5回くらい読むといい感じに飽きてくる

投稿者: | 2008年1月5日

1回読むと「案外いいんじゃないか」と思える。
2回読むとやたらと細かな言い回しなどが気になり、ダサいなぁと思う。
3回読むといいのか悪いのかよく分からなくなる。
5回くらい読むと、ある意味飽きてしまうせいもあってようやく冷静になり「ここははっきりした理由があって改行しているのだがそれが理解されていないのか、それとも分かっていてもあえて必要ないと判断しているのか、どっちなんだ?」と編集者のメモに頭をひねる余裕が出てきたりする。

まあ、改行なんてどうでもいいのかもしれない。
しかしそれが文章全体のリズムを作る要素のひとつであり、書かれていることが論理的に正確かどうかよりも「ここに溜めがあるかどうか」の方が、個人的にはずっと重要に思えたりする場合がある。
なぜそんなことがそんなに気になるんだろうと思いながらゲラを読み直し続けていたが、ここには絶対に溜めが必要なんだ、と思う部分というのは、例えば私がセミナーの講師として話しているような時には必ず、話すスピードをゆっくりにして強調したり、間をおいたり、身振りを添えたりする部分なんだな、というこ とに気づく。
とはいえセミナーの講師などを始めるずっと前に書いた文章もいくつもあるので、講師の仕事が文章に影響したわけではない。それ以前からずっとそうやっていたことになる。
多分「呼吸と文章」なんだろうな、と思う。
文章を書いていて迷ったら音読する。音読して一番自然に感じられたものを最終稿に残す、ということをいつもするので、自分の文章というのは、使っている単語や言い回しが文語なのか口語なのかに関わらず、ある種の言文一致なんだろうと思う。

さてそれでだ。
そのことが重要なのかどうかというと、私にとってはやっぱり重要なのだと思う。それがあるから、私の、文章。より上手に書けるかどうかという議論は出来るけれど、私の文章であるという印がついているかどうかはそういう呼吸で決定的に決まってしまうので、それを取り替えることは出来ないんじゃないかと思う。
文章(文体)は模倣することが出来、とても上手く模倣すれば私が書いていなくても私の印がついている文章ができあがるのは事実。だから、誰某の文体と称するものに必要以上に価値をおこうとするのは、感情的な思い入れにすぎないという冷静な見方もある。
でもね、残念ながらそれは実際に他人の文体をいくつも、真剣に模倣してみたことがない人の空論。
実際にやってみれば分かるけれど、文体は思考の仕方そのものに影響する。少なくとも、ある情景を目にしたとき誰某ならどの部分に着目し、一段落の何割くらいをその件に費やすだろうか、というような、世界のとらえ方の癖のようなものは、文体をまねし続けているだけで分かるようになってくる。
そういうもの。

などとなんだか非常に偉そうに、こだわりに満ちてゲラを読んでいるかのようなことを言っているけれど、
えー? どっちにするとか聞かれてるけど正直どっちでもいいんじゃない?
なんかすごーく細かく直しが入っているけど、そもそもこの段落丸ごと削除しちゃえば?
とか思うところも、たくさんある。
つまり私がこだわるところと、編集者がこだわるところが相当に違う。
せっかく他人の目で見てくれているのだから真摯に耳を傾ける気持ちは大ありなんだけれど、そもそも「どっちでもいいんじゃない?」程度にしかその部分に重要性を感じていなかったりすると、なぜそこにこだわったのか訊いてみようと思うこと自体が、ちょっと億劫だったりする。
そんなことではいけないのだが、それがちょっとだけ、本音だったりする。