失われた時を求めて

投稿者: | 2011年12月22日

数日前から、夜眠る前プルーストの『失われた時を求めて』を久しぶりに読み返している。私が持っているのは古い新潮社版の単行本で、確か二回半くらい読み返しているので、布装の表紙の端が少し柔らかくなり、微かにすり切れ始めている。
久しぶりに読み返すと、そのこってりとした情報量の多さに圧倒される。一文一文に、読み飛ばしを拒むように絡み合った言葉、感情、情景がぎっしりと詰まり、良く言えば実に芳醇、でも時々ちょっと胸焼けしそうにもなる。
さすがに「物量」と言いたくなるほどの大長編で、電子書籍版があれば買ってもいいな、と今回は思った。プルーストをポケットに入れて通勤できたら、それはそれで幸せかもしれない。

読んだことのある方は当然、読んだことがない方であっても、この長大な小説が菓子を浸した紅茶の味をきっかけに子供時代の記憶が鮮やかに蘇ってくることから始まるということはご存知だと思う。
そこに至るまでで、新潮社の翻訳版で、二段組みで約48ページ半要するという、のんびりとしたテンポの長編文学が苦手な人にとってはもうその時点で信じがたいとしか言いようのない、あきれた作品でもある。

今回も読み返して行って、まったく当然のことだが、ある晩そのくだりにたどり着いた。
そうそう、こうだった。実は記憶の蘇りにしても一瞬ではなく、ああこのことを自分は思い出しかけていたのか、と主人公自身が理解するまでにも3ページ近くかかるんだったよな、とちょっと苦笑したりしながら、懐かしく、そこにたどり着いた。
その時、本のページの間から何かが落ちてきた。
ベッドに仰向けになり、本を顔の上に掲げて読んでいて、顔をかすめてパラリと落ちてきたので目で追いきれず、なんなのかその瞬間は分からなかった。多分、しおりかな、と思った。
胸の上に落ちたそれを手探りで探した。
指が触れて、しおりじゃない、ということは分かった。なにか変なものだ。なぜだか分からないけれど指で触れただけのその時、それが人工物ではなくなにか自然のものだ、ということが分かった。しかし「なんだか分からない自然のもの」というのは場合によっては危険物でもあるかもしれないので、体が瞬間的に緊張した。
つまみ上げて、そこで初めて目を向けると、それはカラカラに乾いた銀杏の落ち葉だった。
少しくすんでいたけれど、まだ黄色が綺麗に残っていた。

なぜ自分がこの本に銀杏の落葉を挟み込んでおいたのかは、全然思い出せない。
でも、そういえば昔ある時期、一部の人々の間では、押し花や押し葉がけっこう流行っていたな、ということを思い出した。その時までおそらく十年やそこらは完全に忘れていたのだが、そういうことがかつての時代にはあったな、と思いだした。
昔自分の母親もやっていたし、子供だった頃の私もそれをなんとなく真似て持っている本に花や葉を挟み込み、数カ月して開いてみると、特に花びらの場合は透き通るほどに薄くなり、カラカラに乾いているのになぜかずいぶん鮮やかに色が残っていて、とても不思議な気持ちになったものだった。

プルーストの長編を読み返していてこういう経験をするというのは、まったくもって出来すぎで、ひょっとするとこのことを見越して将来の自分にいたずらを仕掛けたかもしれない過去の自分に苦笑いの気分だったりするが、それにしても、と別のことも思った。
電子書籍ではこういう経験はしないな。
だからといって電子書籍版のプルーストが出ても買わないということではない。多分、買う。
でもこういう経験はしなくなり、本を読むという経験は、私が子供の頃から繰り返してきたものとは、なにか確実に違ったものになっていくんだろうな、と思った。
ひょっとすると、この時初めて本当に、なにか決定的に違う時代が来るんだということが、実感出来たのかもしれない。
そうなのかもしれないと、思った。