その全てが少なくともひとつだけ大きな勘違いをしていると思うので、書いておく。
特定のサービスやそれに利用されるソフトを名指しするつもりはないのだけれど、それはぼやかすためではなく、最初に書いたように全てが共通して勘違いしていると、少なくとも私は、思うから。
最近の多くのデジタルなサービスは、大抵うたっている。
「ページめくりが出来ます」
なんのために?
製本されてページがあるという形の書籍や雑誌のページをめくるとき、私たちは無意識に検索している。
読みかけの本を電車の中で再び開くとき、漠然と全体の厚みのこのあたりの、そしてたしか「右ページ」あたりが自分が中断したところだった、という記憶であたりをつけ、その前後をパラパラとめくる。
つまりまず「全体量が明確である」という前提条件がある。
次に、非常におおざっぱではあっても指や手の感覚とか、あるいは映像的な記憶などでほぼ近いところへたどり着く、という行動をする。
そして最後に、前後をパラパラとめくるというところで、曖昧なようでいてかなり高度な高速検索(高速スキャンと言ってもいい)をする。
つまりデジタルの高速で正確無比な検索とは性格が違うけれど、人間自身の脳や感覚を総動員してそれなりに複雑で高度な「あいまい検索」をやってのけているということなのだ。
読みかけで中断した場所を探すという場合ではなくても、たとえばパラパラと拾い読みするという行動は、人間自身の目と脳というけっこう柔軟で高度な道具をフル活用して、自分にとって興味があるキーワードがあるのかどうかを相当な素早さで検索しているわけだ。
見た目が似ているものを作るのではなく、上述したような柔軟な検索欲求に応える、ということを真剣に考えないとページめくりは単に操作に無意味なタイムラグを持ち込むじゃまな存在でしかない。
少なくとも私個人は(特にネットワークのスピードがあがってくるにつれ)ネット上では全てがカチッ → パッと状態遷移するものだ、それで当たり前だと思うようになってきている。素早く動かないものはどこかに問題があるのだと感じるようになってきている。
素早さは常に良く、正しいのか、というもっと大きなくくりの議論にはここでは入らない。ネット上(やネットを通じてPC上で提供されるもの)では圧倒的にそのような感覚に支配されているというのは事実だと思う、と感じているだけだ。
最終的に見た目も現実の書籍や雑誌に似ていて、さらに柔軟な検索機能も備わっているというところを目指したい人や企業がいるなら、べつに反対しない。
しかし、どちらを先に「実装」して欲しいかといえば、見た目ではない。