無くなると困る?
出版社におつとめの方に訊きましょう。
あなたが営業に行っているB書店が無くなったら、あなたの会社は困りますか?
次に、書店にお勤めの方に訊きましょう。
A出版社が無くなったら、あなたの会社は困りますか?
最後に、取次店にお勤めの方に訊きましょう。
A出版社やB書店が無くなったら、あなたの会社は困りますか?
また逆に、A出版者やB書店の方は、C取次店が無くなったら困りますか?
上記の問いかけはかなりどぎついものと感ずる方もあるかもしれませんが、実は全然どぎつくありません。
なぜなら、これらの問いかけはメーカー・問屋・小売りという三角形の内側で、お互いがお互いをどう見ているか、どのくらい切実に必要としているか、ということを問うているだけです。
その三角形の内側でどんなに激しくモノをぐるぐる動かしても、お金は一銭も生まれません。会計上の操作がどうであれ、実質のお金(ここしばらくの言い方では「キャッシュ」)は生まれません。
キャッシュをもたらしてくれているのは、実際に出版物を購入してくれている人々です。
ですから本当に意味のある問いかけは、次のようになります。
一読者としてのあなたは、A出版社、B書店、C取次店が無くなってしまったら困りますか?
一読者の立場
出版業界の中に身を置いているという立場はひとまず脇に置いて、あなた個人はどうか? ということを考えてみましょう。
何か具体的な会社名を思い浮かべて、A出版社が倒産・廃業・吸収合併などで出版物を出さなくなったらどうか?と考えてみます。
するとたいていの場合、二つの答が出てくると思います。
「とくに困らない」
「○○(具体的な書籍単品や雑誌名)だけはあって欲しい」
たとえば(ずいぶん古い話で恐縮ですが)かつてSFマニアだった私はサンリオSF文庫が廃刊になった時「それは困る!」と真剣に思いました。「まだ全点買ってないよ!」
しかし、それ以外の面ではたとえサンリオという会社そのものが無くなってもとくに困るとは思いませんでした(べつにキティちゃんグッズを集めてもいませんしね)。
さらに、サンリオSF文庫に収録されていた作品が他の出版社から再刊されるなら、それほどは困らない、とも思いました。
上記の私個人の実例をもう少し詳しく分析してみると、次のようなことになります。
- SFマニアで、翻訳されるものなら何でもコレクションしようという勢いだったという私、にとっては、その作品群がサンリオのブランドであったということは、ほとんど重要ではなかった。
- その作品群をコレクションする(読みもする、多分)という「行為/経験」をすることが大切で、その行為/経験をするための対価としてお金を払っていた。
- サンリオSF文庫というブランドの価値は、それが小売店に展示され続けるために浸透している必要があれば認めるが、私個人はサンリオのブランドそのものに対してキャッシュを払うつもりは無かった。
似たようなケースでさらにマイナーなものに、朝日ソノラマの翻訳SFシリーズがありました。
こちらは決定的にブランド浸透力が弱かったので、たとえ新刊が出てもなかなか書店の店頭で見つけることが出来ない場合もありました(つまり、新刊配本がある書店が少なかった)。
ですから一好事家としては、特定の書店でいつも買うようにしてその書店の担当者さんが次も新刊が入るように手配しようと思ってくることを願ったり、同じよ うな好みを持つ知人に「ソノラマの翻訳シリーズは、翻訳の質は良くないけど、時々えらくマニアックなものが混じるので見逃せないよ」などとたきつけてたり して、そのシリーズが存続するように、自主的に出版社や書店に協力をしました。
出版社名にブランド価値はあるか
本を読んだりコレクションしたりするという行為/経験が出来るということが最も重要であって、それ以外は全て些末なことだ、というのは一読者の本音だろうと思います。
これまた古い話で恐縮ですが、書店で働いていた時のこと、メキメキと人気が上昇していたとある雑誌を立ち読みしているカップルがいました。
二人は「これカッコいいよね」「そうそう」とその雑誌を褒めちぎっていました。
褒めちぎられていたのは祥伝社さんのBOONです。
ふと男性の方が裏表紙をかえして「どこが出してるんだ?」
…。
「…読めない。ふーん。知らない」「聞いたこと無いね」
そしてふたりは完全に興味を失って、また記事を仲良く読んでいました。
次の月に発売元が別の出版社に変わっていても、あのふたりはおそらく全く気付かないでしょう、ひどく記事の傾向や質が変わったりしていなければ。
そういうものなのです。
本や雑誌に関しては出版社名に、原則としてブランド価値はほとんどありません。ブランド価値があると思っているのは業界内部の人間と、一部のマニアだけです。
ですから、どうして「我が社の棚」を作ってくれないんだろうとイライラしてはいけません、版元営業さん。
基本的には、いらないんです。
「××出版フェア」は無意味です。
××出版フェアそのものをやっていけないわけではありませんが、フェアに冠するコピーは出版社名ではないものにしましょう。
対読者と対小売店を混同しない
誤解する方が出てくる可能性があるので、全くの蛇足でしょうが、付け加えておきます。
出版社名にブランド価値はほとんど無い、ということと、じゃあ結局はどんな本を作っていてもいいんだとか、月並みなものでいいんだ(個性を発揮しなくてもいいんだ)ということは、同じではありません。
版元直販が世の大勢を占めるようになれば別でしょうが、まだ当分の間は読者は小売店で本を買います。
セブンイレブンのお弁当がおいしいのか、サンクスのお弁当の方がいいのか、というふうに消費者はお弁当を買いますが、実際に判断の根拠になっているのは、そのお弁当の中に入っているもの個別の味の良し悪しです。
セブンイレブンのお弁当に使われているコロッケの方がおいしかったり、サンクスのお弁当に添えられているソースがいい味を出していたりするわけです。
それらひとつひとつは消費者にメーカー名で呼んでもらえることはまずないでしょうが、××のお弁当をおいしいと判断させることに貢献しているものは事実上、大きなシェアを持つことになるでしょう。
そこには「消費者にとっては透明なブランド」が確かに存在しているのです。
仕入れ担当者にとっては、その点では間違いなくブランド価値というものが存在します。「いい仕事」をしていれば次も優先的に仕入れてもらえる可能性は圧倒的に高い。
つまり、読者に直接出版社名を売り込むことと、小売店である書店にとって出版社名がブランド化するように努めることを、混同して行動してはいけないというだけのことです。
書店の「個性」の価値はどの程度か
書店はどうでしょう?
B書店が無くなったら困りますか? と一読者に訊いてみましょう。
これも大型店なのか地域密着の中小店なのかで、二つの答が出てくるでしょう。
中小店の場合には:「ちょっと立ち寄れる店が無くなってしまうので不便だ」あるいは「代わりになれる店があるのでなんとかなる」
大型店の場合には:「他の大型店が同等程度の在庫量で存在しているなら、べつに困らない」
面白いことに、実は大型店の方が切実ではありません。
特定地域に次々出店される大型店は、その地域の潜在的な読者数のシェアを奪い合っているだけで、読者数そのものを増加させてはいない、という観察とも一致しているように思います。
ただし、「実は増えたらしいよどっちの(対抗し合う)店も」という話を耳にすることがありますが、それだけではその地域外からどのくらい客が移動してきた のかという検証が出来ませんから、複数の大型店が出店すれば読者数そのものが増えることもあるという証拠としては採用できない、とだけ言っておきます。
大型店といえども「ある地域に」あります。ディズニーランドのようにわざわざ旅行してやってくるものではありません。
本が好きで好きでチャンスがあれば「東京へ行く」という強いあこがれを持っているということはおおいにあり得ます。しかし、○○書店一店を目指して上京してくるということは(特殊なジャンルのごく限られた店を別にして)、まず無いでしょう。
大型店にもそれぞれ個性があるのだから完全に取り替え可能だというわけではない、という意見もあるかと思います。
しかし、「~の品揃えが充実している」「~の分類が分かりやすい」「~の展示の仕方が好きだ」という評価は、人それぞれが自分が好む一定の分野に対してしているのであって、店内全てを細かく調べ上げて総合評価しているのではないでしょう。
個性を打ち出している側(書店)の思い入れと、それを評価する側(読者)の評価は別のものです。
書店の個性やポリシーを強調することは悪いことではありませんが、それがあたかも特定の製品のブランド価値を強調すること(たとえば少し前ならSONYのVAIO、今ならAppleのiPod)などと同等の価値を持っていると考えるのは、幻想です。
- 一定の地域内でしか実効がない。
- 扱っている商品が非常に多様なので完全に焦点を絞りきった統一イメージを打ち出すことは、事実上不可能。
という二つの根本的な理由からです。
中途半端な個性よりも最適化
中途半端に「個性」らしきものを発揮されると、目的としているジャンルや単品がかえって見つけにくくなる場合があります。
「これとこれを隣り合わせに展示しているくせにアレはないのかよ」とケチをつけたくなったり、そもそもその組み合わせ方が自分の趣味に反するので気分が悪くなったりすることもあります。
そんな時は、中途半端に個性を出さなくていいから徹底して「月並み」に並べてくれ、と思ってしまったりします。
月並みに並べておいてくれれば、自分で探して組み合わせて買うから、と。
このような問題は、あるジャンルが非常に専門的になりがちな場合に、とくによく起こります。
たとえばコンピュータ関連の専門書の場合、書店の担当者よりも来店客の方がずっと詳しいという確率はかなり高くなります。
インターネットメール利用時のセキュリティに関する入門書と、メールサーバ構築の入門書と、qmailサーバ運用・管理のリファレンスを、「どれもメール に関連するから出版社別にせずに一ヶ所に展示する」という理由で一ヶ所にまとめるという「中途半端」な個性を発揮していたら、失笑されたりひんしゅくを買 う可能性は高くなります。
上の例はたまたまコンピュータ関連ですが、経済にしても、金融や法律にしても、哲学や心理学、生物学、歴史にしても、いくらでもそのようなことが起こる可能性があるジャンルはあります。
その場合、ある程度以上の知識を持っている従業員を必ずそのジャンルの担当につける(あるいは育てる)か、はじめから中途半端に手をつけずに来店客が自分で商品を組み合わせるじゃまをしないことにするか、どちらかしかやりようがありません。
つまらないと思うかもしれません。
しかし「詳しいお客様のじゃまをしない」というポリシーも、ひとつの個性です。
中途半端な個性を発揮しようとするよりも、ずっと立派な個性でさえあるかもしれません。
当たり障りない範囲なら個性じゃない
書店で働く人々に話には「売りたいものを売る時こそ喜びがある」「仕掛けを工夫する時が最高の充実感」というような意見がしばしば出てきます。
私自身長い間書店で働いていましたから、それらが薄給でも働き続ける強い動機のひとつになっていることや、深い満足感があることは、自分自身の体験として良く知っています。
しかし、それだけでは個性の押し売りです。
自分の「働きがい」をお客様に見てもらっても、それだけでは意味はありません。それはプロではありません。
私が初めて書店の店長というものになって働いていた頃、高額本をよく買ってくださっていた近所の会社の社長さんに、配達をした時にこう言われました。
「頑張ってるねぇ。学生さん?」
いや、社長さんは多分本当に誉めてくれたのです。私がとりあえず努力していると認めてくれてはいたのでしょう。
でも私は内心ちょっとショックでした。
まだ大学生のアルバイト身分だと思われていたということは、社長さんの評価は「社会人の一員として(端くれながらその社長さんと同じ土俵の人間として)」 のレベルでの評価ではない、ということです。もっと言えば、まだまだダメなところも沢山あるけれどスタートライン前の段階のわりにはよくやっているね、という甘々のレベルでの評価なわけです。
若い頃私は実年齢以上に若く見られる傾向がありましたからこの誤解はそんなに深い意味があるものではなかったのかもしれません、社長さんにとっては。でも私にとっては、君はまだプロじゃない宣言をされたように聞こえたものでした。
初心者には初心者に合わせて、玄人さんには玄人さんに合わせて、買ってもらい方を「最適化」するように努める気持ちをもう一方にしっかりと持っていなければ、ただ「個性ある書店」というスローガンに振り回されるだけです。
別の言い方をすれば、「個性ある書店」というスローガンに中途半端に取り組んでもしょうがない。当たり障りない範囲なら、それは本当の個性なんかじゃありません。
本気で取り組むつもりなら「よし、それじゃあ店内全ての本を価格帯で分けて展示しよう」とか、「何歳頃に読めば一番感動するという適用年齢で展示しよう」とか、「同じ装丁家の本は全て一ヶ所に並べよう」とか、とんでもないことを考えてみなければ意味がないでしょう。
それらのアイディアの99%は無駄になるでしょうが、上に並べた例はそんなには「とんでもない」わけではありません。そのように本を探している人は確かに実在しますからね。
極端まで「最適化」しすぎてはいますが、「最適化」にそった例ではあるのです。
抽象論をひねくりまわさない
いい加減に「本が売れないのは誰々のせい」と業界三角の内側で押し付け合いをしているのはやめるべきです。誰も受け取らなかった挙げ句に「ろくな本を読まなくなった読者が悪い」などという失礼千万な発言が、今でもたまに聞こえてきます。
それがどんなに失礼で無責任な発言か、あなた自身が一個人として言われてみれば分かります。
「○○さん、昔はミステリーをたくさん読んでいたでしょう? 最近買いました? ○○さんがちっとも買わないからミステリー出版は崩壊の危機なんですよ」
「ねえ△△さん、勉強する気あるんですか? ビジネス書はどんどん読まなくちゃダメじゃないですか。△△さんが読んでくれなけりゃもう新刊なんてとても出せませんよ」
いきなりそんな風に言われたらどう思います?
怒る…というより、失笑するしか返答のしようがありません。
「あくまでそれは『全体的な傾向』という話で…」などという言い逃れはききませんよ。
全体というのは個の集まりです。具体的な個が存在していない全体などというものはありません。本を読んでくれている人々には、みんな名前があり、年齢があり、性別があり、家庭があります。
自分たちのせいなのです。
自分たち全員のせいであり、全員が協力し合わなければ何も出来ません。
そして「全員」というのは、あなたのことです。
「出版社」や「取次」や「書店」のことではありません。実在の人間が存在していない「業界」はあり得ません。その中にいる実在のあなたが、実在の彼や彼女と協力する、ということなのです。
「取次が無くなったら、一読者のあなたは困るか?」という、まだ取り上げていない問いもここに関係してくるでしょう。
まあ、この問いに対する答は大体予想できるとおりです。
読者曰く「分からない」
業界内での重要さはこれっぽっちも否定しませんが、本来取次店は一読者の目には直接触れないものです。
目に触れないけれどきわめて重要ですから「消費者にとっては透明なブランド」の最たるものと言ってもいいでしょう。
ある業界全体を俯瞰した場合には、個別のブランドよりも「消費者にとっては透明なブランド」の方が巨大な力を持っている場合が、非常に多いです。
それだけ責任も重い、ということでもあります。
物事を抽象化して追求してみるのは、確かに役に立ちます。
山田真之介さんが求める本を、求めるタイミングで、求める場所に届けるという「最適化」に特化しても、確かに商売全体にはあまり役に立ちません。
しかし、抽象化することに慣れすぎた頭は山田真之介さんの不満や怒りをいとも簡単に黙殺します。抽象論をひねくりまわすだけで山田真之介さんに応えることは出来ません。
※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
「この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。