少し前になるけれど、現在40歳の人の「あの時代」についての話 – G.A.W.を読んで、まあもう自分は40じゃなく50なんだけれど、自分は別に「男らしさの圧力」を感じたり、「ヲタクと思われることへの自衛」をしたりはしなかったなぁ、と思った。
その時代がそういうものを十分許容していたというのじゃなく、私個人がほんとに好き勝手にやっていたな、と。
圧力とか、偏見とか、多分間違い無く存在していたんだけれど、自分は全く無視して楽しく暮らしていた。
振り返ってみると(1つ前の記事のように)「50になってもライトノベルを読んでいる変なおじさん」なのではなく「面白かったからかたっぱしから少女漫画雑誌を読んでいた中学生」だった頃からほとんど変わっていないだけなんだな、とあらためて自分の変わらなさに呆れた。
だってちょうどその頃大島弓子、竹宮恵子、萩尾望都が重要な作品をバリバリ発表し始めた頃で、少年漫画か少女漫画かという区別なんかどうでもよくて、面白い漫画が好きなら読んで当然でしょう。そのおかげで例えば萩尾望都の「ポーの一族」を連載リアルタイムで読めたんだから幸せだと思いこそすれ、後悔したり、恥ずかしく思ったりすることなんか100%あり得ない。
中学生の頃、ひとつだけ自分を「圧力」から逃れさせてくれていたものがあるかも、と思う。それは女の子だ。
小学生の頃体が弱くて男の子と野球をしたり取っ組み合いをしたりできなかったが、なぜか女の子達がゴムとびやおしゃべりに入れてくれて、それを男の子達が馬鹿にするとかばってくれたりまでした。本当にTVドラマみたいに私の前に胸を張った女の子が立ちはだかって男の子達に言い返してくれたりしたのだ。
今でも彼女たちがなぜそこまでしてくれたのか、そもそも自分がそんなことをしてくれるに値する子どもだったのか分からないけれど、とても感謝している。
そのおかげで大抵の男の子が異性を意識してとてつもなくぎこちなくなる中学生の頃、私は陽の差し込む教室の窓辺で女の子達に混じってなんということもない世間話にまったりと浸ったりしていた。私にとっては、女の子たちは、優しくて、頼もしくて、私を排除しないで人として扱ってくれる素敵な存在だった。性的な意味じゃなく、私は女の子が大好きだった。
そんなわけで、なんとなく私の中では男女の区別というのが、さほど重要ではないように思えるようになっていったし、男女でも「友達」にもなれるし、男女関係なく「いいひと、嫌な人」は一定の割合いるものだ、というふうに思うようになった。
もっともさらに年齢が上がって「女の子」ではなく「女性」として異性と付き合う必要ができてきた頃、今度はいささか問題があったのは事実だ。私の方がどう思っていようと「女の子」ではなく「女性」として扱って欲しいと望む人々は、当然ながら、沢山いたわけで、正直に言うと時々そのことで苦労した。
また、いささか人生に擦れたこの歳になって考えてみると、小学校や中学校の頃、女の子達が全く無償の友情だけで私と付き合ってくれていたと100%信ずるのも、いささかナイーブすぎるだろう。なにか子どもなりの打算がまじっていたのかもしれない。
しかし、それらのことを意識的に割り引いて考えても、私はやっぱりいまでもあの時の「女の子」達に感謝する気持ちは変わらない。
時々もっともらしいことも言うけれど、私は自分が好きな事を好きなようにやってきただけだということがはあまりにも明らかで自分に対して失笑してしまう。
そして誰かがそんな私を、しょうがないなぁ全く、と思いながら、少なくとも真っ向から否定はしない人として私の近くにいてくれたから、今もバカを続けているわけだ。
上手く言えないけれど「小学生の時仲間に入れてくれた女の子」的な全ての人々に、
ありがとう。