1966年東京の日常生活を記録したドキュメンタリー映像 – モジログで知って、観てみた。
45年とか50年とか経ってしまうと、それはもう個人と直接連続している過去ではなく、感覚としては歴史になってしまうんだよなぁ、などと思う。
若い人の多くにとっては、その頃生まれてもいないわけだから当然、それは自分と直接つながりのない「歴史」。
でも不思議なことに、今54歳の私にとってもかなりの程度、歴史に感ずる。私は1958年の生まれだから、実は1966年のこの映像の中の子供達とあまり変わらない年頃にこの映像の中の世界を実際に生きていたはずだ。だから論理的にはこれは私個人とちゃんと連続しているものと感じられてもいいはずだが、あまりそうは感じない。
まるで、時もある程度以上経つとかび臭く変質してきて、自然に歴史臭さのようなものが漂ってくるかのようだ。
以前から、なぜそれを「歴史」と感じるのか、というカラクリを解き明かそうとしているけれど、いまだに分からない。絶対に幾つかそう思わせる理由があるはずなんだが…。
ところで上の映像は、当時は人々がどんな服装をしていたかとか、どんな行動をしていたかといったような記録としてはよくできているけれど、現在の感覚で言うところのドキュメンタリーとはいささか違うということは、ちょっと意識しておいたほうがいいかもしれない。これは、記録したいものを映像にきちんと残すためにお膳立てされ、演出されている。
冒頭付近で牛乳屋が配達に来るがお母さんが牛乳を取り込む時に、空き瓶がそこにおいたままになっているのが見える。あれは、ない。牛乳屋は前日の空き瓶の回収を同時にやるわけで、ああいうところを見ても、映像におさめるために「はいではいつも配達するようにバイクを走らせ下さい」的なことをやったんだろうと思う。
当時は今のように小型で、手持ちでもブレを抑えこむような高度なカメラはなかったから、お父さんがバイクで出勤するシーンもかなり大掛かりに準備してから撮っているはずだ。
だから、当時をある程度覚えている自分が観ても、記録されている風俗や行動はほとんど正しいのだけれど、リアルタイムに近い状態で演出なしでどんどん撮っていってあとから編集で仕上げるという現在の簡易なドキュメンタリー手法とは違う。
さて、そんなことは全部余談で、なぜ50年経つと自然と歴史臭がしてくるのかという謎の答えが、やっぱり分からない。