最近何かにとりつかれたようにずっとtumblrにFlickrなどで見かけた風景写真をクリップし続けているけれど、そんな写真で使われることが多くなってきているのがHDR。
ハイダイナミックレンジ合成(Wikipedia)。
素直に使われていれば確かに綺麗で隅々まで見やすい写真なんだけれど、どう考えても悪夢だな、というものもある。
プロが使っている場合は多分(全くの想像だけれど)そんなことにはならないんだろうけれど、素人はやりすぎになりがち。自分自身がHDRで生まれてくる独 特の輝きに興奮してしまって無意味に、無目的にエフェクトをかけ過ぎているだけとしか受け取れないものが山のようにある。
写真を沢山見続けていると、それ以外にも色々なことがなんとなく分かってくる。
構図には案外独創性がなく似たような、おそらくはどこかで見かけたすぐれた写真の構図を半ば無意識に真似たようなものがとても多いこと。
あともうちょっとでいい写真になるのになぁ、というものの多くは、思い切ってフレームの外に切り捨ててしまった方が良かったものが入り込んでいる。余計な何かが写っているという意味ではなく、要はもっと「寄って」しまうべきだったということ。
そして、ピントが甘い。
そういった諸々を総合してちょっと意地悪く言ってしまうと、素人がものにするいい写真のほとんどはおそらくチャンスと素材に偶然めぐり合った結果に過ぎない。
まあそういうことが分かっていたとしても、自分で写真を撮影してもやっぱりダメな写真しか撮れないと思う。
目が悪すぎて、ファインダーを覗いている時に狙ったものに本当にピントが合っているのかどうかどうしても確信をもてない、という現実的な問題もある。これ はまだ高校生だった頃、新聞記者だった父親のそれなりにいいカメラを借りて少し撮影をした時にすでに、常に感じていたことだった。
訓練を積めば、自分の悪い視力でどんな感じに見えている瞬間が「実はピントが合っている」のかということが経験則で分かってくるという可能性はあったと思うが、今となってはもうそこまでする気力も、多分無い。
それよりも、高いレベルの写真を撮り続ける人は、実は自分の中に何らかのビジョンがあって、毎日、毎時、撮影するに値する素材をずっと探し続けている。な にか素敵なものがあったから撮影するという、ごく当たり前のように見えて偶然任せなことは実はしておらず、ずっと意識的に探し続けているのだ。
これが何か変なことだと感ずる人もいるかもしれないが、たとえばある種の好みが自分の中にある程度出来上がっていてその好みに合うものを常に探して本屋の コミックスコーナーに毎日のように立ち寄る、というようなことは、よくある。写真を撮影するというのも似たようなものだろうと思う。
自分にとって世界はこう見える、というような好みのビジョンが存在していて、よい写真を撮る人は実はそれを撮っているのだろうと思う。
私は、そこまでにはおそらく決してなれない。
ただ他人の成果物の中から自分のビジョンの欠片を拾い上げるだけだ。