死が近づいてくる

投稿者: | 2012年5月13日


というツイートを先日した。
ほんとうにそういう夢を見て、おかしかったのでツイートしたのだが、そのあとちょっと考え込んだ。

私はいつまでラノベを読むんだろう。読むどころかしばしばわざわざ読み返したりもしていて、その辺はさすがもとバリバリの文学青年というか要するにただの読書オタクなのだが、それはそれとして。
今私は54歳で、人によってはすでにこの段階で「まだラノベとか読んでるジジイ気持ち悪い」というところだろうけれど、とりあえず現に今読んでいるので、自分としては違和感がない、あるいは、仕方ない、と思っている。
しかし10年後、15年後の自分が同じ事をしていたらどうなんだろうと考えると、よくわからない。

本題は、しかしそれではない。
ここ1、2年、死が近づいてくるのをはっきりと意識するようになった。
自分がいつ死ぬかは知りようがないが、早ければ20年以内に死んでいる可能性はじゅうぶんにある。
20年後には74歳なのだから。
そして、50年後まで生きている可能性はかぎりなく低い、50年後は100歳を超えていることになるから。
つまり、私に残っている年数はこれまで過ごしてきた年数より確実に少ない。これまで過ごしてきた年数の半分程度でしかない可能性も、かなり高い。
25歳の人にとって人生の25年後はかなり遠くのことだろう。それまでの人生をもう一回繰り返す長さがある。しかも、それ以降もまだ続いていく可能性がかなり高い。
けれども私(というか私のような年令になった人々)にとっては、25年は「相対的には長くない」。そして、その25年の更に後の人生が存在するかどうかは、限りなく疑わしい。

単に数字上のことであるなら、それはあくまでも「不確実な可能性」であるにすぎないけれど、そうではない。
普通に暮らしているだけであっても、体のあちこちが痛くなり、毎日のストレッチをサボると翌日確実に悪化する、というような肉体の劣化を日々経験するようになると、計算上の可能性というだけでなく、体感として死が近づいてくるのが分かるのだ。
そういう意味では、老化による生物としての死は、少しずつ進行していくものだ、という感じ方も出来る。
若い頃の死は、大抵の場合は「突然の死」であって、少しずつ長い時間をかけて進行していくものではない。若い創作者の文学や映像では死が大抵「悲痛な突然の死」として描かれているが、その年代では確かに死はそういうものに感じられるし、間違いでもない。私も自分の若いころを思い返すと、そのように感じていたのではないか、と思う。
歳をとった今も、急病や事故などでの突然の死の可能性はなくならないが、それ以上に確実なものとして、何年かあとには自分はもういない、ということを実感するようになるのだ。

死を実感するようになることが、自分の生き方に影響しないというふりをするのは、かえってみっともないだろう。
それは、確実に影響する。
いつかはなんとかなるんじゃないか、と漠然と思っていたこと、つまりは本当にそう思っていたわけではなく考えることを放棄・放置していたいろいろなことに対して、「多分これはどうにもならないだろう」とか「こっちは意識して努力すればなんとかなるだろうが、自分が残りの人生でそれに取り組む価値があるかどうかは疑わしい」というような、なんらかの判断を下すようになる。
時にその判断はとても冷酷だったり、皮肉だったりもする。
しかし多くの場合、冷酷にあるいは皮肉に感じられる原因は、自分がこれまでの人生の中でそれを放置してきたツケが回ってきているからであって、人生が冷酷であったり、人生が皮肉であったりするわけではない。
この辺は、ある程度歳を重ねた人間が陥りがちな誤解だ。
まあ誰しも自分のせいだとは思いたくないが、大抵のことは、自分のせいなのだ。
それを受け入れてしまわないと、人生は一気につまらなくなり、周囲の人々に対しても温かい心をもてなくなる。

死に抗おうとしても無駄だ。
たとえば、残り時間がが刻々と少なくなっていくのは事実だが、だからといっていままでやってきたことの成果を急いで(生きているうちに)得ようと焦ったりしても、結局得るものは満足なものにはならないだろう。急いであれもこれもやれば何かは手に入るかもしれないと考えるのは虫が良すぎるし、そもそも人生は何かを手に入れるために存在しているわけではない。
私は昔から、何かを手に入れるために費やされれる人生という捉え方には違和感を覚えてきた。
成功や、成果や、目標達成が本当に人生の喜びであるなら、非常に多くの人がその喜びを味わえずに失望し続けるはずだと思ってきた。

うん、私はうまれついての怠け者だから努力して何かを手に入れるということを避けて生きてきた面があるということは、全力で認める(笑)

でも、そのことを差し引いても、やっぱり何かを手に入れるために費やされれる人生という捉え方はおかしいと思う。
そのための努力そのものが楽しければやりたい人はやっていいと思う。でも、それを全員に「努力することは正しい」と押し付ける必要はないだろう。努力することが楽しくなくて自殺するくらいなら、その人は別のことをしたほうがいい。
たかが数十年しかない人生の中で、努力によってなんらかの成功を手に入れた人と、だらだらしてなにひとつ成し遂げなかった人と、どれほどの差があるのかさえ疑わしい。

出来れば、少し長生きしたいと思っている。
妻よりもあとに死にたいからだ。
いろいろな事情で私達には子供がいないから、私たちの世界は私たちが死ねば確実に終わる。
私がいなくなったあとの世界に、妻を残して行って寂しがらせたくない。
たぶん、それだけが切実な望みだ。