父の死

投稿者: | 2018年6月13日

5月の終わりに父が亡くなった。
最後の数ヶ月は入院したままだったが、もう88だったからじゅうぶん生きただろう。
最初の入院のきっかけとなった肺炎から始まり、敗血症や胆嚢炎を併発したりしながら、除々に体も弱り、途中からは意思の疎通もできなくなり、比較的長い時間をかけてだんだんと父が離れていったかのような状態だったので、とうとう亡くなった時は実のところ悲しみはなかった。
お疲れ様、とでもいうような気持ちで。

病院の主治医からは忙しいだろうにわりあい頻繁に経過の連絡をもらっていた。
その週の頭に、血圧や血糖値、酸素飽和度がある一線を下回りかけているので、あと3日から4日の内にもしかしたら亡くなることもありえます、と言われていた。そのまさに3日目、朝出勤しながら「とにかく会社に着いたあたりで病院に様子を聞こう」と思っていた。とある駅で乗り継ぎ電車待ちで自分の電車が少し停まっていた時に、病院から電話が来た。各種数値が限界値を下回り始めているので、今日、明日が最期になりそうです、と。
その場で反対ホームに移って自宅へ引き返した。
会社に連絡のメールをし、妹に連絡をし、それから飛行機や宿の手配にちょっと手間取りながらも、夕方には札幌へ向かった。

夕方遅く千歳空港に着き、そのまま地下のJR線に乗った。
発車を待って腰をおろしていると電話が鳴った。病院からの表示だったので、電車をいったん降りて、ホームで受けた。
看護師から「今心臓が停まってしまいました。亡くなりました」と知らされた。そのあとわざわざ主治医が電話に自主的に出てくれたので、今まで大変よくしてくれたことにお礼を言い、あと一時間ちょっとでうかがえると思うので病院内の手続きは進めておいてください、とお願いした。
なんだか狙ったような、あるいははずしたような、こういうタイミングで亡くなる父にため息をつきながらもう一度電車に乗った。
もう、ある意味、焦ったり、ドキドキしたりする必要もなくなってしまったので、夜になりかけている車窓からの風景をぼんやり眺めながら札幌へ向かう列車に揺られた。

病院に着くと少し先に妹夫婦とその子供が父が亡くなった病室に来ていた。
父はまだ亡くなってすぐだったので目も口も開いたままというような状態ではあったけれど、それでも穏やかな顔だった。苦しまずに亡くなったと思いたい、という無意識の気持ちがあっただろうとは思うが、それを差し引いてみても、実際穏やかだった。そして「やっぱりこの人はハンサムだったな」とちらっと思った。父がハンサムだったのは事実で、歳をとっても、亡くなっても、それは変わらなかった。
そのあとは、病院の事務的な手続きをしたり、葬儀社と連絡をとったりと慌ただしいばかりだったが、どれもこれもやらねばならないことばかりだから淡々と進めた。

葬儀はごく簡略なものにしておいたが、そうは言ってもこまごまと決めなければならないこともあり翌日はそれらを打ち合わせたり、遺影に使う写真を探したり、突然読経に来てくれる予定の僧侶から戒名の相談の電話がかかってきたり、いろいろやりながら、役所を巡ったり、知人や親戚に連絡したり、久しぶりに昼食を取る間もない忙しさだった。
大急ぎで実家で書類を確認する必要があり、そのついでに遺影に使う写真も選んで斎場へ届けなければいけない、という状態でいたとき、長いこと友人でもあった町内会の方が二人偶然訪ねてきた。(うわー、今猛烈に忙しくて丁寧に対応している暇はないんだがなぁ)と思ったが、ふと思いついて、写真のアルバムを4冊くらいドサッと持ってきて、お二人に友達として父らしいと思える遺影用の写真をぜひ選んでください、とお願いしてみた。
結果として喜んで選んでくださったし、選ばれた写真は、葬儀に参列した家族にも親戚にもそろって好評で、とっさの荒わざだったけれど、みんながよろこべる結果になったよい出来事だった。

人間骨になると小さいなぁ、というのが、焼き場で父の骨を見たときに思ったことだった。
焼きあがった直後の骨を見たのは初めてではないが、はっきりとしたイメージを持っていた父という人とのギャップから、とくにそう感じたのかもしれない。
焼き場は新しくて、大きくて、きれいで、そして遺族がどのタイミングで何をするべきなのか控えめながらいちいちはっきりと全て指示が出された。誰と誰がどの位置に立って何をすべきか、他の人はどうすべきか、事細かに。
ああそうか、もう誰か年配者がちゃんとわかっていて自然と動くという時代でもなくなったのだなぁ、と感慨深かった。
そういえば葬儀の時も読経しながら僧侶がいちいち皆で声をあわせて南無阿弥陀仏を唱えるべきタイミングをしれっと指示していたりして(わけあってうちの親戚はこういうことに強いということもあって)ええー今ってそうなんだ、と軽く驚いたりしたものだったが、いや、実際もう今はそうなんだろう。
そしてそういうふうになっていると、正直、圧倒的に楽ではあった。

私自身以外の親族や親戚のことは、またそれぞれにプライベートな出来事なのだから、ほぼ全て省いた。一連の出来事の中に家族が関わっていなかったわけは当然ないし、親戚についても久しぶりの何がしかの交流はあったが、私が勝手に書くことでもない。ここには自分のことだけを書いた。
また(経験した方はご存知だろうが)実のところ、様々な役所、年金事務所、金融機関やらの手続き、いやそもそもその手続に必要な書類を用意するための手続きから始まって大変手間がかかり、忙しく、ほとんどの時間はむしろそちらに忙殺されるのが本当のところだ。
しかも、まだ半分も完了していない。
ため息がでるが、これは実は父の死そのものとは直接には関係がなく、たまたまあることが起こればたくさんの書類が必要になることがあるというだけのことなので、それらもほぼ全て省いた。

まだ何も片付いていないが、とりあえず遺品がわりに父のネクタイを数本もらった。
以前からこの人はちょっとおもしろいネクタイをたくさん持っているよなぁと感心していた。私が実際に身につけられるものだから、それもいいだろうと思って。

葬儀場から焼き場へ向かう途中で、ほんの少しの間、天気雨がバタバタと車の窓を打った。
亡くなるタイミングといい、この雨といい、なんだかこの人はほんのちょっとずつなにか記憶に残りそうなことをやるなぁ、と思った。
ほんとうにそこに超自然的ななにかが関与していると信じてもいないが、そう思った。