名作が何かを止める

投稿者: | 2018年10月7日

またもや(というかいつもどおり)追求の足りないふんわりとした話だけれど、どうもあるジャンルでの名作の存在がそれ以上そのジャンルを追求する意欲を失わせる可能性があるんだな、ということをふと思った。

➡️「僕にその手を汚せというのか」。23周年を記念して松野泰己氏が幻の小説版『タクティクスオウガ』の草稿冒頭を公開
というニュースがあって、そういえばそうか、いやぁ『タクティクスオウガ』は確かにすごい名作だった、と思った。
家庭用ゲームのレベルを越えた重いストーリー、ストーリー展開のためには主要登場人物さえ殺すストーリー分岐、ゲームシステムの作り込み具合などなど当時としては驚愕のクオリティだったな…などなど一気に頭の中にいろいろなことが湧いてきた。
しかし今は『タクティクスオウガ』が素晴らしいことを伝導するためにこれを書いているわけではないので、オリジナルはスーパーファミコンで始まったこのゲームのことは下記のWikiなどを参照してもらうとして
➡️タクティクスオウガ(Wikipedia)

ふと
「あれ、でも自分実はこのゲームをこれでもかとやりこんだあとくらいからゲームそのものをほとんどしなくなったんじゃない?」
ということに思い当たってしまった。

どこか他で書いたことがあるような気もするが、私はもともとは重度のRPGやシミュレーション系ゲーム中毒者で、ある時期は頭の中だけでウィザードリィの迷宮マップを完全に歩き回れるというくらいだった。
だから、それほどゲームに夢中になっていたわけではないけれどあのゲームは良かったと思います、というようなことではなく、重度中毒者の心をガッチリ掴んだのが『タクティクスオウガ』だったのに、実はそれ以降ふっとゲーム熱が冷めていった、というのが事実だったのだ。

年齢的なことや、その頃から仕事が忙しくなりすぎたとか、多分いろいろなことがあったんだろうとは思う。
けれども、『タクティクスオウガ』が名作過ぎた、ということも関係しているような気がした。
あまりにできが良かったので、無意識に同じようなジャンルのゲームなら『タクティクスオウガ』を超えているのかどうかが判定基準になってしまったのではないか。
23年前から今までの間に、きっと『タクティクスオウガ』を別の面で超えたゲームはあったはずだと思う。しかし、『タクティクスオウガ』を遊び尽くしたあとすぐからの数年間では、これを超えるゲームよすぐに出てこいと言ってもそれは無理というものだ。

そのように考えると、自分のなかに「名作過ぎてその後そのジャンルの判定基準になってしまったもの」というのは、他にも確かにある。
たとえば『指輪物語』がそうだ。
はじめて読んだときの衝撃が大きすぎて、このジャンルのすべての判定が『指輪物語』と比べることになってしまった。
翻訳の純文学系ではたとえば長らく『失われた時を求めて』が絶対的な判定基準で、その後ナボコフに出会うまでその呪縛から逃れられなかった。
多分アニメでもテレビドラマでもいくつもそういう存在があるんだろうと思う。

ある時期にすば抜けたものに出会うと、実はそれが一種の呪縛になってしまってその後新しい出会いに向かっていく気持ちを奪ってしまうというのは、たぶん誰にでも少しは覚えがあることかもしれない。
優れた人、もの、出来事、どれも素晴らしいけれど、呪縛になる危険も高く、なぜあの人はあんな昔のものにしがみついていまだにことあるごとにそれを基準に言説を始めるのだろうという気持ちの悪いことになりかねない。それは、あることを歴史的な意義として正しく評価するという健全な姿勢とは違う。