8月 032014
 

以前はずっと、アール・ヌーヴォーがたいそう好きだった。
どのくらい好きだったかと言うと、かつて書店社員だった頃、毎月の全員のシフト表を作る時に背景にアール・ヌーヴォー風の装飾をわざわざ描き込んでいた時期があった、というくらいに好きだった。
頭を抱えてひそかにため息をついていた社員やアルバイトがさぞ沢山いたことだろう。手元に一枚でも残っていればスキャンして黒い過去を公開し、皆さんにも頭を抱えてもらいたいくらいのものだが、残念ながら、無い。

それ以前から漠然と興味を持ってはいたが、はっきりと意識するようになったのはオーブリー・ビアズリーを知ってからだ。アール・ヌーヴォーには非常に分かりやすくて有名なスターが何人かいて、グラフィック・アートではビアズリーがもちろん代表的な作家のひとりで、わたしも御多分にもれずとりこになったわけだ。

初めてアール・ヌーヴォーという言葉を知ってまもなく、実はそれはArt Nouveと綴るのであり、そのままの意味は面白みも何もないと知った時ちょっと拍子抜けしたものだったが、まあそれはそれとして。
正直なところ、さらに熱心に勉強するほどまでには至らなかったので、単なる「そういうものが好きな人」にとどまっている。

さて、アール・ヌーヴォーにつづいて1920年頃からアール・デコが流行したわけだけれど、長いこと、私はこれらをあまり好きではなかった。
(うーんなんだか変な翻訳文みたいな日本語だが、うまく直せない)。
工業製品がたまに獲得する機能美のようにそれ自体が持っている性質が形として表に現れてきたものではなく、無理矢理付け加えたりかぶせたりした、意味のない単なる飾りに思えたからだろう。
時に「下品」としか言いようのないレベルのものさえあるなぁ、と思っていた。

だいたいのところそんなふうに、アール・ヌーヴォーは「いい」、アール・デコは「いまいち(というか、そっと見ないふりをして通り過ぎる)」と思ってきたのだけれど、最近ふと、アール・ヌーヴォーは「ちょっとくどいよなぁ…」、アール・デコは「スッキリした面白みがあるよね」と思うことが多くなっているのに気づいた。
中南米の都市にいきなりアール・デコ調の建築物があるのを見かけたりすると、ばかばかしいと思いながらも思わず顔がほころんだりする。ああいうのは、けっこういい。

なんなんだろうな、これは。
自分の中で何が変わって、受け止め方が変わったんだろうか。

キッチュな面白みを若くて真面目だった頃より受け入れるようになったとか、ゆるキャラの存在を笑って受け入れるようになったとか、そういうこととも関係しているような気はする。
そんな気はするが、はっきりとは、分からない。
とりあえず、アール・デコ調の自転車とか出てきたら買うかどうか考え始めそうな気はする。

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7月 212014
 

あっさりと言ってしまえば、ちょっとそれは飽きたなぁ、というだけの話でそれ以上ではないです。
なにも「追求」してません。

先日あまりに体調が悪くて何をする気も起きずにぼーっとしていたらテレビで『スター・トレック イントゥ・ダークネス』をやっていたので、ぼーっと見た。
監督のJ・J・エイブラムスが思ったよりずっといい仕事をしていて飽きさせなかったのと、ベネディクト・カンバーバッチの悪役ぶりがとても良かったので思わず最後までちゃんと見た。
スタートレックは、バリバリのSF設定のはずなのに重要なところでは必ず人間同士が生身で殴り合わないといけないお約束になっているとか、普通に考えてもそのシチュエーションでその設定は無理でしょというハードSFの「無理にでも科学的に理屈をつける」手間がかけられていないことが多いとか、正直気に入らないところが多々あるシリーズで、今回もきっちりそれらのことをやってくれてしまっていたが、まあそれでも面白かった。うん。
そして、『イントゥ・ダークネス』に出てくる機械類が(パイプ類がうねり回るのは別として)基本的に皆四角くて動かないデザインだ、というのも、実は密かに良かった。

これも先日偶然見た『マン・オブ・スティール』は正直なところ駄作だと思うけれど、思わず「ああ……」とうめいたのはあのウネウネ動く触手をもったやつら。またか、と。
どうしてもここ10年位、その手のデザインのマシンがどこにでも出てくるなぁと思ってしまう。
厳密に、映画で最初にそのデザインが大きくフューチャーされたのがどの作品なのか調べていないし、そんなことを云々できるほどそもそも私は映画を沢山見ていない。ただ『マトリックス レボリューションズ』でそういうデザインのマシンが印象的だったのは覚えている。あれが2003年頃公開されたはずだから、ここ10年位という印象はそうひどく間違ってはいないかもしれない。
予告編を見たら『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の敵もまったく同じパターンのデザインと動きで、ちょっと脱力した。

金属の塊(あるいはそのように見える何か)なのにウネウネとしなやかに素早く動く、というのが、印象的で面白いのは分かる。タコとかクラゲとかが、好き嫌いを超えて独特の印象深さを持っているのも、分かる。
でもなんかそろそろ違うパターンを考えようよ、とか思う。

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7月 122014
 
moon-stars@2x

新しく店長として着任したというより、おそらく地域マネージャーか何かの立場としてとある店舗のテコ入れに赴いた、という感じだった。
一見、問題ははっきりしていた。
テナントとして入っているビルの諸々の規制が無意味に厳しくて、同じフロアに入っている飲食店なども店頭にメニューの立て看板さえ出せず、活気の演出がまるでできない。理由は分からないが(人が集まりすぎて通路にあふれるのを嫌ったのかもしれないが)書店である当の店舗も入り口から何メートル以内には平台を設置してはいけないというルールのために、よくある「入口付近の新刊平台」とか「催事平台」が全く機能しない。
このあたりですでに、そんなに嫌だったらそもそも小売業をテナントに入れるな、とビルのオーナーに言いたいところだが、規則にはさらに「テナント店舗で働くものは髭、長髪は禁止」などということまで書いてあったりする。べつにどうしても髭や長髪で働かないと困るということはないが、そんなことをビル側が決める必然性がまるでない。

夢の中で私は、真面目だが気弱そうな店長に、どうやって意味不明なテナント規則の改定を求めるか、また、改定が実現しない間、どうやって規制の隙間をかいくぐって小売業としての本来の力を出すか、などというアイディアの数々を語っている。
けれども夢の中でも薄々気づいている。
今は不当な規制で最低限の状態にさえなっていないから、そこさえなんとかすれば今より確実に売上は伸びる。そこまでは実はとても簡単だ。でも、それは書店業というものに対する根本的な施策では全然ない。

経験したから分かるが、ダメな店舗をマシな店舗にするのは実はわりに簡単だ。当たり前のことが当たり前にできるように整えればいいのだから、目標と意志をもって進めばある程度までは必ず実現できる。
でももっと売上を伸ばすとか、まったく新しい客層を開拓するとかということになると、恐ろしいほど難しい。それどころか単に一定水準を毎年維持していくことだけでも、難しい。
改革や立て直しという段階は分かりやすいし派手なので注目されたりもてはやされたりすることもあるけれど、あんなものは大したことはない。そのあとの毎日、毎月、毎年が、ほんとうに大変。

以前に「書店の夢を見た」というのも書いているけれど、そこでもやっぱり、書店経営は難しいという話になっている。そればっかりなのかねぇ、私の書店時代の思い出は。
楽しいことも沢山あったと思うんだけどね。

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7月 052014
 

opera-software-logo先日書いたとおりOperaに乗り換えた
さほど戸惑うこともなく急速に馴染んでいっていて、けっこう快適にすごしているのだけれど、一点だけ、ブックマークバーの件がなんとなくムズムズしたままになっていた。

現実問題としてスピードダイヤルのみではブックマークレットが使えないのでごく一部ブックマークバーを併用しているが、

と言っていたわけだけれど、これも工夫すればブックマークバーなしでやっていけるんじゃないかなぁ、可能なんだったらそうしてみたいよねぇ、と。

私がブックマークバーを残していた理由は上に言っているようにブックマークレットを使いたいからという一点のみだったので、それを何とかすれば必要なくなる。
まず同等機能の拡張機能がある場合はそれに置き換えてしまう。これはOperaのオリジナルの拡張機能だけではなくChromeの拡張機能も探してみればそんなに難しくない。残るのが、ブックマークレットの挙動が一番気に入っていて拡張機能に同等の挙動をするものが無い場合。

そこで、ブックマークレットをそのままChromeの拡張機能に変換してパッケージしてくれるサイトを使うことにした。
Convert bookmarklet to Chrome extension
作るところまではとても簡単。サイトの説明が簡にして要を得ている。
ちなみに作者のPeter Legierskiさんの笑顔がとてもキュートなので載せておく。thank you, Peter!
peter-legierski

Instructions(説明書)
1. Type name, description and drag bookmarklet into form above.
(上記のフォームに名前、説明を入力しブックマークレットをドラッグします)
2. Click “Generate extension” to download zipped extension.
(zip圧縮された拡張をダウンロードするために「Generate extension」をクリックします)
3. Unzip downloaded file.
(ダウンロードしたファイルを解凍します)
4. Go to extensions settings: Menu > Tools > Extensions
(メニュー > ツール > 拡張 と辿って拡張設定に行きます)
5. Tick “Developer mode” (top right).
(開発者モード(右上)をカチッとやります)
6. Click “Load unpacked extension…” and select unzipped folder.
(「パッケージ化されていない拡張を読み込む」をクリックして解凍したフォルダを選びます)
7. Job done! Your new extension is loaded (the black dot).
(完了です!あなたの新しい拡張がロードされます(黒いドットのアイコンで))

8.(Optional) Follow me on Twitter: @PeterLegierski
(よかったら私をツイッターでフォローしてね)

もちろんこれはChromeのための説明なので、4以降はOperaのものとして読み替える必要はあるが、そもそもブラウザエンジンがほぼ同一なので、拡張機能のページを開けばあとはほとんど変わらない。
さて、ここからがひと工夫。

注意:二つ目以降はフォルダー名を適宜変更すること。
ダウンロードされてくるzipファイルの名前は常に同一なので、ブックマークレットをひとつだけしか拡張機能に変換しないのであれば問題ないけれど、二つ目以降もやろうとすると、うっかりすると前に登録した拡張の内容をあとからのもので上書き更新してしまうということになったりする。自分では二つ目の拡張機能を登録したつもりなのに一つ目の拡張機能があとから登録したものに置き換わっていて「???」というはめになりかねない。

工夫:アイコン画像をあらかじめ変更しておくと分かりやすい。
次に見た目の区別の話。
7. Job done! Your new extension is loaded (the black dot).
(完了です!あなたの新しい拡張がロードされます(黒いドットのアイコンで))
icon-48となっているように、初期設定で(某コミックを思い出す人もいそうな)真っ黒い球形のアイコンがついてくる。マウスオーバーすればツールチップが表示されるけれど、二つも三つもこれが並ぶとさすがに分かりにくくて使いにくい。
そこで実際に登録作業に入る前に解凍したフォルダの中のアイコンを自分の好きなものに置き換えておくといい。フォルダの中に入っているpngファイルが拡張機能のアイコンなので、ファイル名は変えずに、それぞれのサイズのpng画像を作って置き換えてしまう。(対象サイトのアイコンなどを貰ってきて加工したりすればいいと思う)。これで「えーと、どれがどれ?」と混乱しなくなる。

注意:あらかじめ決めた場所に移動してからインストールし、もうそこから動かさない。
最後にわりと重要な注意を書いておく。
実は、このブックマークレットを拡張機能に変換するというやり方全体は「開発中の拡張機能をテストするためにパッケージ化されていないものを仮に登録して試す」ことだ。だからこそ「開発者モード」のスイッチを入れて作業しろ、と指示されるわけだ。
従って、その「テスト中の拡張機能」はどこか個人のPCの中の特定のフォルダーにあるもの、と想定されていて(拡張機能サイトに公開していないんだから当然だ)、インストールしたあとでそれを移動したり削除したりするとエラーになって動かなくなる。
自宅と会社など別々の場所のブラウザに同じことをしたい場合には初めからDropboxの特定のフォルダに配置してしまってどこからでもその場所を使うようにさせるのが一番楽だと思う。

さてこれで、無事ブックマークレットを拡張機能として運用することが出来るようになったので、Operaでブックマークバーを表示させておく必要がなくなり、スッキリする。
(そして「スピードダイヤルだけでいけるよ。みんなブックマークなんて使ってないじゃん(にこッ!)」というかなり強引な新しいOperaの当初の方針に、無理矢理合わせることもできる)。

……小ネタなのに、丁寧に書いたらずいぶん長くなった。

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6月 282014
 
pencil@2x

TwitterやFacebookではちょっと触れましたが、近づいてきましたのであらためて正式にお知らせします。

書店営業の基本セミナー
日程:2014/07/16(水)
時間:時間:13:30~17:30 (13:00より受付開始)
会場:会場:トーハン本社 (東京都 新宿区東五軒町)

書店営業の担当者で経験の浅い方(数ヶ月~1年間程度)、あるいは他部署から異動されて日の浅い方、内勤の担当者で書店営業の実際を学びたい方、などが主に対象のセミナーです。
営業を指導する立場の方が、初心にかえり、伝えるべきことを整理し直すお手伝いにもなるかもしれません。

実習に多めに時間を割きますが、パターンやテクニックを一方的にお教えするという形ではありません。「ずばりこうすれば注文が取れます」というような、耳に快い嘘もお教えしません。
なぜそのように行動したほうが良いのか、説明し、実践で試し、実践の体験に基づいて納得してもらいたいと思ってやっています。
基本・基礎をあらためて振り返り、結果としてそれぞれの方の個性にあった応用を生み出していただくための、お手伝いです。

ご参加お待ちしています。

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6月 212014
 
moon-stars@2x

梅雨に入って気温と湿気の激しさにやられてまたまた体調を落としているさなか、お約束の「迷子の夢」を見た。
体調が悪くなったり、人生に行き詰まったりするとそういう夢を見がち、ということは以前書いたことがあるが、正直なところ最近は(いちいちブログに書かないが)けっこう日常的に見ているような気がする。じゃあずっと体調悪いままだったり、人生行き詰まったままだったりするのかと言われると……自信を持ってきっぱり否定出来ないような気がするところが困る。

それはさておき今回は、東京のとある街角をうろうろと歩いていて、角をひとつ回った途端にまだ頂上にうっすら雪をかぶったままのよく知っているような気がする山の姿を正面に見て「あ、北海道に来てしまった」と気づく。一歩踏み出したとたんに瞬間移動しているという、斬新というか、手抜きというか……まあ、手抜きなんじゃないかと思う。
昔から数えきれないくらい見てきた迷子の夢は、基本的には、延々とうろうろしている間にだんだん骨に染みこむように「ああ、また迷子になったな」という虚しい哀しさがしみてくる。そこを一気に省略して瞬間移動させて「はい、迷子」というのはなぁ。ウィザードリィのトラップじゃないんだから。

角を回った途端に瞬間移動しているのだから、一歩後ろに下がれば良さそうなものだが多分はそうはいかないだろうなぁ、とぼんやり、うんざりしながら足をとめているところで目が覚めた。
まあ、これは分かる。
ひどい方向音痴の人間にとっては曲がり角というのは、一度曲がったら二度とちゃんと元の所へ戻れる保証がなくなる極めて危険な存在で、「元通りに逆行すれば戻れる」という論理がなぜか無効になる。
時間的な経過の中で行なってしまったことの多くは時間を遡ることはできないのでもとに戻すことが出来ない(覆水盆に返らず)。一方、間違った角を曲がったということ自体は(その間に失われた無駄な時間や、そのために遅刻が確定的になって先方に詫びを入れなければならないということなどは取り消せないが)きちんと逆行することでリセットできる。出来るはずなんだが、なぜかひどい方向音痴の人間にとってはまるで決して逆行できない時間経過と強引に絡み合ってしまうかのように「さっきまでは正しかったはずの物理的ポイント」にも戻ることが出来ない呪いがかかってしまう。

いろいろ、大変である。

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6月 142014
 

先日部屋の片付けをしていたら、むかしむかしの小説の原稿がいくつか出てきた。その内のひとつを何気なく読み返したら、いろんな意味で、なんというか愕然としたので、あえて昔の自分を晒してみることにして、noteで公開してみた。

あまたの夢、緑の丘を去りて|ikimono|note

もう三十年近く前のものだ。
どれもがそうきちんとしているわけではないが、たまたまこの原稿にははっきりと「1987年、再説版」と書いてあったので、分かる。「再説版」という注記とおぼろげな記憶からすると、最初の原稿はもっと古くて、1987年にこの話を冒頭に置いてなにかしらの連作のような形で複数の作品をまとめるということを考え、少し手直ししたらしい。実際、ほぼ同じ背景の別の話も幾つか残っている。
それらを公開するつもりは、今のところない。なにしろ出来が、公開したもの以上にどれもひどい(苦笑)

それにしても1987年というだけで、なんだかぼうぜんとする。そりゃいったいいつの時代なんだ。

公開にあたって、あえて昔の恥をそのまま晒す、と考えていたので基本的に手直しはしなかった。
さすがに気になって我慢できなかった「てにをは」や間違っている漢字などは、直した。
手書き原稿をキーボードを打って書き写しているだけなのだが、何日もかかった。昔の自分は忙しい仕事のあいまによくこんなことをしていたな、と思った。

やれやれ。

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6月 072014
 

opera-software-logo メインで使うブラウザをFirefoxからOperaに乗り換えた。まずまず満足できる状態に持って行くのに断続的に手を入れながらほぼひと月くらいかかったが、結果としてはまあ早いほうだろう。

Firefoxは今でも良いブラウザだと思っている。とくに仕事上でのウェブ表示の確認にはなくてはならず、そのような用途ではいまだに他を引き離している。
でも、プライベートで使うブラウザとしては、いつからかいささか重量級で可愛げのないものに変わったような気がしていた。FirefoxがまだFirefoxという名称ですら無かった初期の初期から使い続けてきたのでいつまでもメインとして使い続けたいと思っていたのだが、どこかで気持ちが離れた。
Operaが独自表示エンジンの開発をやめてChromeと同様にBlinkエンジンを使う決定をした時、それまでのOperaユーザーからはほとんど罵倒に近い批判を受けたし、それまで使ったことがなかった人には機能の足りないChromeとしか思われないという、実に情けない状態になってしまったが、どういうものか私はその当初から新しいOperaはなかなかいいものになるんじゃないかと、ほとんど根拠も無いが、思っていた。そしてここ最近の数バージョンではほぼもう日々使い続けて困るということもない機能を備えるようにようやくなったので、乗り換えを断行した。

起動が早く、キビキビ動き、そしてなんといっても本家スピードダイヤルはやはり非常に使いやすい。FirefoxやChromeのスピードダイヤル風拡張機能も存在するけれど、本家はやはり違う。
スタッシュ機能も、当初は「こんなもの使うかなぁ」と思っていたが、ちょっとしたメモ代わりに使うと便利だった。サムネイルなど表示させない一番狭い幅に縮めて一行メモのようにして積み重ねておく方が自分には使いやすいと気付いたのもこの機能をよく使うようになった一因ではある。
乗り換え試行中の一時期はこれまでに溜め込んできたかなりの数のブックマークをスピードダイヤルだけで管理するのは無理かもしれないと挫折しかけた。階層化させたフォルダにコンパクトに詰め込んだ非常に沢山のブックマークと、階層化出来ないフォルダで、平面に展開しなければならないスピードダイヤルでは収容能力からして違う。
それでも、移行しながら整理して切り捨てたり、グルーピングの工夫をしたりを繰り返して試行錯誤しているうちに、なんとかなってしまった。
現実問題としてスピードダイヤルのみではブックマークレットが使えないのでごく一部ブックマークバーを併用しているが、ほぼ全てが15弱のスピードダイヤルのフォルダに収まっている。仕事柄、必要な時に検索したり履歴を辿ったりすれば済むというわけにはいかない記録しておくべきURLがかなりある立場としては、ずいぶんコンパクトになったものだと思う。

Chromeの拡張機能の多くがそのまま使えるようになったのもメインブラウザにしてしまって困らない理由のひとつだが、だったらそもそもChromeでいいじゃないか、いやむしろ同じBlinkエンジンのブラウザとしてはよりこなれて安定しているではないか、というのは、ある意味もっともだ。
事実(ほめたけれど)、スピードダイヤルを整理し直そうとしてフォルダからフォルダへがりがり移動させたりし続けるとけっこうな確率でクラッシュするなど、まだまだこなれきっていない面がある。
でも実は私はChromeのことを、一個人としては、以前からあまり好きではない。

起動画面が使いづらくセンスがない上にその画面そのものの表示がやや遅いという有り様など、沢山のスピードダイヤルのサムネイルが並んだ初期画面がスッと表示されるOperaの優秀さと比べ物にならないというようなちょっとした感覚的な(ある意味好みに過ぎない)面もあるが、そういうことよりもChromeはGoogleがすべてを握っているという微妙な気持ち悪さに、どうしても慣れることができない。
Googleのサービスやプロダクトはどれも便利で優秀だと思う。それは、認める。
でも、私はGoogleを
「あなたが道を歩けばどうせ行き合う沢山の人はみなあなたを目撃し、あなたがどんな服装をし、どこからどこへ移動していったか見ることができるのですから、今すぐリアルタイムで世界中にあなたがどんな姿でどこで何をしているか公開しても同じではないですか。さあ今すぐそうしましょうよ」
と言うような会社だと思っている。
そして、私は「とある道を歩く私」と「全世界に公開される私」はまったく別物だと思っているので、たとえばずっと昔から、Googleアカウントの検索履歴は記録させない。「より良いサービスを享受したいならより多くのプライバシーを提供しなさい」というGoogle帝国的支払いをケチる優良ではないユーザーなわけだけれど、この態度はそう簡単には変えられない。
Chromeをメインブラウザにすることに微妙に抵抗があるのには、そういう面もある。だからひょっとすると、新しく作り直されたOperaという第三の選択肢が出てこなかったらFirefoxから別のブラウザに乗り換えるということは考えなかったかもしれない。

あとはまあ…Operaにはがんばってもらってぜひ開発が続いていくよう願うだけ。
がんばれOpera、生き残れOpera、ちょっとなら寄付(donation)するよ?(笑)

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5月 032014
 
book@2x

マスード 伝説のアフガン司令官の素顔
マルセラ・グラッド:著, 長倉 洋海:写真
出版社: アニカ
を、読んだ。

対ソ連・対タリバン戦で行動を共にした盟友・部下・ジャーナリスト・家族など50人を超える人々が、アフマド・シャー・マスード司令官の思い出を熱く語ったインタ ビュー集。
人間の尊厳と自由を守るために戦った伝説のアフガン指導者礼賛。

であるので、客観的な伝記や歴史の本ではない。
(まあ余計なことだけれど言っておくと、「だから価値が低い」ということではない。そもそも純粋に客観的な伝記や純粋に客観的な歴史というものは無いので)。

マスードのことを語った本というより、人々がマスードという稀有な存在に出会って何を思い、その後の人生にどんな影響を受けたのかという、マスード体験について語っているわけだ。
読み始めた時は、正直に言ってしまうと、このままこの大部の本を読み進めたら飽きるだろうな、と思った。
ある程度バラエティがあるとはいえ、結局はたった一人の人がいかに素晴らしいか、自分がその人のことをどれほど好きだったかを、人々が延々と語っているだけなのだ。

でも、飽きなかった。

最後まで読み切って、ああ、そうかと思った。
読み始めた時にはうかつにも気づいていなかったけれど、マスードはすでに死んでいる。人々の前から暗殺によってもぎとられてしまった。そのあとで、みんながマスードについて語っている。
でもそこには奇妙なくらい、悲嘆や恨みがない。
もちろん彼がいなくなったことをとても悲しんではいるが、それでもマスードについて語る時、みな幸せそうだ。

皆が語っていることはマスード体験であり、マスード体験を語ることがそのまま祈りのようだ、と思った。そうやってこの人々は生きてきたんだな、と思った。
一心に祈ると、すくなくともマスードに微笑んでもらえると信じられるようなそういう祈り。
その微笑みに応えて人生の選択をしていく時、誇らしくさえ思えるだろう。
とても、幸せな祈りだ。
そう思った。

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10月 252013
 
book@2x

さて、そんなわけでサリンジャーだ。それを今この歳この時代になって読み返しても面白いのか、やってみた。
はじめに、がっかりさせるのは残念なんだが『ライ麦畑でつかまえて』(「キャッチー・イン・ザ・ライ」という書名で村上春樹御大も翻訳しちゃったりしたから、THE CATCHE IN THE RYEって言っといたほうがいいのかもしれないが、実際のところ、もともと白水社のソフトカバー「新しい世界の文学」シリーズの一冊で出て、その後白水Uブックスになって、さらにUブックスじゃない新書版で村上春樹翻訳が出ているってのは、ちょっとどうなんだろうな、と思うわけだ。正直なところはな)。まあそれはいいや。とにかくここでは『ライ麦畑でつかまえて』ってことにしておくあの作品だ。
あれな、うん。あれは駄目だ。
この歳になって読み返してみたら、まあ予想はしていたんだが、駄目だった。まるっきり、若い奴がえんえんと愚痴をたれているを聞かされているだけのようにしか思えない。仕方がない。こっちはもういい歳なんだから。

おそらくサリンジャーで一番有名な作品を、誤解しないでほしんだが、今この歳の私にはいささかという以上に読むのが辛かったとはっきり言っておいて、他の作品の話をしよう。
技術的に未熟かどうかとは関係なく、初期の短編にはとてもいいものがある。うまくはないんだが、ああ確かに俺にもそこに心臓があるなと思い出させるようなところを突いてくるものが、いくつかある。
『ソフト・ボイルド派の曹長』
『最後の賜暇の最後の日』
『一面識もない男』
『ブルー・メロディー』
残念ながら、この辺の作品は中古本をわりと一生懸命探さないと、もう読めない。まあでも、絶対に入手できないというほどでもないから、読んでみるのもいいんじゃないかと思う。そして、急いで言っておくと、サリンジャーが公式に公開し続けることを許可した短篇集である『ナイン・ストーリーズ』収録の作品群は、それほどは、よくない。すみずみまで神経が行き届いていて、とてもよくできた作品ばかりだ、実際。でもあまり好きではなかった、この歳になって読み返してみたら。

サリンジャーというのはある意味ではとてもわかりやすい人だったのかもしれないな、と今回読み返してみて思った。私がそんなことを偉そうに言ったところで説得力もなにもないし、ほんとのところ、誰を説得しようとも全く思っていないんだが、ともかく、こうだ。

世の中はくそみたいなことや、やりきれないことがほんとに山のようにあり、しかもそれがくそみたいなことだとかやりきれないことだということに気づきもしないようなインチキ野郎どもがうじゃうじゃいる。その一方で、奇跡的で貴重な瞬間というものも、確かに、ある。
インチキ野郎どもの目を覚まさせてろうと思って、窓ガラスを100枚かそこら叩き割ってみたけれど、それじゃどうしようもないということがわかった。残念ながらな。
じゃあどうやって奇跡的で貴重な瞬間を失わずになおかつ普通に生きていくことができるか一生懸命考えなくちゃならん。それができなきゃ、実際、生き続けていくことが出来ないんでね。
これが、サリンジャーがたどった道だ。

そして、そこがサリンジャーが並みの作家じゃなかったところだと思うんだが、この第三段階に達した時、この誠実そのものの作家は、普通に生きていくということをまさに普通的な描き方をしなければいけないとけっこう真剣に考えたんだろうと思うわけだ。説教臭く、もっともらしく書くんじゃなく、こういうきわめて難しいテーマをアメリカのホームドラマの調子でえんえんと書くという道を選んだ。くだらなくて、物質主義的で、口汚くて、実にありふれた、1000くらいのホームドラマの、ソープオペラの、学園ドラマのテープを適当に切り刻んでつなぎあわせたらできる上がるかもしれないと思わせるようなシーンの連続で、ともかく兄が妹に「真のキリストとは誰か」を教える話を書いたりしたわけだ。そう『ゾーイ』というあのとんでもない作品で。
たいしたもんだ。

ここでまた、残念な発言をしなければならないような気がするが、実はそう多くの人は残念に思わないんじゃないかという気もする。つまり、その後の『大工よ、屋根の梁を高くあげよ』『シーモア-序章-』は、実はそんなには良くない、ということ。『シーモア-序章-』の方はじっさい、そんなに良くないどころじゃないかもしれない。作品そのものの中でシーモアが弟であり語り手であるバディに、幼いころ、友人とビー玉遊びをしているところに語りかけてくるシーンがある。

「そんなにむきになってねらわないようにはできないのか?」と、彼はわたしにきいてきた、あいかわらず、同じ場所にたったまま。「ねらって当たったとこで、そんなのはただの幸運だぞ」

–鈴木武樹 訳

『シーモア-序章-』は、まさにそんな感じのする作品で、必死でねらわないようにしようとし続けながら結局それに失敗し続ける。
えーと、ごめん、家の本棚のどこかに『ハプワース16、一九二四』も間違いなくある(もしかすると二冊ありさえするかもしれない)のだが、多すぎる本の何処かに埋もれていて見つけ出せなかったので、今回はここまでだ。


ここからはサリンジャーの作品そのもとは直接関係ない。
口調もいつもの自分のものに戻してみる。
ただ、サリンジャーを読み続けていた時、脈絡なく浮かんできたことが妙に印象的だったので書き残しておく。

私はいかなる宗教の信者でもない。
ただ、もしも死後というものがあり、神やそのような何かにあいまみえ自分の人生について問われるようなことがあったなら、どのような質問をされそうか、とふと思った。
どんな業績を残したかは多分聞かれないだろう。よい仕事をしたかとか誠実に責任を果たしたかとかさえ聞かれないような気がする。
実は妻を愛したかとか、人に、出来るときには、親切にしたかとかも、ひょっとすると、ないかもしれない。
毎日朝ごはんを食べたかどうか聞かれるなどというのが、実にありそうなことだ。
そんなふうに、ふと、思った。
そして、もしも神のような存在があるのだとしたら、それでいいのだ、という気もした。
正しいことを正しいと信ずるから行うのではなく、単にそれが好きだからするというあたりになって、初めて聖。
結局正しいことをするのさえも、自分の努力や能力ではなく、賜物だということ。
人間にできることは、よく耳をすますことだけで、他の全ては驕りだということになるんだろう。
ずいぶん昔から、何人もの人が似たようなことを思ったらしいということは、知っている。
でもまあ、ふと、そう思った。

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