本と本屋さんの夕日

投稿者: | 2009年12月31日
永江朗さんの「本と本屋さんの夕日」の連載が終わった。(第一回は「平成生まれでもよくわかる現代出版文化論講座開講! — 2009/04/17 — 本と本屋さんの夕日 」)。いろいろと勉強になることもあったし「そこへ突っ込むか?」とちょっと疑問に思った回もあったりしたが、それにしてもやっぱり永江さんはプロだな、と終始思いながら読んだ。

永江朗さんは私と同じ1958年生まれの上に同じ北海道出身なので、なんとなく勝手に比較して「永江さんはがんばっているのにオイラのていたらくは どうだろうねぇ…」などと思って落ち込むこともある。今年は特に偶然同じ誌面に連載を持っていたのでとりあえず毎月自分の原稿を読み返して反省する時に、 一緒に永江さんの文章も読んでさらに落ち込むということをやっていたりした。微妙に論旨がかぶるような発言をしていることもあってひとり苦笑したりもし た。永江さんは言うまでもなく私より圧倒的に長い期間、しかもプロとして(それで実際に生活をするという意味でプロで)ライターをやっているわけでそもそ も比較してみること自体がおこがましいが。

自分の出版業界内での知名度や影響力にはまったく幻想を持っていない(つまり、ほとんど知られていないし、発言が影響力を持つことはさらにない) が、それでもそろそろ思いがけないところで「セミナーに参加しました」という人や「本を読みました」という人に出会うようになった。まったく関係がない (はずの)仕事で話したりメールのやり取りをしたりしていて、いきなり相手からそういう話題を持ち出されるとちょっとぎょっとしたりする。実際毎回数十人 の参加者を前に偉そうに語ったり実技指導したりしているのだし、かなりしばしば自分が少なくとも一冊の本の著者であるということを忘れていたりするにして も、それなりに自分が何年かやってきたことの責任というものがあるわけで本気でぎょっとしたりしている場合ではないのだが、どうも自覚が足りない。

…そして、来年はがんばりますという話に続いていくとなんだか年末の投稿としてもっともらしくていいのだけれど、なんだか今そもそもこの記事の始め の方に書いた「同じ1958年生まれ(…)なので」という発言自体にほとんど意味がないな、と思い始めて苦笑しているところなのである。
1958年生まれといえばたとえばマイケル・ジャクソンがそうだし、ティム=バートンもマドンナもそうで、そんな人々と同じ年に生まれたからといってそれ自体に何の意味が? 自分ができることを精一杯やって、評価は他人に委ねるしかないでしょう。うん。