4月 292011
 

20xx年、とある朝。
TVをつけるとNHKニュースでアナウンサーがこう言う。

「…これからの1年間、新しい出版物は一切出ないことになりました。では首都圏のお天気情報です。」

今日も蝉の声が、すでにうるさい。
見下ろす向かいのマンションの外廊下が真っ白に照り返している。

人々は新しい本をいっさい目に出来ない。
出版社は新刊を「回して」利益を得ることは出来ない。
書店は新刊を「追いかけて」利益を得ることは出来ない。
取次は新刊を「流して」利益を得ることは出来ない。
取次店を通していない版元は出してもいいとか、改訂版を作って流通させてもいいとか、そういうずるい抜け道も一切無い。
なぜそんなことになったのか、読者は知らされないまま『新刊は出ません』は突き進んでいく。…

新刊が無くてもいいかもしれない…

今の日本では、そんなことはまず起こらないでしょう。
けれどもここしばらく、「もしもそうなったら?」という空想にとりつかれています。
既存のものとは全く別の「出版」ビジネスを必死で考えて、ビジネスを存続させることを真剣に検討する方も沢山いると思いますが、個人的には実は…まあ、それでもいいか、と思ってしまったりします。
いや、もちろん良くはないことは分かっています、死活問題ですからね。
でも、いいんじゃないかとも、思うのです。
日本にはすでに有り余るほどの本があります。
長期の「品切れ重版未定」などの事実上入手できなくなっているものも含めると、本当に膨大な既刊の資産があります。
その中にはいつか読もうと思っていてもまだ読んでいないものが沢山ありますし、そもそも存在していることすら知らないものもそれ以上にあります。
いつか読もうと思っていたけれどこの新刊を先に読もうということであと送りにされていく本は、人々を惹きつける魅力という競争に負けた、ということになるのかもしれません。
存在すら知られない本となると、負けまくっている、ということになるのかもしれません。
でも新刊が全く出ないという(空想上の)想定をしてみると、新しいから読んでみる、という動機はなくなります。
「もうアレ読んだ?」という会話も成り立たなくなります。
『面白いかどうかは別としてアレはとりあえず』読んでおかなければという動機での読書も、新しく出たからという意味では、存在しなくなります。
個人的には、それはなんだかホッとすることです。

既刊は興味深い

堤防決壊のようなベストセラーを、実はリアルタイムではほとんど読みません。
出版業界の隅っこの方に身を置いている者としてそれは如何なものか、と眉を寄せる方もあるでしょうが、大抵は半年後や一年後にこっそり読みます。
世の中の移り変わりが激しい昨今の日本では、一年後には社会状況や風俗ががらりと変わっていることもあり得ます。
それでも読むに耐えれば、それは実際、大したものです。
大ベストセラー全体を否定的に見ているわけではありません。
大ベストセラーになったからには、多くの人の興味を引いた何らかの理由が確かにあるはずです。
また、何十年、何百年と生き残ってきた古典と言われるものの非常に多くは、発表当時(あるいは「再発掘」当時)ベストセラーになったからこそ世に知られ続けた、というのも事実です。
しかし一方では、ベストセラーがそのまま自然に、古典として定着するというわけでもありません。
私が十代の頃、つまり今から三十年ばかり前にベストセラーだったものの中には、すでに忘れ去られた(少なくとも今のところは忘れ去られてしまったように見える)ものも沢山あります。

赤頭巾ちゃん気をつけて赤頭巾ちゃん気をつけて
庄司薫
中央公論新社
たとえば、庄司薫の「赤頭巾ちゃん」シリーズなどは、まさにそうです。いまでも中公文庫で入手できますが目立つほどに話題に上ることはほとんど無くなりました。
語り口が軽妙な青春小説というだけのものだという評価もあり得る第一作ですが、シリーズ後半は思いがけない深みを見せます。
昭和三十年代の風俗が現代とあまりにも違いすぎて主要登場人物達に感情移入が難しいという大きな障害が立ちはだかっていますが、扱われているのは恋愛・死・思想・大人社会などかなり普遍的なものです。
それらを技巧を凝らしたあげくに力を抜きまくったかのように読ませる筆力はなかなかどうして侮れません。
実は村上春樹が、少なくとも初期の『風の歌を聴け』から始まる連作では、庄司薫の影響を強く受けているという研究もあったり、サリンジャーばりにすでに二十年以上も沈黙を続けておりマスコミなどにも一切姿を現さないなど、なかなかに興味深い作家ではあります。
もう七十代くらいのはずですが、このまま行くと次に世に広く知られるのは訃報に接した時かなどと失礼なこともつい考えてしまいます。
若い方には今ひとつピンと来ないかもしれませんが、石田依良の『池袋ウエストゲートパーク』が三十年後にも読み継がれているか、その頃真剣な評価対象になっているか、ということを考えてみるのと似たようなものです。

装丁も楽しい

本の内容に限らず、タイトルや装丁も本の楽しみであり、ベストセラーが生まれる後押しをしている場合もあります。
『窓際のトットちゃん』はあの装丁ではなくても売れていたことでしょうが、おそらく初速の食いつきは若干変わっていたことでしょ う。

ロシアに届かなかった手紙ロシアに届かなかった手紙
ウラジーミル・ナボコフ
集英社
もっと近い例で言えば、司修が(主に翻訳出版ものを多く手がける装丁家として)目立ってきた時には、司修が装丁をしているというだけでとりあえず手にとってみたりもしたものでした。
写真を大胆に使った装丁パターンは類似品を生みやすく、やがては当初ほどのインパクトはなくなっていくのは予測できたことですが、それでもナボコフの短編 集『ロシアに届かなかった手紙』の装丁などは、亡命ロシア人作家ナボコフの本質をとらえた見事な仕事だと思いました。(残念ながらもう古書でしか手に入り ませんが)。
ナボコフが好きで読み続けた来た人々で、あの装丁に不満をおぼえた人はあまりいなかったのではないかと思います。

インディヴィジュアル・プロジェクションインディヴィジュアル・プロジェクション
阿部 和重
新潮社
さらに最近の例では、阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』の常盤響の装丁を見た時、ああ違う時代が来たな、と感じました。目を奪われました。
意地の悪い言い方をすれば、いかにも今風。
深読みされることを意識的に拒むようなポップさ。
生活感は無いけれど、グラビア・アイドル的な作り物めいたものではない「生もの」感だけはたっぷりある。
一見「自然体」風でありながら、実は計算され尽くした過剰なまでにコマーシャルな写真です。
しかし、好き嫌いは別として、阿部和重というちょっとだけ分かりにくい作家の独特のバランス感覚を見事に表現した装丁ではありました。

手間暇のかかる愛情

さて。
この「暇なオジサンの独り言」のような話はいったい何なのだ?
いやな近未来小説:『新刊は出ません』となんの関係が?
本には様々な楽しみ方があり、あれこれ考え合わせれば楽しみはつきないけれど、新刊の洪水にさらされているとその大部分を忘れてしまいがちだ、ということです。
何十年も前の本へ遡って楽しんでも良いし、作家同士の影響やひそかなオマージュの捧げあいを探ってみるのも一興。装丁と作品、そして時代との関係に思いをはせてみても実に面白い。
けれども今、一冊一冊の本にそのような手間暇のかかる愛情を注いで取り扱っている人が、特に出版に関わる業界の内部に、どれくらいいるでしょうか。
書店員さんがPOPひとつ書くにしても、版元の営業さんが書店員さんに勧めるにしても、そして取次店さんが仕入れを決めるにしても。
とてもそんなことはしていられない。現実的に不可能だ。
ええ、その通りでしょう。
特にあらゆるものを取り扱う取次店さんや、あらゆるものが流れ込んでくる書店さんの現場では、間違いなく、不可能でしょう。
けれども、一読者が一番幸せなのは多分そんなことをしている時でしょう。

無礼な企業にならないで

取り扱う全ての出版物一点一点に、手間暇のかかる愛情を注ぐのは、もう今では不可能です。
とても残念なことですが、今はもう不可能になったという現実は、認めないわけにはいきません。
それを認めずに理想だけを追い求めれば、おそらくその人は遠からず体を壊すか心を病むでしょう。
しかし、これまで何度か言ったことですが、せめて本を読む人々のじゃまをしないという、消極的かもしれないにせよ最低限のルールは固持したいところです。
自分個人が読み終えてもいないのに、単に目立って売れてくれればよいという動機しかないようなPOPは、あえて作らない。
「何万人が感動した」などという意味がありそうで実際には内容が何もないキャッチコピーは使わない。
中途半端で浅薄な知識や情報しか身につけていないのに、個性的と称する棚配置や品揃えを誇示しない。
せめて自分の担当範囲の商品は実際に中身を見る。
…これらのことが実践できない職場環境であるなら、職場環境そのものを見直す。
これらのことを「無視してもかまわない」と思うのは、出版物を楽しむことに愛着を持っている人々に対して、あまりにも無礼です。

既刊は大事です

もしも新刊が全く出ないことになったらと空想して、既刊のひとつひとつをどう取り扱うか考えてみてください。
そういうつもりで、実際にあなたが扱う出版物のひとつひとつを見て、触ってみて下さい。
「本当はしなければいけなかった」はずのことが、その時いくつも思い浮かぶはずです。
出版物全体の売り上げを「押し上げる」ことには確かに「最新刊」や「ベストセラー」が大きな影響力があります。
しかし、どの地点から「押し上げる」のでしょう?
最新刊でもなく、ベストセラーでもない、既刊の売り上げが形作っている売り上げの上限、からです。
既刊の売り上げが多ければ多いほど、新刊やベストセラーに頼らなくてもやっていけます。
逆に言えば、既刊の売り上げだけではやっていけないのであれば、すでに根本的に経営が破綻しています。そこまで大げさに言い切らないまでも、新刊の出来不出来に経営の土台が文字通り振り回される状態が永久に続くことになります。
現実には(出版社さんにしろ書店さんにしろ)既刊だけで、大儲けは出来ないまでも「食ってはいける」状態にはなれないところもある、ということはよく分かります。
しかし、既刊の売り上げをふやす程良い、ということは変わりません。
『新刊は出ません』の主人公になったつもりで、既刊をどうするかちょっと考えてみませんか。

その後は皆さんが

今回はやや軽めにお届けしてみました。
いつもは、出来るだけいろいろな角度から問題を眺め、ひとつひとつ検証していくような書き方をするよう努めています。
長いのはまあ許すとしても、ただダラダラと長いだけだ、などというような状態では最悪ですからね。
でも、場合によってはそれが、私個人が主張したいことを補強するための「一人ディベート」のような状態になってしまっていることも、ないではありません。
自分で読み返してみて、いささか強引だなぁ、と思う時もたまに…。
そんなわけで今回は、いやな近未来小説:『新刊は出ません』のその後は、皆さんにお任せすることします。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 282011
 

書店が嫌いだという声

最近、書店店頭がおしつけがましくて嫌だという話を、直接聞いたり、インターネット上の日記やブログの記述を目にしたりすることが妙に多くなりました。
具体的には「プロモーションビデオやBGMがうるさい」「誇大なPOPの乱立が目障り」「本の装丁が派手で見ていて疲れる」等々。
本が好きで本屋へ行くけれども、それらが不満で早々に出てしまうようになった。
本屋が好きだったけれど、あまり行きたくなくなってきた。
などの具体的な行動の変化を語る方もあります。
ごく一部の人々の意見、という見方もあります。
けれども、ごく一部にしろ以前よりあきらかに増えてきているようであれば、それは背後に発言しないまま同じ思いを持っているかなりの数の人がいる可能性がある、ということでもあります。

不満を伝えてくれるとは限らない

有償のサービス(物品販売ももちろん含まれる)に対して、誰でもがストレートに苦言を呈してくれるわけではありません。
サービスを提供する側に立っていると「苦情がなければ満足している証拠」と思いがちですが、もちろんそれは勘違いです。
あなた自身が自社以外のサービスを利用する時のことを考えれば、苦情を伝えないことと満足していることは全く違うとすぐ分かりますね。

何か不満を感じたとしても、それがわざわざ言い立てるほどのものではない「小さな不満」だと思えば、あなたはおそらく口に出さないでしょう。
このサービス・この商店・この施設を使うことが今のところどうしても必要だから、小さな不満はあってもとりあえず使い続ける、ということになります。

非常に大きな不満を感じたり、きわめて不快な思いをしたりすればそれをサービス提供側に伝えることはあるでしょう。
しかし、一切それを伝えずに「見限って」同等のサービスを提供する別の業者に無言で乗り換えるということもあるでしょう。
小さな不満が改善されずに度重なる。
あるいは、サービス内容がよりいっそう悪化したり、改悪されたりして小さな不満の種がむしろ悪化していって大きな不満になってしまう。
そういう道を辿ると、非常に多くの場合、ひと言も言わずに去っていくことになります。
なんだか苦言を呈するタイミングそのものを見つけらないまま、気が付くとそのサービスを利用することをやめてしまっていた、という場合さえあるでしょう。

「小さな不満」は小さくない

「小さな不満」は、本当は「小さい」「些細なもの」ではありません。
「小さな不満」とは、自分が得られる利益と不満を秤にかけた時、どっこいどっこいになりかけているけれど、まだわずかに利益の方が多い、という状態です。

いろいろな問題点が「数え上げれば」存在しているサービスであっても、得られる利益が非常に大きい時には気になりません。大量の満足感が不満を圧倒しているからです。
「小さな不満」を感ずるようになるのは、すでに満足感が不満を圧倒するほどではなくなっているからです。秤がどっこいどっこいにじりじりと近づいている時「小さな不満」を意識するようになります。
つまり「小さな不満」とは、実のところは「かなり大きな不満」なのです。

なぜ不満が増えるのか

さて。 話を書店店頭に戻しましょう。
「書店も商売なんだからしょうがないじゃん」
こういう意見は非常に多いと思います。
一見正論です。
しかし、上に述べた「小さな不満は秤がどっこいどっこい」ということをよく考えれば、正論ではない、ということが分かります。相対的に、利益が不満を上回らなくなって来ているからそういう声が出てくるのです。
利益が不満を上回らなくなって来ているなら、そもそも商売としてすでに失敗しかけているわけですから、「商売なんだからしょうがない」は通りません。
なぜ「秤がどっこいどっこい」になるのか、ということには幾つか原因が考えられるでしょう。

  1. 相対的に、書店に本来求められるサービスが低下する
  2. 誤った行動をしていることに気付かないままそれを繰り返す
  3. 本は読んだり考えたりするものだという根本を忘れている

 

相対的に、書店に本来求められるサービスが低下する

この場合の具体例は、多くの方がすぐに思いつくでしょう。
そうです。「店員が本を知らない」「品揃えが貧弱」「棚構成が意味不明」等々、ここであらためて繰り返すまでもないことです。

さて、この場合気付いて欲しいのは、「相対的に」本来求められているサービスが低下するから、不満が目立ってしまうのだ、ということの方です。
訪れる人々の希望はそれこそ千差万別ですから、全員の不満を完全にゼロにすることは事実上不可能です。クレームや不満として表面化したことを順々につぶしていくという考え方だけでは、おそらく永久にクレームや不満は減りません。

何かクレームを受けて、大慌てで指摘されたことだけを社内で改善通達することは良くあります。「全員決して~してはいけない」とか「~の強化に今まで以上に努力するように」とか。
そのこと自体は、まあ、悪いことではありません。
しかし、モグラ叩きのようにたまたま突出したクレームに取り組んでも、おそらく全体的な満足度はあまり上がりません。

「言葉遣いが悪い」とか「態度が悪い」というクレームを受けたとしましょう。
言葉遣いは悪いより良いに越したことはありません。
それは当然です。
しかし、どのくらい丁寧な言葉を使えばお客様全員が満足するのかという方向へ突き進んでも、実はあまり益はないでしょう。

かつて言葉遣いに神経質になるあまり、客注を受ける時に「お名前様を頂戴できますか」という用語を店内で統一して使っていた書店を知っています。
これには正直失笑させられます。
「お名前様」と言われて客の方がとっさに何を言われたのか分からず聞き返すなどという光景も繰り返されました。
そんなトンデモ用語を統一するより、客注手続き全体をスピードアップする方法を考えるとか、「いつ届くのか」「確実に手に入りそうか」など客が一番気にしているであろうことを応対の最初にテキパキと伝えるように手順を変えるとかした方がましです。

とある宅配ピザの若い配達員が、ほぼ完璧に隙のない敬語でしゃべってはいるのだけれど、ふと気が付くと私が財布の中を探っている間中片足のつま先でトントン地面を打っている、という光景に出くわしたこともあります。
この場合ならむしろ敬語はかなりおかしくても、全身で「ありがとう」という気持ちを素直に表してくれていた方が365倍くらいうれしかったでしょう。

例がちょっと「敬語か態度か」というところに偏ってしまったために、話がわき道にそれてしまいました。
クレームに取り組まなくても良い、という意味ではありません。
しかし、書店の基本的なサービスを充実させることに力をかけなければ、クレーム自体が減ることはおそらくありません。

相対的に、のもうひとつの意味

「相対的に」という意味は、他の同種のサービスや業種のレベルと比較して相対的に、ということでもあります。
20年前から全く同じサービスレベルを保っている書店があったとしましょう。一切悪化はしていない。これは立派なことです。
しかし残念ながら、その書店のサービスの質は世間一般と比べて、おそらく「相対的に」低くなったと感じられるでしょう。

たとえば、メールやインターネット上で何万円もの商品が24時間購入出来、宅配便で時間指定で自宅に送ってもらえる時代に、数百円のために何度も足を運ばなければならないサービスは「相対的に」質が低下していると感じる人もあるでしょう。

全体としては供給過多の(ものがあふれている)印象が強い現在の消費社会で、ヒット作、ベストセラーであるはずの商品が実にしばしば、どこへ行っても品切 れしているなどという業種は、相対的に質が低下している、少なくともいっこうに改善されていない、と感ずる人もあるでしょう。

本来期待されているサービスの質は、絶えずより良くなり続けない限り「悪くなった」という印象を持たれることになります。
たとえ、それが完全な誤解であったり、業界の現実からするといささか無茶な要求であったとしても。

誤った行動をしていることに気付かないままそれを繰り返す

小さな不満が蓄積する理由には、もっと非常に分かりやすいものもあります。
少なくとも外部から見ると非常に分かりやすいのに、内部ではあまり真剣に考えていないらしい、以下のようなことです。

今でもしばしば見かけますが、熱心に本の補充をしている店員さんが、かなりバタバタと音を立ててやっていたりします。慢性的に人手不足ですから、短時間のうちに出来るだけたくさんテキパキとやりたい、という熱意はよく分かります。
でも、うるさいです。
もっとひどくなると(最近は減りましたが)棚一杯に本を詰めるために本の背をパンパン叩いていたり、きれいに揃えるために棚の本に手をかけてガタガタ揺さぶったりします。
殴りつけたり揺さぶったりと手荒に扱われた本を、必ず平積みの下の方から本を抜いて買うことが圧倒的に多いお客様達が、喜ぶとは思えません。

開店した後の店内利用の「優先権」はお客様にあります。
お客様に見ていただいて、選んでいただいて、買っていただいて成立している商売なのですから当たり前です。
ところがそれをじゃまするようにうるさい音を立てたり、ひどい時には現にお客様がご覧になっている目の前の棚まで割り込んで補充や整理をしたりします。
今の15分間を逃したらもう今日は(シフトの都合などで)その部分の棚の補充は出来ない! という理由がたとえあったとしても、それでもお客様の優先権を侵すのは絶対に間違いです。

補充のために棚の下の引き出しを開けるのも同じです。
かなり多くの書店員さんが「すみません」というひと言を口にして、お客様がどいてくれるのを待ちます。
お客様がどいてあげなければならない理由はない、と本気で考えたことがありますか?
たまたま展示用の棚の下をストック場所として使っているというのは、あくまでもお店側の都合です。しかも(現状ではやむを得ないかもしれませんが)店舗設計としてあまり良くありません。
「すみません」と言いさえすれば必ず許されるというものではありません。

熱意を持って働くことは文句なく素晴らしいことです。
しかしそのことと、お客様の優先権を侵してもよいのかどうかは、全く別のことです。
お客様が夢中になって、宝物を持ち帰るような気持ちで買うということだってあり得る商品を、殴りつけたり手荒に揺さぶったりしてもよいかどうか、も別です。
熱意も、忙しさも、人手不足も、一切免罪符にはなりません。
あなたが本当にプロとして熱意ある仕事をするのなら、たとえばテキパキとしていながら静かな仕事ぶりを身につけよう、と考えてごらんなさい。
あなたが責任者なら単に「順々に担当者をレジから出す」のではなく「今お客様のじゃまにならない場所の担当者をレジから出す」ようにしてごらんなさい。

 

本は読んだり考えたりするものだという根本を忘れている

そもそも本好きな方、読書量の多い方には想像もつかないのかもしれませんが、多くの人々にとって本を読むことは:
疲れる
難しい
時間がかかる
ことです。

業界に全く関係のない暮らしをしていて、いわゆる「読書家」ではない友人・知人に片っ端から聞いてご覧なさい。
「疲れる」とか「難しい」とストレートに認めることはなくても、単行本を一冊読了することは達成感のある一仕事だと思っている人はたくさんいます。
ある本に対する感想が、普段から本をたくさん読んでいる人とそうではない人で大きく異なる場合も良くあります。
その原因は様々ですが、普段あまり本を読まない人の場合、自分自身がその本を「完読した」という重い達成感と本そのものへの評価がないまぜになっていることが良くある、というのも原因のひとつです。

あなたやアナタのように、一日中数分でも暇があれば本を読み、時に複数の本を同時並行で読んでいても混乱せず、外出先でうっかり持ってきた本を読み終わっ てしまうと麻薬が切れたように駅の売店を覗いたり近くに本屋がないか探し回ったりし、出張先のホテルで眠る時に読む本がなかったので備え付けの聖書を読み ながらようやく安心して眠りにつく…というような人ばかりではありません。
かなり多くの人は同時に二冊以上の本は読めないし、本を読むことは「読書くらいしなければ」と意識してすることであり、努力と集中力を必要とするのです。

この当たり前のことに気が付けば、うるさすぎるBGMやプロモーションビデオが、本を選ぶことのじゃまになるのは当然だと分かるはずです。
本を山のように読んでいるあなたやアナタであっても、大音響とイルミネーションのロックコンサート会場の中で冷静に本を選ぶのは容易ではないでしょう。(周りでは、ロックバンドのファンが叫んだり跳ねたりしてますしね)。
あるいは、こうです。
いわゆる街宣車が「皇国なんとかが…!」と大音響で繰り返し続けているすぐそばで本を選ぶように強要されてそれが1時間でも2時間でも続くなら、あなたやアナタでもやっぱり苛立ちが押さえきれないでしょう。

大根や人参を買おうとしている時に「キノコがおいしいよ」という宣伝テープがエンドレスで流れている、というケースとは意味が違います。
本は一冊一冊その中身を、おおよそであれ、理解しなければなりません。購入する前の段階で、すでに知的で複雑な判断が要求される商品なのです。
「書店も商売だから」なにかを宣伝しても良いということと、スーパーマーケットの「キノコがおいしいよ」のテープは同列ではありません。

まず、普通のことをちゃんとやる

かつて私は書店内のBGMにパンクロックをガンガン流していたことがあります。
それから20年経ったからといって今になって、そんなことは無かったことにして偉そうに講釈をたれるというのでは、いかにも卑怯です。
ええ、そうですとも。ごめんなさい。

でも今になれば、その時の自分に欠けていたのは想像力だということがよく分かります。
自分自身は確かに「がむしゃら」といいたいほど一生懸命働いていました。けれども、全ての基準が自分でした。お客様のためにと思ってやったと信じていても、実は「自分が、お客様のために思う」熱意に夢中になっているだけということも沢山ありました。
熱意があることや、よかれと思ってやったことだからということが、何でも許されたり誉められたりするわけではありません。

長い間右肩上がりの経済成長の中で、単にその波に乗っているというだけの理由で右肩上がりに過ごしてきた書店が、右肩が下がり始めてはじめて「書店も商業だ」と気付く。
気付いて、慌てて「商売気」を出してみようとするけれど、慣れないし、不勉強なので、コンビニでああだといえば真似をし、ドンキホーテがこうだといえば取り入れ、CDショップがアレらしければやってみる。
他業種に学ぶ姿勢そのものは大変良いことです。
しかし、それが書店業、あるいは本という商品そのものの性格に合うのかどうかということを、真剣に考えることは忘れてしまっているように見えます。

自分自身とそれを支えてくれているお客様を、よく見ましょう。
よく見、よく考えて、奇策に走る前にやれるはずの「当たり前のこと」をちゃんとやりましょう。
まずいお菓子は、どんなに大宣伝しても、まずいお菓子です。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 272011
 

無くなると困る?

出版社におつとめの方に訊きましょう。
あなたが営業に行っているB書店が無くなったら、あなたの会社は困りますか?

次に、書店にお勤めの方に訊きましょう。
A出版社が無くなったら、あなたの会社は困りますか?

最後に、取次店にお勤めの方に訊きましょう。
A出版社やB書店が無くなったら、あなたの会社は困りますか?
また逆に、A出版者やB書店の方は、C取次店が無くなったら困りますか?

上記の問いかけはかなりどぎついものと感ずる方もあるかもしれませんが、実は全然どぎつくありません。
なぜなら、これらの問いかけはメーカー・問屋・小売りという三角形の内側で、お互いがお互いをどう見ているか、どのくらい切実に必要としているか、ということを問うているだけです。
その三角形の内側でどんなに激しくモノをぐるぐる動かしても、お金は一銭も生まれません。会計上の操作がどうであれ、実質のお金(ここしばらくの言い方では「キャッシュ」)は生まれません。
キャッシュをもたらしてくれているのは、実際に出版物を購入してくれている人々です。

ですから本当に意味のある問いかけは、次のようになります。
一読者としてのあなたは、A出版社、B書店、C取次店が無くなってしまったら困りますか?

 

一読者の立場

出版業界の中に身を置いているという立場はひとまず脇に置いて、あなた個人はどうか? ということを考えてみましょう。
何か具体的な会社名を思い浮かべて、A出版社が倒産・廃業・吸収合併などで出版物を出さなくなったらどうか?と考えてみます。
するとたいていの場合、二つの答が出てくると思います。
「とくに困らない」
「○○(具体的な書籍単品や雑誌名)だけはあって欲しい」

たとえば(ずいぶん古い話で恐縮ですが)かつてSFマニアだった私はサンリオSF文庫が廃刊になった時「それは困る!」と真剣に思いました。「まだ全点買ってないよ!」
しかし、それ以外の面ではたとえサンリオという会社そのものが無くなってもとくに困るとは思いませんでした(べつにキティちゃんグッズを集めてもいませんしね)。
さらに、サンリオSF文庫に収録されていた作品が他の出版社から再刊されるなら、それほどは困らない、とも思いました。
上記の私個人の実例をもう少し詳しく分析してみると、次のようなことになります。

  • SFマニアで、翻訳されるものなら何でもコレクションしようという勢いだったという私、にとっては、その作品群がサンリオのブランドであったということは、ほとんど重要ではなかった。
  • その作品群をコレクションする(読みもする、多分)という「行為/経験」をすることが大切で、その行為/経験をするための対価としてお金を払っていた。
  • サンリオSF文庫というブランドの価値は、それが小売店に展示され続けるために浸透している必要があれば認めるが、私個人はサンリオのブランドそのものに対してキャッシュを払うつもりは無かった。

似たようなケースでさらにマイナーなものに、朝日ソノラマの翻訳SFシリーズがありました。

ここでクスッと笑ったあなたは、私のオトモダチです、いろんな意味で。

こちらは決定的にブランド浸透力が弱かったので、たとえ新刊が出てもなかなか書店の店頭で見つけることが出来ない場合もありました(つまり、新刊配本がある書店が少なかった)。
ですから一好事家としては、特定の書店でいつも買うようにしてその書店の担当者さんが次も新刊が入るように手配しようと思ってくることを願ったり、同じよ うな好みを持つ知人に「ソノラマの翻訳シリーズは、翻訳の質は良くないけど、時々えらくマニアックなものが混じるので見逃せないよ」などとたきつけてたり して、そのシリーズが存続するように、自主的に出版社や書店に協力をしました。

 

出版社名にブランド価値はあるか

本を読んだりコレクションしたりするという行為/経験が出来るということが最も重要であって、それ以外は全て些末なことだ、というのは一読者の本音だろうと思います。

これまた古い話で恐縮ですが、書店で働いていた時のこと、メキメキと人気が上昇していたとある雑誌を立ち読みしているカップルがいました。
二人は「これカッコいいよね」「そうそう」とその雑誌を褒めちぎっていました。
褒めちぎられていたのは祥伝社さんのBOONです。
ふと男性の方が裏表紙をかえして「どこが出してるんだ?」
…。
「…読めない。ふーん。知らない」「聞いたこと無いね」
そしてふたりは完全に興味を失って、また記事を仲良く読んでいました。
次の月に発売元が別の出版社に変わっていても、あのふたりはおそらく全く気付かないでしょう、ひどく記事の傾向や質が変わったりしていなければ。

そういうものなのです。
本や雑誌に関しては出版社名に、原則としてブランド価値はほとんどありません。ブランド価値があると思っているのは業界内部の人間と、一部のマニアだけです。
ですから、どうして「我が社の棚」を作ってくれないんだろうとイライラしてはいけません、版元営業さん。
基本的には、いらないんです。
「××出版フェア」は無意味です。
××出版フェアそのものをやっていけないわけではありませんが、フェアに冠するコピーは出版社名ではないものにしましょう。

 

対読者と対小売店を混同しない

誤解する方が出てくる可能性があるので、全くの蛇足でしょうが、付け加えておきます。
出版社名にブランド価値はほとんど無い、ということと、じゃあ結局はどんな本を作っていてもいいんだとか、月並みなものでいいんだ(個性を発揮しなくてもいいんだ)ということは、同じではありません。

版元直販が世の大勢を占めるようになれば別でしょうが、まだ当分の間は読者は小売店で本を買います。
セブンイレブンのお弁当がおいしいのか、サンクスのお弁当の方がいいのか、というふうに消費者はお弁当を買いますが、実際に判断の根拠になっているのは、そのお弁当の中に入っているもの個別の味の良し悪しです。
セブンイレブンのお弁当に使われているコロッケの方がおいしかったり、サンクスのお弁当に添えられているソースがいい味を出していたりするわけです。
それらひとつひとつは消費者にメーカー名で呼んでもらえることはまずないでしょうが、××のお弁当をおいしいと判断させることに貢献しているものは事実上、大きなシェアを持つことになるでしょう。
そこには「消費者にとっては透明なブランド」が確かに存在しているのです。

仕入れ担当者にとっては、その点では間違いなくブランド価値というものが存在します。「いい仕事」をしていれば次も優先的に仕入れてもらえる可能性は圧倒的に高い。
つまり、読者に直接出版社名を売り込むことと、小売店である書店にとって出版社名がブランド化するように努めることを、混同して行動してはいけないというだけのことです。

 

書店の「個性」の価値はどの程度か

書店はどうでしょう?
B書店が無くなったら困りますか? と一読者に訊いてみましょう。

これも大型店なのか地域密着の中小店なのかで、二つの答が出てくるでしょう。
中小店の場合には:「ちょっと立ち寄れる店が無くなってしまうので不便だ」あるいは「代わりになれる店があるのでなんとかなる」
大型店の場合には:「他の大型店が同等程度の在庫量で存在しているなら、べつに困らない」

面白いことに、実は大型店の方が切実ではありません。
特定地域に次々出店される大型店は、その地域の潜在的な読者数のシェアを奪い合っているだけで、読者数そのものを増加させてはいない、という観察とも一致しているように思います。

本当にその地域の読者数を増加させていないのか、実は増加させているのではないのか、ということについて、検証できる数値資料は私の手元にありませんので、上記は私の「意見」であって、客観的な事実ではありません。
ただし、「実は増えたらしいよどっちの(対抗し合う)店も」という話を耳にすることがありますが、それだけではその地域外からどのくらい客が移動してきた のかという検証が出来ませんから、複数の大型店が出店すれば読者数そのものが増えることもあるという証拠としては採用できない、とだけ言っておきます。 
 

大型店といえども「ある地域に」あります。ディズニーランドのようにわざわざ旅行してやってくるものではありません。
本が好きで好きでチャンスがあれば「東京へ行く」という強いあこがれを持っているということはおおいにあり得ます。しかし、○○書店一店を目指して上京してくるということは(特殊なジャンルのごく限られた店を別にして)、まず無いでしょう。

大型店にもそれぞれ個性があるのだから完全に取り替え可能だというわけではない、という意見もあるかと思います。
しかし、「~の品揃えが充実している」「~の分類が分かりやすい」「~の展示の仕方が好きだ」という評価は、人それぞれが自分が好む一定の分野に対してしているのであって、店内全てを細かく調べ上げて総合評価しているのではないでしょう。
個性を打ち出している側(書店)の思い入れと、それを評価する側(読者)の評価は別のものです。
書店の個性やポリシーを強調することは悪いことではありませんが、それがあたかも特定の製品のブランド価値を強調すること(たとえば少し前ならSONYのVAIO、今ならAppleのiPod)などと同等の価値を持っていると考えるのは、幻想です。

  • 一定の地域内でしか実効がない。
  • 扱っている商品が非常に多様なので完全に焦点を絞りきった統一イメージを打ち出すことは、事実上不可能。

という二つの根本的な理由からです。

 

中途半端な個性よりも最適化

中途半端に「個性」らしきものを発揮されると、目的としているジャンルや単品がかえって見つけにくくなる場合があります。
「これとこれを隣り合わせに展示しているくせにアレはないのかよ」とケチをつけたくなったり、そもそもその組み合わせ方が自分の趣味に反するので気分が悪くなったりすることもあります。
そんな時は、中途半端に個性を出さなくていいから徹底して「月並み」に並べてくれ、と思ってしまったりします。
月並みに並べておいてくれれば、自分で探して組み合わせて買うから、と。

このような問題は、あるジャンルが非常に専門的になりがちな場合に、とくによく起こります。
たとえばコンピュータ関連の専門書の場合、書店の担当者よりも来店客の方がずっと詳しいという確率はかなり高くなります。
インターネットメール利用時のセキュリティに関する入門書と、メールサーバ構築の入門書と、qmailサーバ運用・管理のリファレンスを、「どれもメール に関連するから出版社別にせずに一ヶ所に展示する」という理由で一ヶ所にまとめるという「中途半端」な個性を発揮していたら、失笑されたりひんしゅくを買 う可能性は高くなります。

上の例はたまたまコンピュータ関連ですが、経済にしても、金融や法律にしても、哲学や心理学、生物学、歴史にしても、いくらでもそのようなことが起こる可能性があるジャンルはあります。
その場合、ある程度以上の知識を持っている従業員を必ずそのジャンルの担当につける(あるいは育てる)か、はじめから中途半端に手をつけずに来店客が自分で商品を組み合わせるじゃまをしないことにするか、どちらかしかやりようがありません。

つまらないと思うかもしれません。
しかし「詳しいお客様のじゃまをしない」というポリシーも、ひとつの個性です。
中途半端な個性を発揮しようとするよりも、ずっと立派な個性でさえあるかもしれません。

 

当たり障りない範囲なら個性じゃない

書店で働く人々に話には「売りたいものを売る時こそ喜びがある」「仕掛けを工夫する時が最高の充実感」というような意見がしばしば出てきます。
私自身長い間書店で働いていましたから、それらが薄給でも働き続ける強い動機のひとつになっていることや、深い満足感があることは、自分自身の体験として良く知っています。
しかし、それだけでは個性の押し売りです。
自分の「働きがい」をお客様に見てもらっても、それだけでは意味はありません。それはプロではありません。

昔々の話。
私が初めて書店の店長というものになって働いていた頃、高額本をよく買ってくださっていた近所の会社の社長さんに、配達をした時にこう言われました。
「頑張ってるねぇ。学生さん?」
いや、社長さんは多分本当に誉めてくれたのです。私がとりあえず努力していると認めてくれてはいたのでしょう。
でも私は内心ちょっとショックでした。
まだ大学生のアルバイト身分だと思われていたということは、社長さんの評価は「社会人の一員として(端くれながらその社長さんと同じ土俵の人間として)」 のレベルでの評価ではない、ということです。もっと言えば、まだまだダメなところも沢山あるけれどスタートライン前の段階のわりにはよくやっているね、という甘々のレベルでの評価なわけです。
若い頃私は実年齢以上に若く見られる傾向がありましたからこの誤解はそんなに深い意味があるものではなかったのかもしれません、社長さんにとっては。でも私にとっては、君はまだプロじゃない宣言をされたように聞こえたものでした。

初心者には初心者に合わせて、玄人さんには玄人さんに合わせて、買ってもらい方を「最適化」するように努める気持ちをもう一方にしっかりと持っていなければ、ただ「個性ある書店」というスローガンに振り回されるだけです。

別の言い方をすれば、「個性ある書店」というスローガンに中途半端に取り組んでもしょうがない。当たり障りない範囲なら、それは本当の個性なんかじゃありません。
本気で取り組むつもりなら「よし、それじゃあ店内全ての本を価格帯で分けて展示しよう」とか、「何歳頃に読めば一番感動するという適用年齢で展示しよう」とか、「同じ装丁家の本は全て一ヶ所に並べよう」とか、とんでもないことを考えてみなければ意味がないでしょう。
それらのアイディアの99%は無駄になるでしょうが、上に並べた例はそんなには「とんでもない」わけではありません。そのように本を探している人は確かに実在しますからね。
極端まで「最適化」しすぎてはいますが、「最適化」にそった例ではあるのです。

 

抽象論をひねくりまわさない

いい加減に「本が売れないのは誰々のせい」と業界三角の内側で押し付け合いをしているのはやめるべきです。誰も受け取らなかった挙げ句に「ろくな本を読まなくなった読者が悪い」などという失礼千万な発言が、今でもたまに聞こえてきます。
それがどんなに失礼で無責任な発言か、あなた自身が一個人として言われてみれば分かります。

「○○さん、昔はミステリーをたくさん読んでいたでしょう? 最近買いました? ○○さんがちっとも買わないからミステリー出版は崩壊の危機なんですよ」
「ねえ△△さん、勉強する気あるんですか? ビジネス書はどんどん読まなくちゃダメじゃないですか。△△さんが読んでくれなけりゃもう新刊なんてとても出せませんよ」

いきなりそんな風に言われたらどう思います?
怒る…というより、失笑するしか返答のしようがありません。

「あくまでそれは『全体的な傾向』という話で…」などという言い逃れはききませんよ。
全体というのは個の集まりです。具体的な個が存在していない全体などというものはありません。本を読んでくれている人々には、みんな名前があり、年齢があり、性別があり、家庭があります。

自分たちのせいなのです。
自分たち全員のせいであり、全員が協力し合わなければ何も出来ません。
そして「全員」というのは、あなたのことです。
「出版社」や「取次」や「書店」のことではありません。実在の人間が存在していない「業界」はあり得ません。その中にいる実在のあなたが、実在の彼や彼女と協力する、ということなのです。

「取次が無くなったら、一読者のあなたは困るか?」という、まだ取り上げていない問いもここに関係してくるでしょう。
まあ、この問いに対する答は大体予想できるとおりです。
読者曰く「分からない」
業界内での重要さはこれっぽっちも否定しませんが、本来取次店は一読者の目には直接触れないものです。
目に触れないけれどきわめて重要ですから「消費者にとっては透明なブランド」の最たるものと言ってもいいでしょう。
ある業界全体を俯瞰した場合には、個別のブランドよりも「消費者にとっては透明なブランド」の方が巨大な力を持っている場合が、非常に多いです。
それだけ責任も重い、ということでもあります。

物事を抽象化して追求してみるのは、確かに役に立ちます。
山田真之介さんが求める本を、求めるタイミングで、求める場所に届けるという「最適化」に特化しても、確かに商売全体にはあまり役に立ちません。
しかし、抽象化することに慣れすぎた頭は山田真之介さんの不満や怒りをいとも簡単に黙殺します。抽象論をひねくりまわすだけで山田真之介さんに応えることは出来ません。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 262011
 

書店員だった頃、ふと思ったりしました。
「ベストセラー本というのは土嚢みたいだな」
土嚢(どのう)つまり、河が増水した時に堤防の上に積み上げたりするあれです。

ベストセラーはもちろんとても大切です。切らしてしまうと、堤防が決壊したように大変なことになってしまいますから、必ずせっせと積み上げます。
ある日、上流のどこかで「ベストセラー!」という警報と共にダムが決壊するわけです。
お客様が逆巻く奔流となって押し寄せます。
土嚢がじゅうぶん高く積み上がっていないと、販売機会損失・評判低下・時に面と向かってのクレーム等々の大災害が発生します。
ですから、書店員はかならずせっせと土嚢を積み上げます。

しかし、だからといって土嚢ひとつひとつに思い入れをする人もいないのと似て、必ずしも全てのベストセラーに深い思い入れを持つわけではありません。
堤防の決壊を防ぐために黙々と土嚢としてを積み上げるだけ、ということも少なくありません。

極論をすれば、ある本が「土嚢になった」と判断された瞬間に、何月何日までは毎日何冊在庫があるように補充せよというきわめて機械的な指示を与えて、昨日入社してきたアルバイトさんに丸ごと任せてしまってもかまわない。
土嚢化した本は「あればいい」のです。

… …。
えーと、たった今、出版社の方々、書店の方々、そして「私が好きだったあの本も『土嚢』呼ばわりするわけだな?」とムッとした一般の本好きな方々、合わせて200億人くらい敵を作ったと思います。
ある本がベストセラーになり「土嚢化」すると、その全てが嫌いになり、価値を認めなくなる、と言ったわけではありません。
元々好きだった本がベストセラーになれば、やはりその本は相変わらず好きです。
しかし、ベストセラーになった時から、その本は必要以上に手をかける必要がないものになります。

ベストセラー以外の方が大切

土嚢化した本は、ある意味で「純粋な商品」です。
正しい販売データ、在庫データ、そして流通との正常な連携が出来れば、それだけで仕事が出来ます。
どのようなペースで小売店である書店の店頭で減っていて、出版社の在庫とのバランスはどうか、入荷手配に要する日数はどれくらいか、という「計算」のみでほぼ対処することが出来ます。
勘や思い入れは、もはやこの段階ではほとんど関係ありません。

書店も出版社も、それ以外の本のために時間と手間を割くべきです。
以前も述べたように、ベストセラーだけで経営が成り立つほど書店経営は楽ではありません。
あるベストセラーを持った出版社さんはそれだけでしばらく経営が成り立つかもしれませんが、書店は無理です。某ファンタジー大作だけを販売して暮らしているという書店が一軒もないことを考えれば、そんなことは一目瞭然です。

自社で直営の書店チェーンを経営しているのでない限り、出版社さんはやはり小売りの場所が必要です。
そんな風に考えたことはあまりないかもしれませんが、小売りの場所を維持しておくためには、御社のベストセラー以外のものをどのくらいきめ細かく、効率よく売り上げてもらうかということにこそ力を注ぐ必要があります。
小売りの場所が縮小すれば、出版社さんは別の販路を見つけるか、直販でも利益が出るシステムを早急に作るかしなければなりません。

ベストセラー単品はいつかは必ず売れ行きが止まります。
ダムは修理され、警報は解除され、奔流は止まります。
そのあとには必ず「日常生活」が始まります。災害に立ち向かって力を合わせた人々もそれそれの仕事に戻り、見事な采配ぶりを見せた村長も村道の修復にいくら予算を割り振るかといった細々として頭の痛くなるような業務に戻っていきます。
しかし、それらが地道にきちんと続いていなければ村は破綻します。村が破綻すれば、次の氾濫には決して対処できないでしょう。そもそももうその時、村はないかもしれません。
書店はベストセラーを売る場所ではなく、日常を地道に生き抜いていく村のようなものなのです。

売れなくなったポテトチップスが展示されているわけ

実は最近はもうコンビニでポテトチップスはあまり売れていない、ということを知って、ちょっと驚きました。
実際ポテトチップスそのものはあまり売れていないのだけれど、かつてポテトチップスをよく買っていた世代が今はそれなりの年齢になって客単価が高い購買層 になっている。そのような客層がコンビニエンスストアに来店し続けてくれるように、今でもそれなりの棚面積に展示し続けている、ということのようです。
効率化の権現のように思えるコンビニエンスストアも、ベストセラー商品を機械的に上位から並べているだけでは経営が成り立たないという証拠です。

私個人は昔からポテトチップスはほとんど食べませんが、しかしどうもその「世代」とはまさに私の年齢前後の世代だと思われます。
「ああ、世の中の流れを理解していなかったな」とちょっと反省しました。そういえばかつてあんなにもあったポテトチップスのTVCMも最近はほとんど見かけなくなったなぁ、などと今更のように気付いたりもしました。
多分のこの「世代」は、今でもポテトチップスを買い、ついでに雑誌を買ったり、食玩を大人買いしたりしてコンビニエンスストアの経営に貢献しているのでしょう(笑)
土嚢化したベストセラー本以外の部分に手間と時間を割くべきというのは、たとえばこういうことです。
ベストセラー商品以外に何をどう展示するか、どのように「組み合わせ購入」を誘うかなどの方が大切なのです。

間違った効率化や拡販戦略を押しつけない

ベストセラー以外の商品、もっと言えば他社同士の商品を組み合わせる自由と責任はもちろん書店のものです。
その全てに出版社も全面的に関わらなければならないというのであれば、ボランティアで書店経営に参加させられるようなものです。たまったものではありませんね。

市場そのものを拡大するとか、顧客の質を高めるとかの高邁な目標でそのような行動を積極的にするつもりがあるのであれば、もちろん大いに歓迎します。(皮肉ではありません)。
しかしこれは、皆がそうすべきである、と強要するものでもありません。
版元さんに一番力を入れて欲しいことは商品を作ることです。それをないがしろにしてまで他のことに協力するよう求めるのは本末転倒です。

ただ、ベストセラーに目がくらんでそれだけを「10面積みしてください」とお願い行脚して回ったり、「売り上げランキング上位xx位以外ははずしてください」と自信満々の効率化を説いて回ったりはしないで欲しい。
それではポテトチップスを捨てることになるのです。

いずれは「ポテトチップス世代」ももっと歳をとって、さすがにポテトチップスは買わなくなっていくでしょう。
おそらくコンビニエンスストアの本部では、この世代に向けて次はなにを展示すべきか、あるいは、この世代に代わる別の客単価が最も高くなる購買層はどのような人々で、その人々に向けてどんなものを展示すべきかということを、すでに真剣に検討しているでしょう。

書店も日常やっていること(やるべきこと)は同じです。
なんとかして今を生き抜き、未来も生き抜けるように考え、悩み、実験し、商品構成のバランスを変え…そしてまたそれを果てしなく繰り返します。
こういったバランスの調整は実に難しいものです。また、常に微妙に移り変わっても行きます。
全く悪意はなくても結果として、書店がこのような調整や実験に取り組むことのじゃまをすると、最後には自分たちの首を絞めることになりかねません。

ベストセラーは災害です

ベストセラーがなぜ生まれるのか、私には分かりません。
ベストセラーになったものは、出版された時点でターゲットにしていた女性層から男性サラリーマン層へと客層が広がったとか、特定のパターンに当てはまるタイトル付けがなされていたとか、様々に後付で分析してみることは出来ます。
しかし、その「成功法則」に沿った別の本が必ずまたベストセラーになるわけでもありません。
なぜその本がベストセラーになれなかったか、欠けていた要素はなんだったのかを、また後付で分析することも出来ます。全ての要素は揃っていたけれど重版配本と広告掲載のタイミングを見誤ったことが決定的な失敗だったかも、などと。
しかし結局、単に「よく売れる」のではなく土嚢化するほどのベストセラーになるものは、私の能力ではとうてい予測しがたい、というのが正直なところです。

本という商品が、初版分は事実上市場調査を兼ねたテスト品であるという側面も、分からなさに拍車をかけます。
ごく一部の雑誌などを除いて、あらゆる本はぶっつけ本番のテスト販売なのですから、そういう意味ではずいぶん無謀な業界です。
書店の店頭は販売場所というよりメーカー展示会になってしまう危険を常にはらんでもいます。

ベストセラーは計画的に作ることが出来る、と言う人もいます。
そうかもしれません。
しかし私には分かりません。
「ベストセラー!」という警報は、しばしば誤報だったり、意図的な誤報だったりします。身構えていると、結局ダムは決壊しない。
出版社さんがベストセラーを望むのは自然で当たり前です。実際にベストセラーが発生するなら、それは書店も望むところです。ですから、計画的にベストセラーを作ろうとすることを否定するわけではありません。

しかし、繰り返して言っておきますが、書店はベストセラーを売るために存在しているのではありません。
「そもそも本とは…」といったような情緒的な側面を抜きにしても、収益構造として、ベストセラーだけを売るために存在できるようにはなっていないのです。
ベストセラーは(良い結果をもたらす場合が多いとしても)一種の災害であり、大ベストセラーになった本は土嚢です。
そればかりを待ち望んだり、やたらと土嚢を入手することばかりに狂奔したりすることは、いずれは業界全体を荒廃させます。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 252011
 

「アレックスは寝不足の頭を抱えながら会社へ向かっていた。期限が迫っているプロジェクトのことを考え始めると目が冴えてしまってろくに眠れなかったのだ。大きくため息をついて空を見上げた。
今日も暑くなりそうだ。」

…。
アレックスって誰?

「『アレックス、君はなんのためにそれをやっているんだい?』
『なんのためといいますと?』
主任のジャスティンはちょっと汚れた黄色のネクタイをさすりながら、ゆっくりとデスクを回ってきた。
『君の考えが正しいとしてもだ、それは誰のためになると思ってそれを思いついたのかってことだよ』
アレックスは答えに詰まったまま、じっと主任の顔を見つめた。」

…。
なんで絶妙のタイミングで絶妙の質問をする上司ばっかり現れるんだ?
っていうか、主任のジャスティンって誰?
そいつデブ?

ダメなものはやっぱりダメ

小説仕立てのビジネス書や自己啓発書は何年も前からありました。日本のものとしては(一番早いわけではありませんが)日本経済新聞社の『なぜ会社は変われないのか』などを思い出す方も多いでしょう。

それにしても最近「小説仕立ての~」が本当に増えました。
なんとなく「まんが版~」の一時の流行を思い出させるものがあります。
はっきり言ってしまいましょう。
どうにもダメなものや、小説仕立てにする必然性が感じられないものがだんだん増えてきて、イライラすることがあります。
十数ページのレジュメにまとめてしまえそうな情報を、無理矢理「薄目の単行本一冊」に水増しして読まされているように感ずることもあります。
逆に、こうまで細部豊富に「物語って」くれなくてもいいからもっと引き締めてポイントを絞って欲しいと思うこともあります。

テーマや主張が興味深いものであっても、なまじ小説仕立てにされているだけに小説としての疵を感ずるたびに興味がそがれます。逆に小説としてはそれなりに 力が入っていても、凡庸なテーマや主張、首を傾げたくなるような論理のアラや飛躍を、小説がカバーするわけではありません。
いや、この場合はむしろ論理のアラや飛躍を、小説にカバーさせてはいけない、と言うべきでしょう。

小説としての出来がいまいち

小説として最低限のレベルに達していないと、読んでいてかえって白々しさしか感じられません。
まんがの出来がへぼすぎて、大まじめなことを語っているはずなのに失笑するしかない「まんがで~」がたくさん存在しているのと似たようなところがあります。

  • 何度も名前を確認しないとキャラクターの区別がつかない。
  • 個性や性格がはっきりしない。
  • 「怒りっぽい」「神経質」など類型的な説明文を直に書いてすませてある。
  • 複雑な状況になってくると、それを適切に描き分けるだけの筆力がないために読んでいる方が混乱してくる。
  • 複雑な状況を省略無しに全部書くので緊迫した状況になっているはずの場面がおそろしく間延びしたものになり果てる。
  • 重要な説明は全て会話文でなされる。
  • 重要な心理状態は必ず直に「強い違和感を感じた」などと書いてある。
  • しばしば、都合の良いタイミングで都合の良い事件が起きたり、都合のよい幸運が訪れたりする。
  • 結婚しているはずなのに、家庭生活が全く感じられない。そんなことをしていたら多分離婚騒動になるだろうと思えるような状況でも平気。
  • 今が何月なのか全然分からない。
  • 主人公から見て異性のキャラクターに「花を添える」以上の役割がない。
  • 「悪役」キャラクターが弱すぎて実社会の重みが感じられない。

…などなど、ジュブナイル小説でももう少しましだろうというものにお目にかかることも珍しくありません。

 

ジャスティンのちょっと汚れた黄色のネクタイ

小説としての出来がそれなりに良くても、また別の問題が起こってきます。
読者が小説として読んでしまうので、細かいけれど重要だったはずの部分が読み終わる頃には抜け落ちてしまい、「とにかくアレックスのように死ぬ気で頑張らなくては」という感情的な部分だけが残ってしまったりします。
たとえ主題が「死ぬ気で頑張らなくても物事が進むように会社組織を改革する」ということだったとしても、です。
このようなことは、サスペンスとしての出来が必要以上によい場合に起こりがちです。印象的な場面の連続や効果的な省略を伴う場面転換など、小説としては誉 められるべき筆の冴えが、読者を「夢中で次を読ませる」ことになり、理解してもらわなければならないことを「読み飛ばし」させることになりがちです。

本題には全く関係ないのに「ジャスティンのような上司にならなくちゃ」などということしか覚えていなかったりすることさえあります。
キャラクター造形が無駄に印象的すぎる場合に起こりがちです。
「キャラクターが行動を通して主張したこと」を理解してもらわなければならなかったのに、キャラクターの存在全体に読者が思い入れを持ちすぎてしまいます。
ジャスティンが重要な場面で必ず少し汚れた黄色のネクタイをしている理由が、先代社長の遺訓を体現しているのなら、小説としてはあまり面白くありませんが、まあいいでしょう。
しかし死に別れた娘からのかつてのプレゼントであり、その背後には哀しいけれども豊かなジャスティンの全人生のエピソードが詰まっているということになると、小説としての「深み」を無駄に持ち込みすぎです。

実際に書かれていることとは全く逆のことや、主張などしていなかったことを、読者の感情的な色づけの中に勝手に作り上げることさえあります。
そんなバカな?
いいえ。残念ながら、本当です。
ある人から「○○の本にこう書いてあったじゃないか」と本気で主張されて、ちょっと呆然とした経験が、実際にあるのです。
いやそれは「やってはいけない」として書いてあったことなんだが…。
こうなると、小説仕立てにして、しかもそれなりに小説部分が面白かったがために、ビジネス書や自己啓発書としては大失敗です。

なんのための小説仕立て?

小説仕立てのビジネス書や自己啓発書というスタイルに、全面的に反対するつもりはありません。
しかし、小説というスタイルにこだわりすぎるのは無意味です。

たとえば、図表などを使った方が分かりやすい場合は、意地なって文章や会話で通しても仕方がないでしょう。

「さてしかし…」
アレックスは出席者たちをゆっくりと見回し、そして、ホワイトボードを指し示した。
「このグラフを見てください」

ここで、実際のグラフをページに直に示しても別にかまわないはずです。かまわないどころか、うまく作られたサンプルなら要点が一気に把握しやすくなるはずです。
たしかに普通の小説ではそんなやり方はめったにしません。ミステリなどで、謎解きに関係する重要な暗号や図を具体的に掲載することはありますが、多くはありません。
しかし、小説としての体裁を貫くことにこだわりすぎることに、あまり意味はありません。どうしたら読者に理解しやすいかを優先した方がよいはずです。

「硬い専門用語が並ぶのを避ける」「読み慣れた小説という体裁で導入の敷居を低くする」「具体的なキャラクタを設定することで感情的なつながりを持たせ、熱意を維持して読ませる」などの理由で小説仕立てという形を選んだはずです。
だったら、理解しやすい・読みやすいという目的を達成するためなら、何でも取り入れてかまわないと思います。

小説なの? ノンフィクションなの?

「小説仕立て」という体裁が、小説なのか、それともノンフィクションなのかということが、非常に曖昧になっているものもたくさん見受けられます。
なにかビジネス上の問題が発生し、それを何らかの方法で解決に導く過程を描くということであるなら(そこに描かれているのはおそらくフィクションの事例ですが)、基本的にはノンフィクションであるはずです。

ノンフィクションは実際のところどのようなスタイルでも書けます。報告書を列挙していくようなきわめて事務的なスタイルも可能ですし、小説のように中心となる人物の喜怒哀楽を含めて書くスタイルも可能です。
ただしどんなスタイルであれ、発生した事実とそれが導かれた理由をどこまでも追求していくことが基本です。
その意味では「小説仕立て」という用語に惑わされずに、ノンフィクションを作る、と考えた方が目的に合っている場合も多いと個人的には思います。
架空の設定・架空の人物達であっても、その事件を「取材」し、人物達に「インタビュー」した結果を読み物として再構成する、という考え方です。
特にビジネス書はそうでしょう。
このような手順を踏めば、いくら魅力的なキャラクターや血湧き肉躍るストーリーの勢いに引きずられようとも、論理の飛躍やアラは必ず見えてくるはずです。

ジャンルにとらわれるよりも質そのものを

さて。

「もっともな話かもしれないけれど、そういちいち細かなことに目くじらを立てなくてもいいじゃないか。
要は読んで面白くて、よく売れるならいいんだから。」

全く、その通りです。
その考えを本当にちゃんと実践しているなら。
ジャンルというものは、本に限らず、便宜的なものです。
何らかの分類をした方が整理したり記憶したりする時に都合がよい。先行する似たようなものに関連づけさせた方が新しいものを受け入れやすい。…などの理由で作られるものです。

「車」という大分類があり、その中に「馬車」や「牛車」があり、その関連づけで「自動車」があるようなものです。この場合は名付けそのものがジャンルの範囲や関連性を明示しています。
「自動車」が「カラシニコフ」という名付けでもかまわないはずですが、それでは人はそれがどんな存在であるか全くのゼロから取り組み、理解し直す必要があります。この場合はやはり「自動車」に類する名付けの方がずっと良いでしょう。

しかし、名付けの体系にとらわれすぎると、物そのものを名付けに合わせようとするようになります。
先行するものを定義している条件を無理にでも満たそうとしたり、逆にその条件に合わせて無理に機能や性質を削り落とそうとしたりし始めます。失笑を誘う、とてもいびつなものが生まれてくることになります。
このような、人が無意識のうちにとらわれてしまいがちなことをきちんと意識し、「読んで面白くて、よく売れる」ものを自由な気持ちで作れているか。
それが出来ている自信があるなら、ジャスティンのちょっと汚れた黄色のネクタイをおおいに語ってください。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 242011
 

なぜ消極的なのか

メールマガジンを読んでいただいているある方から、書店店頭でのマルチメディア商品の扱いが、量としても少なく、また品揃えもしばしばおざなりに見えるのはどうしてなのか、という主旨のご質問をメールでいただきました。
興味深いテーマと思いましたのでその方の同意を得て、個人へのお返事ではなく、今回のテーマとして書かせていただくことにしました。

確かにCD、DVDに代表されるようないわゆるマルチメディア商品が多くなってきています。しかし書店の店頭でそれらが「きわめて積極的に」扱われているとは言えないのも、残念ながら、事実でしょう。
そもそもそのような商品を置くことを拒んでいたり、たとえ置いてあってもいかにもおざなりで、自主的に選択して仕入れをしているとは思えないような状態のところも少なくありません。
なぜそんな状態なのでしょう?
どうしたらその状態が改善されるでしょう?

不幸な歴史

書店では、マルチメディア商品の返品作業では全て手書き伝票を書き起こさなければならないという時期がかなり長く続きました。
ことさらに言い立てるほどのことではないかもしれません。しかし人件費を切りつめる方向に徹底して動いている書店業としては、煩雑な返品作業に時間がとられるのは、大きな負担です。
自然と「マルチメディア商品は、できれば扱いたくない」という感情的な反発が強くなりました。
かつてあらゆる返品を手書き伝票で処理していたため、毎日のようにアルバイトの誰かを丸半日以上、時に丸一日、そのためにつぶしていた時代を覚えているような古株書店員などにとっては「過去の悪夢がよみがえる」ような気分だったりもします。

また、機械読みとりでの返品が可能になってからも、商品そのものが雑誌扱い、書籍扱い、マルチメディア扱いとバラバラで、コードを読み込ませてみてはじかれることで始めて気付き、その商品をいちいち脇にのけるということも頻発します。
商品コードを見れば分かるだろう、とか、そもそも納品を受け取った時にそれがどんな分類の商品であるか把握しているはずではないか、と思われる方もあるでしょう。
どこから見ても雑誌の付録にDVDが付いているようにしか見えないものが雑誌ではなかったり、プラスチックパッケージに収まったマルチメディア商品以外には思えないものがまれに書籍コードを持っていたりするので、現実の返品現場は溜め息に満ちています。

確かに納品された時にはそれがどんな分類の商品であるか、納品伝票に明記されています。
しかし「どこから見ても雑誌の付録にDVDが付いているようにしか見えないもの」を特設のマルチメディア商品コーナー(?)に隔離して展示するなどということは出来ません。それはあきらかに雑誌売り場に展示しなければなりません。
時が経って、やがて他の雑誌と共に一緒くたに返品作業所に戻ってきたとしても、誰も責めることは出来ません。

納品調整の難しさ

またマルチメディア商品はかつては、通常の書籍のようにサブジャンルを絞って納品希望をするとか、雑誌のように数号の販売実績で搬入数が調整されることを期待するということが、出来ませんでした。
マルチメディア商品を受け入れるとなれば辞書からアダルトものまで、なんでもを受け入れることになりました。
そしてどんなに大量の返品し続けても搬入数の調整がかかりませんから、受け入れ続ける限りまた大量の商品が納品されてきます。必然的に返品は増えます。そして返品作業が繁雑で嫌だという前段で述べた事態へまた突入する、という悪循環に完全に落ち込んでいました。
つまり、歴史的に書店では、マルチメディア商品は取り扱うことによるメリットよりもデメリットの方がずっと多い、というマイナスイメージがあったわけです。

時と共に改善されてきているのは、事実です。
ずっと昔のように、あらゆるジャンルを一緒くたに扱うというほどひどい状態ではありません。
しかし今でも、非常に曖昧なままだ、とも言えます。
しばしば「うちの店になぜコレが送られてきたのか?」「うちの店になぜアレが送られてこなかったのか?」ということがあります。そしてそれに対する、明確で論理的な答を聞いたことはありません。

期待と無知

また別の側面として、リスクと利益のバランスの問題があります。

いわゆる取次からの仕入れにせよ、独自のルートでの仕入れにせよ、置いてみたいと思えるようなタイトルはしばしば買い切りで、しかも期待するほど掛けが低くない、という現実がありました。
書店は普段、高めの掛けを「残念なことだけれど、返品が許容されていることの交換条件のようなものだから仕方がない」と思っています。
ですから、買い切りでの仕入れや独自ルートでの仕入れの場合には(マルチメディアを日常的に扱う業界での常識がどうであれ)、リスクに見合うと思えるだけ掛けが低いことを、強く期待します。

それが実に勝手な期待であるとしても、とにかく何か新商品を扱うかどうかを検討する時には、必ず低い掛けが期待できるかどうかが重要な判断材料のひとつにはなります。
思ったほど低くないことが分かると、高額の仕入れをすることに本当にメリットがあるかどうか…と、とたんに腰が引けてきます。
実のところ高額商品であるから腰が引けているのではありません。
リスクをおかして新たなカテゴリの商品に手を出すなら、本と同等の売り場面積でより高い利益を上げたいという野望があります。ですから、「安価で売りやすい」ものはむしろ歓迎していません。
販売価格が高額で掛けが低いという「うますぎる話」が望みです。

この辺でひょっとすると、頭を抱えた方もあるかもしれません。
そうです。実際問題として専業書店の現場のかなり多くの人は、たとえば音楽CDの仕入れ値が実はかなり高く、きちんと利益を出していくのはかなり大変だなどということは知らないのです。

書店で売れるものは限られている

実は書店にふさわしいタイトルが案外少ないという問題もあります。

返品作業や納品調整の問題でマルチメディア商品にマイナスイメージを持った歴史があることを述べましたが、マルチメディア商品が全体として売れ行き好調であったなら、そんなことは、実のところ問題ではなかったはずです。

かなりの「入店客数」を誇る商売である書店は、外部から見ると「あれだけの人が入るのだから、どんなものでも売れる可能性がかなりあるのでは?」と期待されるようです。
残念ながら、事実はそうではありません。
大人気のラーメン店に『広辞苑』を積んでおいてもおそらくさっぱり売れないのと同じです。

非常におおざっぱな言い方ですが、書店に来るお客様の多くは従来の書籍・雑誌の延長線上にあるものだけを求めます。
辞書、語学学習に関係するものはその代表例です。
ゲームやコミックス・アニメに関係するものなども一見いかにもマルチメディア的に動いているかのように見えるかもしれませんが、あくまでもそれは元になるコミックスやそのキャラクターの延長線としてです。
写真集の進化代替品とでも言えるようなジャンルも手堅い部類ではありますが、実は(モニタなどを設置していない店舗も多いので)「立ち読み」が出来ないために、本来期待できるかもしれない売り上げよりもブレーキがかかっています。

「分かっているならなぜモニタを置かない?」とイライラしますか?
今はモニタそのものも小さなものならかなり安いものがありますから、確かにおっしゃるとおりです。
場所を空けるのが怖いのかもしれません、無意識にせよ。
書店員はあらゆる場所を商品で埋め尽くすことに慣れています。単価が安めの商品を大量に販売しなければ経営が成り立たないので、商品がない空間を恐れます。
モニタを置くためにはその分商品を外します。外した商品から期待できたかもしれない利益を上回るものを、モニタを設置することで得られるのかどうか、疑心暗鬼になってしまうのです。

取次さんやメーカーさんの側には「おいしいとこだけ仕入れて他はいりませんというわけにはいきませんよ。普段から常時××タイトル展示してくれるとか、やっぱりそれなりに協力してくれなくては」という思いがあるだろうことは理解できます。
理解できますが、書店ではそれはちょっと無理かもしれません。
書店は単に「多くの人が集まる売り場」なのではなく、今の時代になってもあくまでも書籍と雑誌を売るところだからです。
一部の人が強く主張するように、そういう状態が時代遅れになりつつあるのだとしても、いまだに書店に来てくださるお客さんのかなりの部分は書店が書籍と雑誌を売るところであることを期待していることに変わりはありません。
古いものも新しいものも含めてたくさんのタイトルの中から映画DVDを探したければ普通はそれ専門の場所へ行くでしょうし、音楽DVDが欲しければやはりそれ専門の場所へ行くでしょう。
書店の店頭で「見かければ購入する」つもりでいるものは、あくまでも書籍と雑誌の延長線上にあるものが中心なのです。

積極的に扱ってもらうためには?

以上のことから、書店店頭でマルチメディア商品を積極的に展開してもらうにはどうしたらいいか、あくまでも現状では、ですが、かなり明らかです。

  1. 扱いやすくする
    可能ならば普通の書籍にしてしまうことです。
    あくまでも書籍にマルチメディア商品が「付録」として付いているという形にすること。本当はマルチメディア商品がメインでそれにほんの数ページの解説が付いているのが現実であっても、流通上は書籍にしてしまえば、書店はあらたな煩雑さに悩まされることがあ りません。
    書籍という形態があきらかにふさわしくない場合もあるでしょう。その場合には逆に、どこから見ても本や雑誌ではないとはっきり分かるパッケージングをすることです。
    取り扱いが面倒だという感情的な反発を出来るだけ回避するわけです。
  2. 書籍・雑誌の延長にあるタイトルを開発する
    これも単純です。辞書、コミック・アニメ関連などをすでに挙げましたが、地図でもいいし、料理などの実用書でもいいでしょう。
    「進化代替品」としての性格を持っていれば、書店に来るお客さんの抵抗は少ないです。
    一時期、材料そのものをパッケージしたビーズの本が過熱状態でしたが、あれも電子機器を利用する/しないという枠を外して考えれば立派な実用書の「進化代替品」でした。
    身も蓋もない言い方をしましょう。
    書店に求められているのは「ちょっと知的な暇つぶし」です。
    書籍・雑誌の延長ではないのに、知恵の輪が一時期よく売れていたのはこのためです。
    クラシック音楽や映画は確かに「ちょっと知的な暇つぶし」かもしれませんが、必ずしも書店におかれることが最も馴染む商品というわけではありません。
    その一方で、たとえば古典落語などはおそらく書店に馴染みやすいでしょう。
  3. ピンポイントの仕入れを許す
    書店向けにパッケージングを変えたり、書店向けだけに独自タイトルを開発することが無理だという場合も多いでしょう。
    その場合は、シリーズやグロスでの仕入れを強要せず、ピンポイントでの仕入れを許すことです。
    それが取次さんやメーカーさん側にとってメリットになるかどうか、という問題は確かにあります。でも(傲慢な物言いに聞こえるかもしれませんが)書店の店 頭に置かれることを期待するなら、そのような条件で自分たちが割にあうか秤にかけてみることが必要な場合も出てくるでしょう。

 

いずれ機会を改めて…

今回はあくまでも「もしも書店の店頭で積極的に扱われることを期待するなら」という方向からのお話しだけをしました。
ですから、書店側の無知や誤解、書店自身の業態の変化の必要性など、書店側の努力を必要とするはずの部分は、ほとんど追求していません。
そのあたりに不満や反感を感じた方々にはお詫びします。

いずれ機会を改めて、そのあたりのことも加えて書き直しや追記をするかもしれません。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 232011
 

先日電車の中で花を中心テーマに据えた北海道の観光キャンペーンポスターを見ました。私は北海道出身者なのでちょっと興味を引かれたわけですが、キャンペーンのために
http://www.hanatairiku.jp(花大陸Hokkaido)
というドメインをとっていることに気付きました。
上記にアクセスしてみると分かりますが、これは北海道庁自身が正式に運用にかかわっています。
家電の特定製品、映画の期間限定のキャンペーンなどがこのような別ドメインの使い方をすることはよくありますが、地方自治体が独立した別ドメインを軸にキャンペーンを展開するのは比較的珍しいかもしれません。

しかし考えてみればドメインを取得する経費はせいぜい数千円以内ですから、その意味ではとてもお買い得な決断です。運用するサーバの能力(どんな機能があ るか、どのくらいのアクセスまで耐えられるかなど)をどのくらい求めるかによっても変わってきますが、ドメインを一年間維持してサイトを開設するだけなら 年間トータルで数万円でも可能です。使わないのはむしろもったいないでしょう。

出版社さんの間では、ウェブサイトを開設してもそれが売り上げを生むことはない、というような消極的な意見をよく耳にします。
本当にそうでしょうか?
最も控えめにとらえても一年間に使う広告費として考えれば激安です。新刊や力を入れたいシリーズのために別途オリジナルドメインをとって、その専用サイトを積極的に運用すれば、おそらくもっと効果が出るでしょう。
効果がどのように出るのかは、運用しだいです。ウェブサイトそのものに媒体として「力がない」のではありません。

巨大なサイトは使えない

特定の業界内に限らず、「巨大なサイトはダメだ」と表だって言われるのはあまり聞きません。しかし、閲覧し利用する側にとっては巨大なサイトは頭痛の種です。
いくら有名な企業であっても、いくら充実した内容であっても、巨大なサイトの中で自分が求める情報を探し当てるのは実に面倒なものです。
たとえば特定の製品に関するちょっとしたマニュアル、あるいはコンピュータ関連商品であればその製品に必要なドライバなどを、巨大な企業サイトの中からピンポイントで見つけだすのは全く大変です。
xxxx.download.comというようなその企業で扱う製品のダウンロード専門のサイトがあればいいのに、と何度も思ったものです。

そもそも、サイト内検索の機能をつけた方がよいかな?と感じられた瞬間から、すでにそのサイトは大きくなり過ぎ始めています。目的に応じてサイトを分割し、別のドメインにし、そして相互にリンクを貼っておいてくれた方が利用者にとってはよほど便利です。

そのような意味合いからしても、特定の目的のために一社で複数のドメインを所有して運用することには、はっきりと意義があります。その社の「看板」である会社名入りのドメインのサイトにどれほど大量のアクセスがあったとしても、それだけでは特に意味はありません。
特定ドメインで実際に何かに「利用」してもらえる方がずっと意味があります。

「結局俺は体のいいIT雑用係か」とため息をついているシステム担当者のあなた。そう、あなたです(笑)。ため息をつくばかりではなく、そういう発想で創造的にシステム運営の提案をしてみてはいかがです?
思い切って別ドメインをとって何かをやってみようと考えてみて下さい。とりあえずは「もしもそうしたら~」という空想でけっこうです。その時自分たちに何が出来るか、どんなことを展開できるか、考えてみてください。
システムを任されるほどのあなたであれば、私がここに書いた以上のことをいろいろと思いつけるはずです。「いやサーバは別にしなくてもとりあえずドメインさえあれば…」とか「.htaccessを活用すればあんなことも…」とか、いくらでもアイディアが出るはずです。

スキルを超えて

IT関連の技術に限った話ではありませんが、人は自分が直接関わっていない分野や強い興味を持っていない分野に関しては驚くほど無知だったりします。
ネットもメールもそこそこ使いこなしていると信じていたとある知人がいました。ある日私がネットをうろつき回っている姿をじっと背後から見ていたあげくに、ブラウザの[戻る]ボタンを押す私を見て「あ…そうするのか」とつぶやいた…というのは正真正銘の実話です。
その人にとってインターネットの世界はおそろしく不自由なものだったに違いありません。[戻る]ボタンに気が付くまでは。
どんな分野のどんなことでも、特定の知識やスキルがないために、分野全体の持つ可能性を誤解したり過小評価したりする可能性があります。
ブラウザの[戻る]ボタンに気付いた知人は、単にそのようなスキルを身につけた、わけではありません。おそらくインターネットの世界そのものが違うものになったでしょう。
いつでも世界そのものが変わってしまう可能性があると信じて人の話に耳を傾け、自分も語るという態度を保つことです。その態度があってこそスキルが単にスキルであることを超えられるのです。

旅行代理店は、「とりあえず」、えらい

ところで、旅行産業というものはバリエーションが非常につけにくいもので大変だろうなぁと思います。
なにしろ100年前も100年後も熱海は熱海です。熱海が急にオーロラが見える町に変わってくれるなんてことはありません。熱海の隣に毎日のように地殻変動で「熱々海」や「冷海」が出来たりもしません。
原則として「既にあり」「飽き飽きするほど昔からあり」「いやになるほど属性が変化しない」ものを商売にしていかなくてはなりません。

それでも旅行産業は毎年様々な工夫を凝らして人々を旅行へ誘います。
その「工夫」には、交通会社や宿泊施設、地元産業などとの連携を必要とします。温泉ブームになればどこもかしこも急造の露天風呂を売りにするというような有様は如何なものかという話も、たしかにあります。
そのうち南極の昭和基地にまで露天風呂を作らせてツアーを組むんじゃないかと思ったりするほどで、昭和基地側に受け入れの意志があるならば100%の冗談では済まされないような気さえします。
とはいえ少なくとも、旅行代理店はそういうものを作りましょう、というような示唆まで含めて必死の調整・連携・説得をします。その努力そのものは、実にたいしたものです。
また、そのように関係する各方面が力を合わせて動かなければいわゆる「ツアー」や「パック」は成功しないのだということでもあります。

それは力を合わせているとは言わない

上述のような意味合いで、出版業界の各方面がちゃんと力を合わせているかということになると、大いに疑問です。
出版社・取次・書店のどこがそれぞれどのような役割を担うべきかということについてはここではあえて書きませんが(笑)、ほとんどの場合ある商品が生まれたあとはただ市場に放り投げているだけです。実におおざっぱです。
広告を出す、ポスターを配る、POPを書くというようなことだけでは、力を合わせているとは言いません。

それぞれ個別の努力は大変素晴らしい場合があることは100%認めます。それでも、それらはバラバラに行われているだけで関係者の間ではっきりとした方向 性を目指した打合せがされているわけではありません。共通の目標に向かってはっきりと力を合わせているのとは少し違います。

ある書店の担当者が素晴らしい企画を思いついたり、素敵なPOPを作り上げる。ある出版社の編集さんや営業さんが特定の商品に強い愛情を注いで精力的に販促する。
美談」ではあります。でも(ちょっとひどい言い方ですが)それだけのものに過ぎません。
美談は結局のところ個人プレーです。個人プレーだからこそ美談であり、みな賞賛を惜しみませんが、賞賛して満足しがちです。
だっていい気持ちになれますからね。

「美談」を超えて

美談で何が悪い、POPを作る努力をバカにされる筋合いはないぞ、とちょっとムカムカしてしまった方もあるかもしれません。ごめんなさい。
でもあなたには本当はもっと先に行ける力があるのに、気持ちよくなってそこにとどまっていませんか?

今はどこでもPOPが大流行です。
でも冷静に書店の店内「全部」を見回してください。POPはどこに立っています?
文庫・文芸書・児童書、そして少数の実用書や専門書といったところでは?
POPというものに効力があると本気で信じているのなら、なぜ雑誌に手書きPOPを立てないのです?
数が多すぎるから?
毎月の文庫の発売点数だってちょっとしたものでしょう?
ひと月しか販売期間がないから?
本気で惚れ込んだならバックナンバーとして販売し続ければいいでしょう?
雑誌にもPOPを立てるべきだと主張しているのではありません。
もしも文芸書や文庫、児童書などなにかしら「素晴らしくてためになる」ものだけがPOPを立てるに値すると思っているなら、無意識にせよ、それはまさに個人の趣味、個人プレーの域を出ていないのです。

出版業界には他の業界に比べてもおそらく「美談」が非常に多いのではないかと思います。そのこと自体はとても素晴らしいことです。美談になる行動をしたくなるような商品が沢山ある素敵な業界だという証拠でもあります。
だからこそ単なる美談を超える努力や発想をして欲しいのです。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
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4月 222011
 

書店さんに喧嘩を売れ

といっても、本当に喧嘩をしろということではありません。
いや、したければしてもいいですが(笑)
書店をまわって営業をすることは「仕入れてもらう」「展示してもらう」ということことを目指していて、それがかなえばお礼を言うというということの繰り返しが中心になっています。
そういう「まとめ」方をしてしまうと、「オイオイ、それはずいぶんなんだか失礼ではないか。我々はねぇ…」とお怒りになる方もあるでしょうが(ごめんなさい)、事実としてそのような行動が多いことは本当です。
企画を持ち込んでくれませんかね。
こんな本の組み合わせで、こんな風な展示の仕方で、××なお客さんを狙ってみるというのはどうですか?と、単品の本ではなく、企画を提案してみてくれませんか。
なぜそれが書店さんに喧嘩を売ることになるのかといえば、普段書店の担当者がしていることがまさにそれだからです。
書店の担当者の「聖域」にあえて踏み込むからです。

企画的に考えなきゃ潰れちゃう

今更言うまでもないことですが、書店の担当者は(まともな頭とやる気の持ち主なら)商品を単品で見たりはしていません。
どの本をどのくらい仕入れるのか/仕入れないのかということも、どこに展示するのか、何と隣り合わせるのか等々ということも、すべて企画的に考えます。
たとえば、どうしたらお客さんが見つけやすいのかという一見単純な問題にしても、あえて汚い言い方をすれば、親切でやっているわけじゃありません。買ってもらうためにやっているわけです。
レポート作成の参考に立ち読みする時すぐに見つけられるようにとか、デートの約束までの待ち時間を楽しく暇つぶししてもらうようにとか、そういう理由で本を並べているわけではありません。
それが将来の投資としてじゅうぶんに意味があれば「当面の目標」をそのようにもしますが、決して「ひたすらお客様のために」などというもっともらしい理由からではありません。
大ベストセラーがものすごく見つけやすければその大ベストセラーは売れるでしょうが、みんなそれだけを買ってさっさと帰ってしまうかもしれません。大ベストセラーの一品だけ売って経営が成り立つほど書店は甘くありません。
いかにして店内を長く回遊してもらい、しかもそれを「面倒だ・不快だ」と感じさせず、結果として複数冊の買い物をしてもらうかということこそが、書店の基礎なのです。

文庫棚の五十音

今は昔。
かつてほとんどの出版社の文庫は五十音順には並んでいませんでした。出版社が独自につけた分類やらナンバリングやらに従って、はっきり言えば、意味不明の並び方をしていました。
やがて五十音でのナンバリングがされるようになった頃から、書店の棚の大部分も著者名の五十音順で展示されるようになっていきました。
書店を訪れる人にとっては以前よりは探しやすくなり、便利になったでしょう。
しかしこの時書店員が一番「よしよし」「しめしめ」と思ったことは、実はそのことではありませんでした。

  • 新旧の作家も、ジャンルの違いも、五十音という一見規則的な並び順で、実はランダムにシャッフルされてしまうので、出会いのチャンスを増やせる。
  • 出版社の異なる同じ著者を一ヶ所に全部まとめられるので、出版点数の多い少ないという(文庫に関する)出版社の勢力図に左右されずに販売の主導権を書店側が握れる。

ことほどさように、書店員というのは「企画的に」物事を考えるものです。ある単品だけで完結したことを考えているようではつとまりません。

提案を歓迎

さて。
逆から言えば、書店員が一番頭を悩ませ、しばしば企画に詰まる(ネタ切れに苦しむ)のもこの部分です。
一店舗内の視点にとらわれているとどうしても発想に幅が出ません。
一個人の考え方の癖や能力の限界というものもあります。
特定分野の担当を長年やっていると本を展示している最中にふと手を止めて:
「ああ、これは3年前に自分が大自慢しながらやったことを自分自身が真似をしているだけじゃないか…」 …と哀しい気持ちでじっと本の並びを眺めていることもあります。
いや本当に。
ですから、違った立場、違った視点からの企画的な提案であれば、基本的にはいつでも歓迎です。

ただしもちろん「提案を歓迎」することと、それを受け入れることは別です。
既刊を積極的に勧める
の中の[既刊の組み合わせをどう選ぶのか]の項目でも述べているように、安易すぎたりおおざっぱすぎたりするものはいただけません。 
 

書店さんと共同プロデュース

「それってつまりセット組みして出している『フェア』ではダメなんですか?同じことじゃないんですか」
というもっともな疑問があるでしょう。
もちろん、フェアを提案の「素材」として利用してかまいません。でも「同じこと」ではありません。

個別の書店の店頭に最もフィットするものを提案しろ、とまでは言いません。理想論としてはその方がよいでしょう。しかし、現実としてそこまでの個別対応をして、それに対して一体どのくらいの利益が見込めるか、という効率の問題もあります。
ですから少なくとも、「フェアの注文をとる」と考えるのではなく、売り場のある一定スペースを書店の担当者さんと共同プロデュースするという態度で臨んでみてください。

書店向けの営業を始めて日が浅い方や、今ひとつ書店受けが良くないと感じている方は、効率を無視して個別の書店にフィットする企画を考えるということを、自己訓練としてやってみるのも良いでしょう。
日頃自分がいかに単品のことしか考えていないかに気付いてしまったり、(他社のものも含めて)たくさんの本の中である本を売るためにはどうしたらよいのかということに関するヒントがつかめたりするかもしれません。

この業界に関わっているほとんどの方は、必ず他社の商品を見て参考にしてはおられます。しかし、その場合も単品として見がちです。この企画はオイシいと か、このタイトルをナニすればどうなるかとか、様々に考える訓練はよくしているわけですが、あくまでもそれはある単品同士のことになりがちです。
本はそれだけの理由で売れていくものでもありません。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 212011
 

出版社のベテラン営業マンの中にはとても個性的な方がおられます。
中には「名物」という冠まで付いてしまった方もおられます。
冠が付くほどになった方の中には個性的すぎて誰にでも全面的に歓迎されるというわけにはいかなくなってしまっている場合もあるのがいささか頭痛の種ですが、しかし、少なくとも非常に印象に残ることは間違いありません。
印象に残ることは営業職の場合とりあえず有利であるように思えます。だから出来るだけ個性的に振る舞った方がいいような気がします。
そうなのでしょうか?
時々個性的であることについて完全に誤解をしているのではないか。あるいは強い幻想を持っているのではないか、と思う人に出会うことがあります。
営業活動に即役立つとは言えないかもしれませんが、今回はそのお話しをします。

個性的であることはべつに「良い」ことではない

個性的であることが良いことであり、すすんでそうなれるようにすべきであるという風潮が出来てからすでにずいぶんになります。自分自身そう努力すべきだし、周囲もそれを助ける方が良い、というわけです。
しかし、そもそも人はみんな個性的です。
もしも個性のない人がいたら、その人は心のどこかが深刻な病気です。ですから意識して個性的であろうと努力する必要はそもそもありません。

「より」個性的であることが「それほどは」個性的ではない人々にたち混じった時に「有利」であるというような、個性を相対的な(量的な多寡で量れる)ものとして捉える考え方もあります。
どちらかというと「個性的」という言葉が使われる場合このような解釈のことが多いでしょう。

この考え方にはしばしば誤解と甘えが入りまじっています。
簡単に言ってしまえば、自分がオリジナリティを持っていることをアピールするということなのでしょうが、オリジナリティはそもそも相対的なものではありません。オリジナリティは「オンリーワン」であり、比較するものではありません。

この誤解はさらに「オンリーワンとはナンバーワンである」という思いこみへ進んでいくことが多いようです。
確かにある分野で唯一無二であれば自動的に一番ではあります。しかしそれは社会生活一般の意味で「勝っている」こととは関係ありません。
歴史上類のないきわめて独創的な方法で犯罪を遂行した犯罪者は、おそらく非常に個性的で間違いなくナンバーワンです。しかしもちろん、それを喜べる人はほとんどいないでしょう。
犯罪者と一緒くたにするのは話のすり替えだと思う方もいるでしょう。
いいえ、すり替えではありません。
個性は平均から外れなければ決して生まれないので、多かれ少なかれ誰でも「外れもの」なのです。

平均はあくまでも平均です。
身長190センチの人と150センチの人がいれば、その平均は170センチですが、二人はどちらも170センチではありません。
また1000人中900人が170センチだという分布データがあったとしても170センチが「良い」身長なわけではありません。
当然ですが、逆に190センチの身長が「良い」わけでもありません。
誰でも何かしら良いところがあるから、とか、何かしらの才能を持っているから、というようなおためごかしの空論ではなく、個別性と平均はそもそも交換できないというだけのことです。

個性は免罪符ではない

個性的であることと、それが受け入れられるべきであるかどうも、全く別問題です。
「私ってこんな人だから」という言い方がありますが、「だからどうしたの?」と言いたくなります。下手くそな俳句や短歌を聞くと反射的に「それがどうした」と合いの手を入れたくなるのに似ています。

だから…という言い方には、だから批判も価値判断も無しに自分を受け入れろという主張が暗に含まれていますが、それを決めるのは他人であって自分ではありません。
そもそも(オリジナリティという意味で)本当に個性的な人は自分の個性を説明したり主張したりなどしません。ただそれを生きていくだけです。

個性は何かのいいわけにはなりません。まして他人に受け入れるように強要するものでもありません。
ピーマンが大嫌いでもかまいませんが、他人がおいしそうにピーマンを食べるのをやめさせる権利はありません。
私がにおいをかぐのもいやなのだから食べるのをやめてくれるのが優しさではないかと思うかもしれません。それを言うなら、相手がにおいをかいだだけでもよだれが出そうになるのだから食べさせてあげようと思うのも優しさです。
その逆も、全く同じです。
あなたがピーマンが大好きでも、ピーマンが嫌いな同席者に「嫌そうな顔をされるとせっかくの料理がまずくなるからニコニコしろ」と強要する権利はありません。ニコニコして見守ってくれるのが優しさではないか…以下ずっと同じ。

「自分らしさ」の罠

女性の場合は外見や服装で、男性の場合は趣味嗜好や持ち物で、自分というものを表現しようとすることが比較的多いようです。
その時に多用される理由付けに「自分らしさ」とか「自分らしく」という実に不思議な言葉があります。
あなたは今そこに暮らしていて自分ではないと?

多くの場合…そう、おおよそ、半分くらいの場合、「自分らしさ」という言葉は、前段で述べた「だから」症候群です。自分らしさを主張しているのだから(根 拠無くそれは尊重されるはずだから)自分は相手に気遣いをしたり礼儀正しく振る舞ったりすることは頭から無視するからね!というわけです。
単に傲慢であるか、怠惰なだけです。

残りの半分くらいの場合「自分らしさ」という言葉は、他人に自分をどう見てもらいたいかということを意味しています。出来るならばより良いものとして見てもらいたい、ということも意味しています。
なにしろ「自分」ではなく「自分らしさ」なわけですから、その言葉がはっきりと表しているように、その考え方自体にすでにして曖昧で、架空、多分に演出的なのものが混じり込んでいるわけです。

「本当の自分デビュー!」という台詞のコンタクトレンズのTVCMがありましたが、あれは自分が自分自身を差別するというとても不思議な台詞です。
いや、コンタクトレンズをすることを選ぶのは自由です。
自分を他人にどう見てもらいたいかを自分で選択し、演出するのも自由です。
けれども、そこに「本当の自分」と「本当ではない自分」が存在しているわけではありません。他人に見てもらいたいと思う自分こそが本当の自分であるということも、ありません。

「自分らしさ」という言葉は、どこかに別の自分が存在している、そしてそれは何かしらより良い自分であるというような勘違いをさせる、とてもよくできた罠です。
商売のキャッチコピーに使われる場合には、コンプレックスを巧妙に刺激します。自己啓発の文脈で使われる場合には、まるで自分というスイッチが切り替え出来るものであるかのような偽りの安心感を与えます。
個性的であることは、より良い自分自身であるかどうかとは直接には関係ありません。

個性的であることそのものが評価されることはない

「歴史上類のないきわめて独創的な方法で犯罪を遂行した犯罪者」は、そのきわめて独創的な方法を思いつくためにきわめて独創的な思考方法やひらめきがあったに違いありません。その通りにやり遂げることが出来たということは、意志もきわめて強かったことでしょう。
もともと平均から大きく外れた個性を持っていたのかもしれませんし、なんとしてでも目的を達成しようと努力するうちに平均から大きく外れていったのかもしれません。
いずれにせよ、この犯罪者の場合最も大切だったのは自分の個性がどのようなものかということではなく、犯罪がやり遂げられるかどうかということだったでしょう。

何かを真剣にやり遂げようとすれば、おのずと自分なりのユニークな方法を編み出すものです。それが個性的な言動や外見を「結果として」もたらすかもしれません。もともと持っていた個性を目的に合わせてより上手に使うようになるために、個性が際だってくるかもしれません。
しかし、個性的であるから他人が何かを受け入れてくれるわけではありません。あなたがもたらすものを良いと思えば個性的な言動や外見もついでに受け入れてくれるだけです。

印象的であるということは、常に肯定的なわけではありません。
私がオレンジ色のモヒカン刈りで、額にバーコードのタトゥーを入れて現れ、でかいバッグからキティちゃん仕様のノートパソコンをさっと取り出して話を始め たら、多分きわめて印象的でしょう。多分多くの人が笑い出すか、逆に出来るだけ深く関わりにならないように曖昧に相づちを打って早く帰ってくれないかなぁ と思うでしょう。
モヒカン、バーコードのタトゥー、キティちゃんパソコンの三連コンボが受け入れられるものかどうかは、話の内容があなたにとってどれくらい有益かで変わります。
月並みな話であれば、二度と私の三連コンボは見たくないでしょう。一瞬にせよそんなことを忘れて聞き入るほどの話であれば、苦笑しながらも、次にあった時も受け入れてくれるでしょう。

仕事をしよう

ここまで読んでこられた方の中には、石塚は個性的なことが嫌いなのか?と思った方もあるでしょう。
とんでもありません。
個性的ということにまつわる傲慢と幻想を捨てるように勧めているだけです。

あくまでも「私個人は」ですが、スーツを着ていなくても下駄履きで現れても、髪がピンクでも舌にピアスをしていても、スケートボードで現れてもポルシェを乗りつけても、全くかまいません。
外見だけのことではありません。「ユウコリン」しゃべりで営業をしてくれたってかまいません。
それらを上回る仕事の出来であれば、どうだってかまいません。
多くの書店員さんからは「ふざけんじゃねぇよ」と猛反発を食らうでしょうが(笑)、それでもむしろ、そんなふうにして出かけて行ってもまともに話を聞いてもらえるほどの何かを自分が持っているのかどうか、チャレンジしてみてもらいたいくらいです。

個性を尊重すると称しながら「しかしTPOに合わせろ」だのという枠をはめようとする似非個性推奨派のことも、地味で控えめなことそのものがその人の個性なのに「もっと積極的に自分をアピールしろ」と勘違いの善意で強要する差別主義者のことも、気にすることはありません。
そんなことは全部忘れて、やり遂げたいことに打ち込む。

スポーツ選手が目標を達成したいと思えば自ずと独特の筋肉が発達します。それはスピードスケートの選手の太股のように、時としてきわめて印象的なものになることもあります。
しかし、直径何十センチの太股を持っていようとも速くないならなんの意味もありません。逆に速くなりたいがために結果として太くなってしまった太股は他人がどうこう出来るものではありません。
「名物」営業は、そうやって自然に出来上がっていくのです。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。

4月 202011
 

なんとなくデジタル…ではない

メールマガジンのサブコンテンツとして Windows の小技についての連載していたり、このサイト内にもオンラインソフトの紹介コーナーがあったりする関係で「石塚のカーネルはモノシリックなマルチタスクで 分散アーキテクチャなインターネット・コラボレイテッドのナニだ」という感じに思われているふしもあります。
…それっぽい言葉の羅列はもちろん冗談ですが、とにかくデジタル機器や技術を出来るだけ活用して効率よくという、「デジタル派」だという印象ですね。

少し、違います。
効率がよいにこしたことはないという面では半分だけ正しいですが、それが考え方の中心にあるわけでは全くないという意味で、違います。

私が初めてコンピュータを使い始めたのは、書店の平社員から店長に昇進した時でした。それ以前から趣味でコンピュータをいじっていたのだろうと思っておられる方もいるかもしれませんが、そうではありません。
店舗の業績・各分野の実績などを、スタッフにビジュアルなグラフで把握させたかったのです。
数値だけではダメで、見た瞬間に「どうなっているのか」が直感的に分かって欲しかった。
もちろん手書きでも、出来なくはありません。
しかしその当時、大量のデータを手作業で計算し、さらにグラフを描くというようなことをじっくりやっている時間は全くありませんでした。
その作業時間を圧縮する。絶対にやりたい仕事上の目標を、時間や手間がかかりすぎるからという理由で放棄しない。
それを実現してくれるのは(秘書や事務専用スタッフがあり得ないわけですから)コンピュータだけでした。数日後にはコンピュータを購入しました。

振り返ると自分でもちょっと驚きますが、出発点の動機は徹底してビジネス用途であり、その結果何が出来るようになりたいのかという目的もきわめてはっきりしていました。
他人に何かを提供したいから自分の作業を効率化する。「作業」は効率化して、残った時間でスタッフと「仕事」がしたかったのです。

もっとずっとあとのことです、コンピュータの持つきわめて豊かで曖昧な可能性に気付いて、道を踏み誤っていくのは(苦笑) 
 

効率追求にひそむ過ち

最近デジタル機器やデジタル技術の導入で「効率追求」をしたのだから正しい、という短絡的な考えを本気で信じかけている人々が、少しずつ増えてきているような気がします。
たとえば、徹底して電子化したから営業の人間が直接書店へ出向くのは半年に一回でじゅうぶんだ、というような意識です。
まだ表立ってそのような発言を大いばりでしてしまう例は少ないようですが、気持ちのどこかでそのような思いに侵され始めている人はきっといるでしょう。
忘れたり、勘違いしたりしてはならないことが三つあります。

  1. 効率は、自分たちのためだけに追求しても意味がない
  2. 人間と人間の対話に勝てるものは、まだ無い
  3. データ分析からは漏れ落ちるものがある

効率は、自分たちのためだけに追求しても意味がない

効率化は誰のためか

非効率な作業手順があちこちにあることは大変良くない。これは全くの正論です。時間あたりに完了できる量が少なかったり、コストが高かったりしない方がよいのは当然です。
しかし、なぜ「その方がよい」のかということには二つの側面があります。

同じ内容の仕事をするのであれば、時間や経費というコストが低い方が会社経営が楽です。また、同じコスト内でより多くの仕事が出来るのであれば総売上高がより多くなることが期待できます。
しかし、それらの仕事に最終的に対価を支払ってくれるのは顧客ですから、顧客が御社の仕事ぶりに満足するならば、御社の効率追求はよい結果をもたらすであろう、と言うのが本当のところです。
「総売上高がより多くなることが『期待できます。』」という中途半端な言い方をした理由はそういうことです。
極論ですが、御社内が極限まで効率化されても、その結果から生まれてくる仕事が顧客に全く支持されなければ、効率化の効果はゼロです。

多くの方はこのことがきちんと分かっています。
しかし、ごく一部に「自社はこのように効率化したから、顧客であるあなたはそれに合わせなさい」という態度を無意識にせよ、当然のようにとってしまうところもあります。

たとえば、受注業務は全て FAX「でしか受けられません」と言い切ってしまうのは、顧客のためになる効率化でしょうか。
全体的・長期的にみれば、顧客のためにもなります。ミスが減る・統一システムに載せられて処理が早くなる等々のたくさんのメリットがあります。
しかし「でしか受けられません」と言い切る態度には、顧客のために仕事をしているという基本が感じられません。
今時 FAX が無いところはまずないだろう、個人宅にだって大抵あるよ、という思いは一見常識の範囲内の穏当な考えのようでいて、そうではありません。
今はたまたま御社の効率化のために FAX を選んだだけで、もし「効率化のためには受注は全てメールと Web だけだ」ということになったら、やっぱり平気で「…でしか受けられません」と言い切ってしまいそうです。

デジタル機器の不調がサービスを提供できないことの言い訳に

デジタル機器の不調がサービスを提供できないことの言い訳になり得るという間違った考えにも、同じような勘違いがあります。
今は昔、デジタル機器の主な記憶媒体がフロッピーディスクであった頃は「うっかりフロッピーにコーヒーをこぼしてしまいまして…へへへ、どうもすいません」という言葉は、なぜか書類が遅れたことの言い訳として通用しました。
なぜだかその頃は「それなら仕方がないな」と顧客も勘違いして納得してもらえることが多かった。

しかしもちろん、これは本来通用しないものです。
事実として当時のデジタル機器全般が信頼性が低かったとしても、そのように信頼性の低いインフラで顧客サービスをすることを選択した責任は100%自分の側にあります。
本来なら「だから許してください」と言えるすじのものではありません。
今も似たようなことが沢山あります。
サーバが落ちる、データベースが不調、といった「自分にはどうにも出来ません」レベルから始まり、うっかり受信メールを全部消してしまいました、PC が不調になりましたがバックアップがありませんでした、といった「実は単なる不注意」レベルまで、ありとあらゆることで『なにせデジタルなもんで』的な言 い訳が横行しています。
『なにせデジタル』なのか、逆に『いまだにアナログ』なのかは、サービスを受ける顧客にとっては、本当は全く関係ありません。

このような問題点は、実際にはずっと昔からありました。今に始まったことではありません。
しかしデジタル技術や機器が当たり前のように使われるようになるに従って、一層はっきりしてきました。許される幅が新たに広がったかのように勘違いして振る舞う人々も出てきました。
台風や大地震、火山の噴火であれば、それは確かに誰にもどうしようもありません。書類を遅らせないように台風をとめろとか、噴火を消せとは誰も言いません。
しかし「なにせデジタル」なものが、なにかしら台風や噴火「のようなもの」であるかのようにいいわけに使われる場面には、良く遭遇します。

電車とその運行システムの全てをきちんと理解することは、私にはとても出来ません。しかし「なにせ電車なんで」という言い訳が通用しないことは分かります。
デジタル技術や機器でも、それは同じです。

人間と人間の対話に勝てるものは、まだ無い

FAQ のもどかしさ

企業サイトなどのいわゆる FAQ(「よくある質問と答え」)を利用する時、隔靴掻痒の感で一杯になることが多いです。
確かに近いところまで来ているのだけれど、でもそれは私が知りたい特定の事例に対する答やアドバイスではない。
FAQ そのものは、あった方がよいものです。
統計的に問い合わせ頻度の高いものは確かにあります。それを公開しておくことで企業も顧客も効率的に時間を節約できます。
しかし、FAQ から漏れるものがいつでも無数にあります。そのような事例については、個別に対応するしかありません。
さて。 では私はそんな時いつも、企業の「お問い合わせ先」へメールを出したり、お問い合わせフォームから投稿したりするでしょうか。
実はほとんどしていません。
サイトの作り方からなんとなく感じられる印象で丁寧な返答がくることが期待できないように(勝手に)思ったり、気持ちの敷居が高かったり、単に面倒だったりするからです。
どうしても知る必要がある場合には、その企業のサイト以外の情報、つまり「非公式情報」をさらに検索して答を見つけることもあります。
そこまでしなければならないと思えない時には、単にそのまま追求をやめてしまいます。
このようにして企業は顧客を失ったり、顧客からの情報蓄積の機会を失ったりします。
個別の事例にぴったりの返答を返せるのは、やはり人と人の対話だけです。

行けば聞ける

多くの書店員さんは矛盾したことを言います。
「忙しいから営業さんはやたらと来ないで欲しい」
「営業さんが来てくれない。ぜひ来て欲しい」
どっちなんだよ、勝手だな!とイライラする方も多いでしょうが、二つの言葉は結局は同じことを言っています。「役に立つ人には来て欲しい」ということです。
「役に立つ」にはあまりにいろいろなことが含まれますが、その中に、自分が知りたい個別事例についてリアルタイムで話したい、という要望があることは、間違いありません。
注文書も、FAX も、Web サイトの解説も、いろいろなことが読みとれはします。しかし、そこに盛り込まれた情報、情報同士の関連から見えてくるもの以上のものは、決して分かりません。
生身の営業さんに聞きたい・質問したい・相談したいのはその部分です。
面倒でも、効率が悪くても、営業には行った方がいいです。他の部分を徹底的に効率化しても、営業に出る、という部分は効率化しない方がいいです。
営業に出るために効率化する、とさえ考えても良いでしょう。
「いやあ、分かるけどさ。でも質問があるなら自分から積極的に問い合わせてくれればいいじゃない。書店だって売り上げを立てる目的で『仕事』してるわけだし。現実問題として行きたくても無理だったりするんですよ」
おっしゃるとおりです。
営業さんが来なければ、積極的に質問するどころか何か考えるべきことがあると思いつかないような仕事ぶりの書店員も、一部には、います。 過去に一時期書店に身を置いた立場としては書店員さん全体の印象を貶めるように誤解されかねない言い方はしたくありません。しかし、「積極的に問い合わせてくれない人々もいる」という事実は出版社の営業さんの側から見れば「ビジネスチャンス」でもあります。
行けば聞けるのです。

データ分析からは漏れ落ちるものがある

「好みを覚えてくれる」EC サイトは、実は困る

あなたの好みを学習して利用すればするほどあなたに最適な情報や商品を表示します、という方向に力を入れている EC サイト。あなたの興味を学習して自動的に情報をフィルタリングしてお知らせするという仕組みを持ったソフトウェアやサービス。
そういうものが、次第に増えてきています。
一見とても素晴らしいことのように思えます。
しかし、それはとても困ることでもあります。
EC サイトを運営する側にとっては、購買意欲をそそる可能性が高いものを選択して提示することで、より効率的になる、と思われます。
思われますが、実は人間というのはどんな人でもそんなに幅の狭いものではありません。
たまたま丸一年間飛行機に関する本を買い漁ったからといって、次の年もそうするとは限りません。次の年の興味の対象はカバになるかもしれません。
徹底して飛行機に関する情報や商品を提示することで画面を埋め尽くす EC サイトは、カバに関するものを提示すれば再び激しく購買意欲をかき立てることが出来るということには気付きません。
その客が幾つか続けて、自力で探し回ったあげくに、カバに関する注文を入れてくれない限りは。
私は Amazon でそれなりの数の本を買っていますが、実のところそれは「たまたま Amazon で買うことにした」本であるだけです。Amazon が示してくるお勧めリストを見ると、いつもちょっとだけ苦笑します。
時々、本当は購入まではするつもりがないのに、二三の本をカートに入れて遊んだりもします。カートに何かが入ると、Amazon のシステムはそれをお勧めリストを構成する情報として重視するからです。

データ分析と効率化追求の「負」の部分を補う

これは「データマイニングやフィルタリングがじゅうぶんにうまくいっていない」というお話し、ではありません。
そうではなく、好みを覚えると称する行動は、実はある一定の範疇以外の情報を勝手に遮断したり捨てたりしてしまうので、本来はより広い興味を持っているある個人の行動を、じゃましている、ということです。
これが、データ分析と効率化追求の「負」の部分です。
営業に行った方がいいとお勧めするのは、単に個別の書店担当者の質問にきめ細かに答えるために、というだけではありません。
(「おつきあいを維持するため」というだけでも、もちろんありません。)
データ分析と効率化追求に目を奪われていると、より豊かな市場の可能性を見逃すことになってしまうからです。
データ分析は今現在の状況を把握し、短期的に適切な対策をとるためにはとても役に立ちます。絶対にやるべきです。
しかし、それを別の行動で補わないと、やがて必ず「先細り」になります。
PubLine の情報がほぼリアルタイムに更新されるようになった。それ自体は素晴らしいでしょう。でもどんなに素早く売り上げが反映されるようになっても、それは常に「すでに起こったこと」でしかありません。直近ではあっても、過去です。
将来の宝は、データ分析やその結果から得られる「お勧めラインナップ」以外のところにあります。
それを出来るだけ早く察知するためには、たとえ雑談しかすることがないように見えても、現場のひとに会いに行くしかありません。

そうだ書店へ行こう

某旅行キャンペーンのコピーのように
「そうだ書店へ行こう」
と書いてご自分のデスクに貼っておくのもいいかもしれません。
そうだ」の部分が大切です。
悩んだら、行き詰まったら、何も思いつかなくなったら…そうだ書店へ行こう。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。