どちらかと言えば規則正しい生活をする方で、ウィークディの朝などは特にほとんど毎日全く同じ時刻の電車の全く同じ車両の全く同じドアから乗り込むようなことをしているので、自然と同じようなことをしている人々と、互いに全く知り合いではないのに、毎日のように顔を合わせることになる。
規則正しい暮らしが苦手な人もあるだろうけれど、実はその方が楽だ、という面もある。習慣化することで精神的に楽なのだ。
混み合った電車に乗るということが嫌いで可能であれば決して急行や特急に乗らないようにしているくらいだから、私にとってはそもそも人混みそれ自体がけっこうストレス。混み合った改札口で思わず足を緩めて人の流れに先を譲り、少し空いてから自分が改札口へ進むなどということも、いつも反射的にしてしまう。
そんな具合だから、いつも同じ時間の同じ車両の同じドアから乗り込むと、本当の知り合いではなくても何人も知った顔がいることで、たとえ少し混んでいたとしてもいちいち緊張したりしなくて済む、という精神的な楽さを選んでいる。
そうなんだろうと、自分で思う。
つまり規則正しい行動を繰り返すことで、私は自分をぬるい保護膜でくるんでいるわけだ。
でも時々「こんな生活をしてると暗殺されちゃうな」と思う。
あまりにも行動がパターン化しているので、何時何分にどこで襲えば確実に殺せるか、誰にでも分かる。
今のところ暗殺されそうな気配はないけれど、電車の中でふと一瞬本気で、そう考えたりする。
なぜわざわざそういう荒唐無稽な発想をするのか、我ながらなんとも子どもっぽいと思う。
うるさいバイクがいると「うるさい!」と怒り出すのではなく(怒ってはいるのだが)どういうタイミングでどの角度から狙撃すれば一撃で倒せるか一生懸命考え始めたりすることもある。狙撃と言ったって私はサバイバルゲームさえ一度もやったことがないというのに、何が狙撃なんだか。 でも、そういうことを考えてしまう。
ひょっとすると、これも怒りを向ける先がなくて誤爆したり自爆したりするのを防ぐために、そういう荒唐無稽な妄想に入り込むんだろうか、と思ったりもする。
そういうふうにくだくだと自分を振り返ってきてみると、じゃあ「暗殺されちゃうから駄目だ」はなんなんだろうな、と思う。
多分、規則正しい生活の方が楽なので普段はずっとそれをきっちり繰り返しているけれど、心のどこかではそういう自分に嫌気がさしている日もあるんだろう。
でも、それを「暗殺されちゃう」という荒唐無稽なことにスライドさせて、自分がはげしく落ち込んだり、必要以上に苛々したりするのを、回避しているのかもしれない。
…まあ、よく出来た仕組みなのかもしれないけれど、結局なにもかも「回避」だな、とも思う。
都会で毎日通勤するストレスを回避するために規則正しい生活をし、その習慣自体にストレスを感じ始めると荒唐無稽なストーリーでさらにそれを回避する、というふうになっているような気がするから、結局「そもそも都会で通勤しない」という根本的な決断をしないと永久に回避の回避の回避…を続けていくことになる。
困ったものである。
特に結論はない。