本当に今更な話なのだが(なにしろ2008年2月なんだから随分前だ)ポット出版からこの『石塚さん、書店営業に来ました。』を出してもらった時、なんというか、本を出す喜び、みたいなものを無理矢理にでも味わおうとしておけばよかったかな、と思ったりする。
最近たまたまいろんな人が、本を出版した直後に喜んだり、心配したり、要するにいろいろにワクワクしているのを見ていて、ああいわゆる「著者」というのは本当にそういうふうに…なんというかなぁ…悪い意味合いのつもりはないのだけれど「感情的」になるものなんだなぁと思って、ちょっとびっくりした。
私はそういうふうにはならなかった。
なにせ自分の本を見るために本屋に行くということを、これは誓って言えてしまうが、一度たりともしなかった、本当に。普通に偶然本屋に立ち寄ることは当然あったけれど、それは日常生活の一部であり、自分の本をその店内で探さなかった。
今になってみると出版社の営業の人に協力する意味合いでも、探して、どこそこには在庫があったとか無かったとかくらいは連絡してあげても良かったのじゃないかと思ったりするが、しなかった。
長年本屋で働いた上に、それに関係する、ある意味専門的な本を出したから、どういうふうに読まれ、どのくらい売れるか、大体予想がついていたし、その予想自体を著者目線ではなくおそらく書店員目線でけっこう冷たく見ていた、という面が大きかったかな、と思う。
著者が自分で紹介行為をするなどの協力が不足していたよねー、と出版社にはちょっと申し訳なく思ったりするけれど、それ以上に当時の私が思っていたのは、この本を選んで、「少し」置いてくださる書店員の皆さんに対して、著者が失礼な行動をとってはならないということだった。
皆さんを信頼して置き方も仕入れ部数も返品判断もお任せする、というのがこの本に関しては正しいのであって「著者がしゃしゃり出てはならない」、それこそが書店員の皆さんに対して失礼である、ということ。それを一番強く思っていた。
「だから自制していた」というより、気持ちとして自分はもう現役書店員では無くなってしまったけれど心は書店員であるから、本に接する態度としてはみなさんと同じ行動をとって当たり前、という気持ちの方が圧倒的に強かったんだろうと思う。
本を作る過程そのものは楽しかった。
そして紙の書籍というひとつのパッケージにまとめられること自体に意義があるとあらためて気付いたのも楽しかった。元になった原稿が、以前発行していたメールマガジンだったので、なるほど本というひとつのパッケージになると、内容はそれほど変わっていなくても、世の中に存在する価値はあるものだな、と思ったのをよく覚えている。
直接出版業界に関わったことが無い人々がよく「コンテンツ」と言うけれど、本はやっぱり「コンテンツ」には還元されないものだと実感できたのはよい体験だった。うまくいえないけれど、「コンテンツ」の塊と単行本とは、読んで得られる思考の形そのものがちょっと違う。
どちらが優れているかではないが、違う。
自分自身が書いたものでそれを実感できのは、面白かった。
で、まあ、そういう色々はあったにせよ、ともかく「本を出したけど、ちょっと舞い上がってアタフタしちゃいました」というような経験だけは全くしなかったなぁと思うと、なんだか今更だけれど、ちょっと損をした気分だな、というだけの話なんだけれどね、うん。
まず無いけれど、もしも次にまた本を出したとしても、ますます舞い上がらないだろうしなぁ。それはもう「初回」というやつを逃したらきっと二度と来ないね。
考えてみれば、一緒にやってくれた尹さんにも、ごめんね、かなぁ。
もっと一緒に派手に盛り上がったり、みっともなく舞い上がったりしてあげればよかったのかなぁと思ったりするけれど、そういう変わった著者だったということであきらめて(苦笑)。