ギブスンでも難解らしい

投稿者: | 2007年6月4日
最近ウィリアム・ギブスンの初期作品を一気に読み返して、なかなか面白かった。当時「ギブス ンは技術が本当には分かっていない」的な批判が飛び交ったこともあるけれど、今になって読んでみると驚くほどすんなり納得出来るものばかりじゃないか、と いうのが個人的には素直な感想。その当時の技術でSFを裁こうという真面目な取り組みが真面目だったからこそギブスンの本質を受け入れ損ねたのかも。

さて、実はギブスン初期作品の書評を書くつもりはない。
「読みにくい」「分かりにくい」「訳が良くない」というようなコメントがAmazonに結構な頻度で散見されるのに、驚いた。作品そのものは評価していても、ちょっとした疵であるかのようにそう言っている人もいる。
そうか?
『ニューロマンサー』の時の黒丸尚の翻訳は確かに実験的だった。でも、名訳じゃない?
わざと日本語を造語にしてカタカナでルビを振ることで、欧米でギブスンが読まれた時の「嘘のデッドテックな日本」という雰囲気を日本人にも感じさせようというとても創造的な翻訳だと思う。
ちなみに、一部にギブスンの初期作品の訳だけを見てこれを「黒丸尚の訳文のクセ」だと思っている人もあるようだけれど、3年しか違わない時期に訳出しているルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』などではルビはとても少ない(というより翻訳ものの常識に照らすとむしろとても少ない)ことなどをみれば、黒丸尚がギブスンをどう訳するか真剣に考えて意識的に選択したものだと、私には思える。

小説の文章というのは「説明」ではなく想像力を喚起するための「仕掛け」なんだけれど、想像力をもって読むという行為自体がもう失われつつあるのかね。
面白いけれど、抽象的で、文体が詩的だからさらに分かりにくい、という評価なんかがまさにその辺を示しているような気もする。
『ニューロマンサー』の場合が特に顕著だけれど、意識的にハードボイルド風の文体を前面に押し出している。
ハードボイルドな文体はレイモンド・チャンドラーの例をみてもすぐに分かるように、散文でありながら詩文へ近づいていくことが多い。必ずそうなるとは言わない。けれどもハードボイルドな文体というのは、そもそも「説明」を極力排するわけだから、(反対の方向へ誤解されていることが多いような気がするが)良い意味でも悪い意味でも「高度に」文学的な文体に他ならないので、そうなって行くのはある意味必然でもある。

というわけでギブスンは実はSF作家というより、まさに小説家なんだよね。
初期の三部作以降正直SFとしての衝撃力に乏しいのも、悪い意味で小説家だから。
ベンフォードなんかは、個人的には噴飯ものに文章が下手だと思うけれど、立派なSF作家ではある。
そういうこと。