tumblrにクリップし続けた風景写真のポストが1000枚を越えた。
続けていけば千だろうが万だろうが当然いつかはたどり着くのでたいした話ではないが。
最近は大体一回5枚ポストしていたが、これはポストする当日に拾ったものではない。自分ひとりの中には結構はっきりとした基準があるので、当日その 場で拾っていてはひどく時間がかかった挙句に自分なりの基準を満たす写真が一枚も見つからないというようなことも、最悪の場合あり得る。そこで普段、いろ いろな隙間時間をつかってストックしておくのだが、日によっては数百枚見ても一枚もピンとくるものがないということも、実際ある。
投稿候補に入れるかどうかとっさに迷ったらとりあえずストックしておき、実際に投稿する時にさらに判断することにしているので、ストックしたものの中から実際の投稿数の二倍か三倍くらい捨ててもいる。
そんなことを続けてきたのも、おそらくなんらか素晴らしい写真を集めたいという分かりやすい動機というより、ある写真を選ぶかどうか、なぜ自分はそれを選んであれは捨てたのか、なぜその写真に惹かれたのか、等々自分のことを考える時間だったからなんだろうと思う。
実際、写真として素晴らしい出来であるというものはもちろん沢山あり、思わず見入って時間を過ごしたものもある。しかしそのほとんどは自分の tumblerには載せなかった。自分が集めたいと思っているものの基準に合わなかったからでもあるが、それよりも、自分が勝手に決めた基準を自分自身が どのくらいちゃんと守り通せるのか、ということを絶えず自問自答していたからだろう。
自分で決めた基準を守るかどうか、ということの他にもいつも自省していたことがあった。
似たような構図の似たような写真を延々と見続けていると、ついつい刺激が強いものに目が行くようになる。絵面も色味も派手なものの方がどうしても他の写真 の中から抜きでてくるように思える。けれども、冷静になれば、そのようなものはほんの少し色をいじりすぎていたり、絵面がどこか人工的すぎる媚をふくんで いたりすることが多い。ちょっと香辛料が効きすぎた料理のようなもので、最初の一口二口ははっとするほど美味しいような気がするが、別に調理や素材の旨さ そのものとは関係なかったりするのと同じようなものだ。
こういうものに引きずられないで自分が選んでいるのか、いつも自問した。
なんだかここまで書いてきたことを読み返してみると、楽しんでやってきたのではなくなにかの修行のようにやり続けてきたかのように聞こえなくもないが、そんなことはない。
一日に数分でもいいから、正直に自分と向き合う時間が欲しかったんだろうと思う。
写真5枚分の坐禅かな。
多分、そんなことなんだろうと思う。