『のび太くん、宿題は終わったかい!?』で泣けない

投稿者: | 2005年12月28日
各所で話題のドラえもん最終話 『のび太くん、宿題は終わったかい!?』
…というか、インターネットの話題の潮の満ち引きスピード的にはもうすでに話題だったと過去形になりそうだし、しかもすでに公開打ち切りになってるし、というわけですっかり出遅れていますが。
ごめん、どうしてもみんなが騒ぐほど感情移入できない。良くできているけれど、泣くかこれ見て?

でもこれは自分自身の、何かのせいなんだと思う。
一緒にすると怒る人がいるかもしれないけれど、昔から『ドラえもん』『ちびまるこ』(古くは『サザエさん』)みたいに、基本的には何も起こらなくて、おなじみのキャラクターの日常がずっと続く的な話がどうしても楽しめないんだよね。
より正確に言うと、つい半年くらいまでは、全然楽しめなかった。だから、若い頃にそういうものを見ていないので、自分の中に「思い入れ遺伝子」が出来ていないんだと思う。
ごく最近になって、ようやく『ちびまるこ』を観て、フッと笑えるようになった。
全然関係なさそうで、自分ではひそかに通底するに違いないと思っているのが、『ほぼ日刊イトイ新聞(デリバリー版)』冒頭のふと耳にした会話とかちょっといい思い出話の類をイライラせずに読める日は精神状態が比較的いい、という認識。
「ほぼ日デリバリー版」はずいぶん初期からの購読者なのだが、あの部分が楽しめなくて、かなり長い間購読解除はしていないけれど全く読んでいないという状 態が続いていた。『ちびまるこ』を観て少し笑えるようになった時期と「ほぼ日デリバリー版」を読めるようになった時期とが、多分一緒。

この変化がいいことなのかどうか、自分では全然分からない。
楽しめるものが増えたのならそれでいいじゃないかと思いたいところだけれど、そう言いきれない。
どうしても本を手放しで誉められないとか、ドラマや映画で泣くことはまず滅多にない(何年に一度あるかないかくらいしかない)とか、「感動」とか「美し い」という言葉を安売りする人や文章は絶対に信用しないとか、自分はかなり意固地なところがある、歪んだ人間だとは思う。ここは感動するところでしょ?と 言われて(そのように作られていて)素直に自分の側をそれに合わせて感動しようモードに入ることが、決して出来ない。ちょっとでもアラや作為が見えるとそ れをじっくりと観察してしまう。そんなことが出来ないほど圧倒的な力を持ったものに、うち倒されるように感動させられる時以外、絶対にすごいとは認めない と、いつも心の底で思っている。
とても嫌な奴なのかもしれないけれど、ここを譲ったら自分はただ好奇心がおうせいなガキでしかなくなるという怖さがずっと自分を引き留めている。
これは「他人のことがそう見える」という話ではないので誤解の無いように。
そうではなく、そもそもの自分がどうしようもない人間だと自覚しているので、せめて「世界には本当にすごいものがある」とか「世間には必ずその上を行く人がいる」ということを自分に言い聞かせていないと、怖いんだと思う。

いやまあ『のび太くん、宿題は終わったかい!?』に感情移入できなかったからといって、なにもそこまで話を持っていく必要もないんだけどね。