サリンジャーを読み返す

投稿者: | 2013年10月25日

さて、そんなわけでサリンジャーだ。それを今この歳この時代になって読み返しても面白いのか、やってみた。
はじめに、がっかりさせるのは残念なんだが『ライ麦畑でつかまえて』(「キャッチー・イン・ザ・ライ」という書名で村上春樹御大も翻訳しちゃったりしたから、THE CATCHE IN THE RYEって言っといたほうがいいのかもしれないが、実際のところ、もともと白水社のソフトカバー「新しい世界の文学」シリーズの一冊で出て、その後白水Uブックスになって、さらにUブックスじゃない新書版で村上春樹翻訳が出ているってのは、ちょっとどうなんだろうな、と思うわけだ。正直なところはな)。まあそれはいいや。とにかくここでは『ライ麦畑でつかまえて』ってことにしておくあの作品だ。
あれな、うん。あれは駄目だ。
この歳になって読み返してみたら、まあ予想はしていたんだが、駄目だった。まるっきり、若い奴がえんえんと愚痴をたれているを聞かされているだけのようにしか思えない。仕方がない。こっちはもういい歳なんだから。

おそらくサリンジャーで一番有名な作品を、誤解しないでほしんだが、今この歳の私にはいささかという以上に読むのが辛かったとはっきり言っておいて、他の作品の話をしよう。
技術的に未熟かどうかとは関係なく、初期の短編にはとてもいいものがある。うまくはないんだが、ああ確かに俺にもそこに心臓があるなと思い出させるようなところを突いてくるものが、いくつかある。
『ソフト・ボイルド派の曹長』
『最後の賜暇の最後の日』
『一面識もない男』
『ブルー・メロディー』
残念ながら、この辺の作品は中古本をわりと一生懸命探さないと、もう読めない。まあでも、絶対に入手できないというほどでもないから、読んでみるのもいいんじゃないかと思う。そして、急いで言っておくと、サリンジャーが公式に公開し続けることを許可した短篇集である『ナイン・ストーリーズ』収録の作品群は、それほどは、よくない。すみずみまで神経が行き届いていて、とてもよくできた作品ばかりだ、実際。でもあまり好きではなかった、この歳になって読み返してみたら。

サリンジャーというのはある意味ではとてもわかりやすい人だったのかもしれないな、と今回読み返してみて思った。私がそんなことを偉そうに言ったところで説得力もなにもないし、ほんとのところ、誰を説得しようとも全く思っていないんだが、ともかく、こうだ。

世の中はくそみたいなことや、やりきれないことがほんとに山のようにあり、しかもそれがくそみたいなことだとかやりきれないことだということに気づきもしないようなインチキ野郎どもがうじゃうじゃいる。その一方で、奇跡的で貴重な瞬間というものも、確かに、ある。
インチキ野郎どもの目を覚まさせてろうと思って、窓ガラスを100枚かそこら叩き割ってみたけれど、それじゃどうしようもないということがわかった。残念ながらな。
じゃあどうやって奇跡的で貴重な瞬間を失わずになおかつ普通に生きていくことができるか一生懸命考えなくちゃならん。それができなきゃ、実際、生き続けていくことが出来ないんでね。
これが、サリンジャーがたどった道だ。

そして、そこがサリンジャーが並みの作家じゃなかったところだと思うんだが、この第三段階に達した時、この誠実そのものの作家は、普通に生きていくということをまさに普通的な描き方をしなければいけないとけっこう真剣に考えたんだろうと思うわけだ。説教臭く、もっともらしく書くんじゃなく、こういうきわめて難しいテーマをアメリカのホームドラマの調子でえんえんと書くという道を選んだ。くだらなくて、物質主義的で、口汚くて、実にありふれた、1000くらいのホームドラマの、ソープオペラの、学園ドラマのテープを適当に切り刻んでつなぎあわせたらできる上がるかもしれないと思わせるようなシーンの連続で、ともかく兄が妹に「真のキリストとは誰か」を教える話を書いたりしたわけだ。そう『ゾーイ』というあのとんでもない作品で。
たいしたもんだ。

ここでまた、残念な発言をしなければならないような気がするが、実はそう多くの人は残念に思わないんじゃないかという気もする。つまり、その後の『大工よ、屋根の梁を高くあげよ』『シーモア-序章-』は、実はそんなには良くない、ということ。『シーモア-序章-』の方はじっさい、そんなに良くないどころじゃないかもしれない。作品そのものの中でシーモアが弟であり語り手であるバディに、幼いころ、友人とビー玉遊びをしているところに語りかけてくるシーンがある。

「そんなにむきになってねらわないようにはできないのか?」と、彼はわたしにきいてきた、あいかわらず、同じ場所にたったまま。「ねらって当たったとこで、そんなのはただの幸運だぞ」

–鈴木武樹 訳

『シーモア-序章-』は、まさにそんな感じのする作品で、必死でねらわないようにしようとし続けながら結局それに失敗し続ける。
えーと、ごめん、家の本棚のどこかに『ハプワース16、一九二四』も間違いなくある(もしかすると二冊ありさえするかもしれない)のだが、多すぎる本の何処かに埋もれていて見つけ出せなかったので、今回はここまでだ。


ここからはサリンジャーの作品そのもとは直接関係ない。
口調もいつもの自分のものに戻してみる。
ただ、サリンジャーを読み続けていた時、脈絡なく浮かんできたことが妙に印象的だったので書き残しておく。

私はいかなる宗教の信者でもない。
ただ、もしも死後というものがあり、神やそのような何かにあいまみえ自分の人生について問われるようなことがあったなら、どのような質問をされそうか、とふと思った。
どんな業績を残したかは多分聞かれないだろう。よい仕事をしたかとか誠実に責任を果たしたかとかさえ聞かれないような気がする。
実は妻を愛したかとか、人に、出来るときには、親切にしたかとかも、ひょっとすると、ないかもしれない。
毎日朝ごはんを食べたかどうか聞かれるなどというのが、実にありそうなことだ。
そんなふうに、ふと、思った。
そして、もしも神のような存在があるのだとしたら、それでいいのだ、という気もした。
正しいことを正しいと信ずるから行うのではなく、単にそれが好きだからするというあたりになって、初めて聖。
結局正しいことをするのさえも、自分の努力や能力ではなく、賜物だということ。
人間にできることは、よく耳をすますことだけで、他の全ては驕りだということになるんだろう。
ずいぶん昔から、何人もの人が似たようなことを思ったらしいということは、知っている。
でもまあ、ふと、そう思った。

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