、音は全く聞こえなくなる。
無意味だとは思うが、かなりきれいなLED風のライトがいつの間にかエレベーターの内側にたくさん、静かに脈打つように光っていたりもする。
そして、乗り込んだのとは逆の、背後側に新しく扉が開くと宇宙船に足を踏み入れたことに気付く、というわけだった。
ちなみにこちらの場合も私の夢の約束通り、宇宙船に乗り込んだあとは快適そうな席を見つけようとしながら延々と部屋から部屋へ移動していくだけで、疲れてちょっと憂鬱な気分になりかけているけれど、とくに何も起こらない。

更に、ごく最近見たエレベーターが関係する建築物の夢は、エレベーターそのものがさらにクローズアップされていた。
というより、エレベーターに乗っている時間の方が圧倒的に長く、建築物の中を動き回っている時間がほとんど無かった。
巨大な、おそらく60階かそれ以上あるビルのようだったが、エレベーターにはそもそも全部の階を示すボタンがない。現実のエレベーターでよく見かけるボタ ンが並んでいるパネルのあたりに、立体的にこちらに向かって突きだしている操作桿と、そこに一緒についているかなり大きめの液晶パネルがある。パネルには 十数階から二十数階あたりまでが表示されているが、いかにも「途中部分を適当に示しています」という感じが漂っているおおざっぱな表示。
そして、思い出すと苦笑されられることに、操作桿をぐいっと上へ持ち上げると液晶パネルには「もっと上? Yes | No」という表示が現れる。Yesを選ぶと階数表示そのものは示されないまま、かなりのスピードでしかし非常に滑らかに、エレベーターは最上階に近いあた りまで昇っていく。
最上階に近いあたりのどこかの階に着いてちょっと降りてみると、真新しい水色と白のストライブの布で張られた椅子と同じテーブルクロスのかかったテーブル が沢山並んだ、準備中の屋上レストランのようなところだった。いくら何でも60階近い(と夢の中では漠然と分かっている)ところで外気に向かって開いてい るレストランというのは危険ではないのかな、などと思ったりするが、すぐにまたエレベーターに戻って別の階へ移動し始める。

実は、この時のエレベーターがとても広い。
四畳半程度はじゅうぶんにある、つまり、丸一部屋分くらいの空間がある。
暗くて艶深い木材ですっかり内装されているように感ずるが、よく見ると全て金属。すみずみまで丁寧に仕上げられているのでいかにも金属を感じさせるような 角張った所はひとつもない。あらゆる部分が控えめなアール・ヌーヴォー風にかすかにうねりを描いている。ちょっとエクトール・ギマールの建築物も思わせ る。
少し暗い金色の装飾が、細かく、あちこちにほどこされている。
そんなエレベーターに乗って、ゆっくり静かに、昇ったり降りたりして、たどり着いた階を時々のぞき見ているだけ。
というわけで、この三つの夢を見比べていくと、建築物の夢の中でのエレベーターの存在がいつの間にか大きくなってきていることに気付く。
今はそれに、何の意味があるのかさっぱり分からないけれど。

1月 072008
 

身内にさえもごく冗談めかして一二度予告しただけという程度だったから、誰一人本気にしていなかっただろうと思うが、年が変わると同時に、本当にたばこをやめた。
あと2ヶ月で50歳になるので、逆算してみたら30年間も続けてきた習慣をあっさり捨てたことになる(まあ、30年だということにしておこう、公式にはね)。
そう考えると、何十年の経験だとか、この道一筋何十年だとか、たいしたことじゃないなぁ。
重要なのは長さじゃないという正論はみんなも分かってはいるけれど、一応「敬意を払う」お約束になっているわけだけどね。

まあ私は30年間毎日ひたすら煙と灰を作ってきただけで、このことでは文字通り何一つ生み出さなかった。何か有益なことを身につけたわけでもなかった。だからこれは経験ではなく、単なる習慣だった。その通り。
それにしても、やはり30年間も続いてきた習慣が実にあっさり失えるものだという事実には、なにかしらこっけいな虚しさがある。
もうちょっと禁断症状に苦しんだりすれば何か意義ある闘いをやったという幻想をもてたかもしれないが、そういうものも無かった。

べつに大げさにするつもりもないが、思わずこの30年間を振り返り、煙と灰を作り続けてきたように、自分がやってきたこともたいしたことでもなかったなと思った。
社会に出てからのほとんどの期間を総括する感想としてはいくらなんでもという気もするが、実際、そう思った。

とても否定的あるいは後ろ向きと思う人もあるかもしれないが、私にとっては、そうでもない。もしも自分が「この30年間自分はささやかながらも世間に貢献した」とか「あれやこれやは誇りの持てる実績だ」とか言い始めたら、多分すごく気持ちが悪いだろうと思う。
たいした人生じゃなかったと言える方が、いくらかはましだ。

1月 052008
 

去年の後半は、実際、大変だったなぁ、と今更ながら書いてみる。

 夏を過ぎたあたりから体調が崩れ始め、やがて精神的にも壊れてきた。

肉体的にだめになってきたのは単純に運動不足というかトレーニングをしないで自分の体を放置しすぎたから、ということにつきる。
運動不足で太るということよりも(もちろん、ほんの少しは太るが)とにかく筋肉が落ちて行ってしまうということの方が個人的には大問題で、意識的に筋肉を いじめる「トレーニング」を継続的にしていないと本当に体調がおかしくなる。単純そのものの例で言えば、腹筋や背筋が衰えていくので腰が痛くなりやすくな るとか、そういうこと。やがてそれが全身のありとあらゆる不調につながっていくわけだけれど、これはあるレベルを越えると自分でもはっきりと感じられるく らい体が壊れていくのが分かってぞっとしない。
自分がそんな状態だったとき、世間では某隊長のトレーニングが大人気だったのは、今振り返ると皮肉だ。

どっちが先か、ということを今になってつらつら考えてみても仕方がないが、ひょっとすると体が壊れ始めた時にはすでに精神的にも壊れ始めていたのかな、と いう気もしないでもない。もともと弱い体を努力とメンテナンスで保たせているということは、しばしば他人にも公言しているほど分かり切っていることで、か なりひどい状態にまでなっているのに本気でそれを回復させることに取り組まなかった自分というのが、すでにかなり怪しい。
他人の言動に、内心では真剣にいらだっていながらその実それを相手にきちんと伝える努力は放棄してしまっていたり、毎日、吸血鬼に吸い取られているかと思 うほど生命力全体が低下しているとしか言いようのない疲労感にとらわれていたり、というようなあたりは、ある種典型的なうつ症状の例でもあり、まあ、結局 そういうことの積み重なりだったんだろうな、と。

そんなこんなで、年末の休みに入ってから、仕事のことを意識的に考えず、筋力トレーニングを再開し、メンテナンス・モードを続けてきたけれど、こうやって外に向かって何かを書く気分にまで回復するのに今日までかかった。
うーむ、思っていたより、かかった。
うーむ。。。

1月 052008
 

そういえば昨日、ここでだけ有名なあの床屋へうっかり行ってしまった。
当たり前だが昨日はまだ正月も4日。いわゆる地元商店街的なご商売の方々は最低でも5日までは店は開けないはずで、当然ながら床屋へ行くつもりは全くなかった。
ところが偶然通りかかかると店を開けていたので、ついフラフラと吸い込まれ「今年初めての客だ。おめでとう」とか言われている自分がいた。

年始めの最初の客が私だったという、なんというか運命的なナニに興奮したのか、おやじさんはいきなりヘアカットの専門雑誌を複数引っ張り出してきて、私の 髪の刈りかたのどういうところを工夫しているのかということを説明し始めた。あきらかに一人で数メートル先を走っており、私がめがねがないとろくにものが 見えないということも忘れている。やおら私が、いったんはずして置いためがねを取り上げ直して雑誌を覗き込むと、ちょっとばつが悪そうに一瞬口が止まった が。。。でも、最初からページをめくり直して、もう一度全部、語ってくれた。
ふむそうかね。よく分からないが、どうもありがとう。
それにしても「こういうのは、悪くないんだけれど×××の部分はお客さんには合わないと思うんだが」云々と指さすカットモデルが明らかに20代だと思わないか、おやじ。
「今は×××は切らないで、セットだけであれするのが」云々と最近の流行にも無知ではないことを示すのも、探求心・好奇心をいつまでも失わない素晴らしいところだが、その時指し示している写真はいわゆるジャニーズ系的な髪型だということが私にも分かるのだが、その辺はどう思っているのだ、おやじ。
さらに「うーむ、似合う人には似合うんだろうが、それより実際にああいうふうに髪を垂らしていると鬱陶しくないもんかねぇ」と、やや何か返事しておかなくては的な感じで私が返すと「うん。今お客さんいいこと言った!」という断言でその話(ジャニーズ系的髪型の話)がばっさり切り捨てられてお仕舞いになったのにも、ちょっとびっくりしたんだがね。

たぶん、この年末年始で一番楽しかった。

1月 052008
 

1回読むと「案外いいんじゃないか」と思える。
2回読むとやたらと細かな言い回しなどが気になり、ダサいなぁと思う。
3回読むといいのか悪いのかよく分からなくなる。
5回くらい読むと、ある意味飽きてしまうせいもあってようやく冷静になり「ここははっきりした理由があって改行しているのだがそれが理解されていないのか、それとも分かっていてもあえて必要ないと判断しているのか、どっちなんだ?」と編集者のメモに頭をひねる余裕が出てきたりする。

まあ、改行なんてどうでもいいのかもしれない。
しかしそれが文章全体のリズムを作る要素のひとつであり、書かれていることが論理的に正確かどうかよりも「ここに溜めがあるかどうか」の方が、個人的にはずっと重要に思えたりする場合がある。
なぜそんなことがそんなに気になるんだろうと思いながらゲラを読み直し続けていたが、ここには絶対に溜めが必要なんだ、と思う部分というのは、例えば私がセミナーの講師として話しているような時には必ず、話すスピードをゆっくりにして強調したり、間をおいたり、身振りを添えたりする部分なんだな、というこ とに気づく。
とはいえセミナーの講師などを始めるずっと前に書いた文章もいくつもあるので、講師の仕事が文章に影響したわけではない。それ以前からずっとそうやっていたことになる。
多分「呼吸と文章」なんだろうな、と思う。
文章を書いていて迷ったら音読する。音読して一番自然に感じられたものを最終稿に残す、ということをいつもするので、自分の文章というのは、使っている単語や言い回しが文語なのか口語なのかに関わらず、ある種の言文一致なんだろうと思う。

さてそれでだ。
そのことが重要なのかどうかというと、私にとってはやっぱり重要なのだと思う。それがあるから、私の、文章。より上手に書けるかどうかという議論は出来るけれど、私の文章であるという印がついているかどうかはそういう呼吸で決定的に決まってしまうので、それを取り替えることは出来ないんじゃないかと思う。
文章(文体)は模倣することが出来、とても上手く模倣すれば私が書いていなくても私の印がついている文章ができあがるのは事実。だから、誰某の文体と称するものに必要以上に価値をおこうとするのは、感情的な思い入れにすぎないという冷静な見方もある。
でもね、残念ながらそれは実際に他人の文体をいくつも、真剣に模倣してみたことがない人の空論。
実際にやってみれば分かるけれど、文体は思考の仕方そのものに影響する。少なくとも、ある情景を目にしたとき誰某ならどの部分に着目し、一段落の何割くらいをその件に費やすだろうか、というような、世界のとらえ方の癖のようなものは、文体をまねし続けているだけで分かるようになってくる。
そういうもの。

などとなんだか非常に偉そうに、こだわりに満ちてゲラを読んでいるかのようなことを言っているけれど、
えー? どっちにするとか聞かれてるけど正直どっちでもいいんじゃない?
なんかすごーく細かく直しが入っているけど、そもそもこの段落丸ごと削除しちゃえば?
とか思うところも、たくさんある。
つまり私がこだわるところと、編集者がこだわるところが相当に違う。
せっかく他人の目で見てくれているのだから真摯に耳を傾ける気持ちは大ありなんだけれど、そもそも「どっちでもいいんじゃない?」程度にしかその部分に重要性を感じていなかったりすると、なぜそこにこだわったのか訊いてみようと思うこと自体が、ちょっと億劫だったりする。
そんなことではいけないのだが、それがちょっとだけ、本音だったりする。