アニメーションのCMに感ずる違和感の謎

投稿者: | 2018年9月8日

最初に自分で語り始めたことを最後に自分で否定する系の記事。
(系ってなんだよ)

新海誠監督なんかもいくつかやったことがあるような、実写で作っても良さそうだけれど繊細に描きこまれたアニメーションで作られているCMというのがあるわけで、ああいうものを見るたびに微妙な違和感を感じてきた。
好き嫌いとはちょっと違う。
なんとなくいたたまれないような気持ちになる、違和感。

描きこまれているからこそかえってアラが目立ってしまう不自然さとか稚拙さというものは、確かにある。
背景の人間の歩き方変だろ…人間そういうふうには脚出ないぞ、とか、演出だとしてもその光の当たり方おかしいだろう…とか、まあ、いろいろ。
でもそれらはようするに不自然に「感じられる」というだけのことで、アニメーションの技術や演出が向上すると、気にならなくなる可能性はおおいある。そもそもアニメーションは現実の完全なコピーである必要はないし、そこを目指すべきものでもなく、そうでなければわざわざアニメーションというものに取り組む必要もない。
漫画にしても、絵画にしても、同じことだ。
だからこれらは、まだじゅうぶんなレベルではない、というだけのことで「違和感」とは違う。
なぜ、違和感、なんだろうと時々考えていた。

考えた挙げ句に最初に出てきたのは、実写でコマーシャルを作るときよりも、コマーシャルに込めたいと思った意図があからさまにすけて見えやすくなるからなんじゃないかな。ということだった。

コマーシャルには当然ながら、意図がある。
ある商品の認知度を上げたいとか、すでにある程度認知されている場合にはライバル商品との差別化をはかりたいとか、あるいは企業全体の好感度を向上させることでその企業が提供しているサービスへ安心感や親しみを強めたいとか、なににせよ、かなりの予算をかけて何も目的なくコマーシャルを流すということはない。
営利企業のコマーシャルではなくても、なにか意図があってやっている、ということは全く変わらない。

実写でも当然ながらその意図が伝わることを目指して制作されはするのだけれど、実写にはやむを得ず、雑音のように意図しない情報も入り込んでくる。
たとえば人間が出てくるとすれば、それが有名な俳優かどうか以前に、その画面に映るまでにその人物が生きて蓄積してきた何かが、表情なり仕草なり、息の仕方なり瞬きのしかたなり、あらゆるものからなにかしら、コマーシャルが目指す意図とは関係なく、漏れ出てくる。その結果として、むき出しの意図は、かえっていい感じに希釈される可能性が、いつもある。
動物であってもそうだし、生き物がまったく登場しないとしても、たとえばひたすら海の波だけだったとしても、そこにはびっくりするくらい豊富なコマーシャルの意図とは関係のない情報がある。
むき出しの意図が希釈される、つまり、むき出しすぎて鼻につくものがうまく薄められてごまかされる、という可能性を最初に言ったが、上手なコマーシャルはむしろもっと進んで、予定外に漏れ出てくる雑音情報をさらに利用して意図を伝えようとする。
「重力は偉大だ」と言うより、滝の映像を見せたほうが、あたかも自然界そのものが重力の偉大さを全肯定しているかのように演出できる場合がある。
自然界には、本当は何ひとつ人間的な「意図」はないわけだが。

アニメーションは、黙っていても自動的に存在する情報というものは無い。
そこに見えるものは全て意識的に描かなければならない。
結果として、ある意図をもったコマーシャルというものを構成するために全てを描いていくと、つい意図が透けて見えすぎる結果になりがちではないのか、という気がする。
意図がすけてみえるのでそのコマーシャルはあざとい感じがしてしまう。
これが私が感じている違和感の原因なのではないかと思う。

というところまでが、最初に頭に思い浮かんだことだった。
でも多分、これはなにか違う。
あるいは方向は間違ってはいないかもしれないけれど、もう少し徹底して考えないとなにか大切なことを見落としたり誤解したりしているような気がする。
直感が「それはまだ違う」と言っている。

そもそもアニメーションとはどういうものか、ということをちゃんと考えないとダメだと思う。