「志」への違和感

投稿者: | 2012年3月17日

歳をとるにつれ、我ながら保守的でシニックになっていくなぁ、と思う。
たとえば、年々「志(こころざし)」という言葉を持ち出す人に対する違和感が強くなる。

わざわざ志という言葉を持ち出す場合、なんとなく「単なる金儲けじゃなく、志をもってやっている」的な使われかたが多いような気がするが、それは「やりたいことをやっている」とどう違うのだろうか。
世の中のためになる、とか、他人の役に立つ、と信じてやっているということを強調したいのかもしれないが、その人がやっていることが自分以外の人の役に立つと「信ずる」のと「役に立つことが検証されている」ことはまた別だ。何も検証はせずにそう信じてやっているだけならシーシェパードが捕鯨船に攻撃を仕掛けているのと(本質的に)何がちがうのだろうか。

あらためて辞書にあたってみると「志」という言葉は:

ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。
心の持ち方。信念。志操。
何かをしたいと思うこと。特に、将来に対する希望や願望をかなえようとする決意。

というような意味しか持っておらず、それ自体が「良いもの・正しいもの」であるという保証はなんらない。
それを「志」という言葉を掲げる旗に縫い取っただけで、自分の行動が正当化されるかのごとく振り回されてもなぁ、と思う。

では自分は何ひとつ信念のようなものを持たずに日々生きているのかというと、これは答えにくい。
確かに私にもいくつか、選択を迫られた時に参照する個人的な方針がある。それらは世の中のためになるとか他人の役に立つという「大義」とは関係なく、自分が好きか嫌いか、ということに過ぎない。

この歳になってわざわざ告白するのも変な感じがするが、実は私には「尊敬する人」というのがいない。
子供の頃も、青年期も、今も、ずっといない。
子供の頃にそういうことを問われたり、作文させられたりした時も、はっきりと尊敬する人がいないということが分かっていて、まあ、有り体に言えばごまかしてきた。「いません。以上」では学校という仕組みの中でいささか面倒な事になるからだ。
たとえば私がスティーブ・ジョブズ氏を人間として非常に興味深く思いはしても、尊敬も批判もしないのは、単に私はジョブス氏のように生きたいと思わないから、に過ぎない。機会を与えられたら彼のように偉大な業績を残し、歴史に影響をあたえるような存在になりたくないのか、と問われても、単に「なりたくない」と答える。
私にとってはそれはせわしなくて楽しみの少ない人生だからだが、ジョブス氏自身はそういう人生を楽しんだのかもしれないのだから、その辺の価値判断合戦をするつもり自体が、全くない。

価値判断合戦をするつもりがないのだから、そもそも自分の人生のモデルとして特定の他人を選ぶつもりが全くない(必要がない)。
だから「尊敬する人」はいない。
「好きな言葉」と称する「他人の言葉」もない。
私の人生はどんなにくだらなくても私のものなのだ。

と、つらつらと自分を振り返ってみると、なぜ「志」を振りかざす人々に私が苛々させられるのか、なんとなく分かる。
実は私自身が志を振りかざす人々など問題ならないほど我儘(ま、穏便に言えば徹底して個人主義)なので、他人から価値観を押し付けられることに我慢ならないらしい。「志」が「自動的にある一定数の人々の共感をあつめる装置」として働く場合が多いのを、迷惑に思っているらしい。そうやって人々から得られた共感が自分の人生の価値を高めてくれるかのように思って振る舞う一部の人々を、苦々しく思っているらしい。

まあねえ、自分自身が個人主義なのだから逆に他人がどんな振る舞いをしても「価値判断として切り捨てる」ということは出来ない。
ただ嫌いなので近寄らないで下さい、とは言うな(苦笑)