サリンジャーを読み返す

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10月 252013
 
book@2x

さて、そんなわけでサリンジャーだ。それを今この歳この時代になって読み返しても面白いのか、やってみた。
はじめに、がっかりさせるのは残念なんだが『ライ麦畑でつかまえて』(「キャッチー・イン・ザ・ライ」という書名で村上春樹御大も翻訳しちゃったりしたから、THE CATCHE IN THE RYEって言っといたほうがいいのかもしれないが、実際のところ、もともと白水社のソフトカバー「新しい世界の文学」シリーズの一冊で出て、その後白水Uブックスになって、さらにUブックスじゃない新書版で村上春樹翻訳が出ているってのは、ちょっとどうなんだろうな、と思うわけだ。正直なところはな)。まあそれはいいや。とにかくここでは『ライ麦畑でつかまえて』ってことにしておくあの作品だ。
あれな、うん。あれは駄目だ。
この歳になって読み返してみたら、まあ予想はしていたんだが、駄目だった。まるっきり、若い奴がえんえんと愚痴をたれているを聞かされているだけのようにしか思えない。仕方がない。こっちはもういい歳なんだから。

おそらくサリンジャーで一番有名な作品を、誤解しないでほしんだが、今この歳の私にはいささかという以上に読むのが辛かったとはっきり言っておいて、他の作品の話をしよう。
技術的に未熟かどうかとは関係なく、初期の短編にはとてもいいものがある。うまくはないんだが、ああ確かに俺にもそこに心臓があるなと思い出させるようなところを突いてくるものが、いくつかある。
『ソフト・ボイルド派の曹長』
『最後の賜暇の最後の日』
『一面識もない男』
『ブルー・メロディー』
残念ながら、この辺の作品は中古本をわりと一生懸命探さないと、もう読めない。まあでも、絶対に入手できないというほどでもないから、読んでみるのもいいんじゃないかと思う。そして、急いで言っておくと、サリンジャーが公式に公開し続けることを許可した短篇集である『ナイン・ストーリーズ』収録の作品群は、それほどは、よくない。すみずみまで神経が行き届いていて、とてもよくできた作品ばかりだ、実際。でもあまり好きではなかった、この歳になって読み返してみたら。

サリンジャーというのはある意味ではとてもわかりやすい人だったのかもしれないな、と今回読み返してみて思った。私がそんなことを偉そうに言ったところで説得力もなにもないし、ほんとのところ、誰を説得しようとも全く思っていないんだが、ともかく、こうだ。

世の中はくそみたいなことや、やりきれないことがほんとに山のようにあり、しかもそれがくそみたいなことだとかやりきれないことだということに気づきもしないようなインチキ野郎どもがうじゃうじゃいる。その一方で、奇跡的で貴重な瞬間というものも、確かに、ある。
インチキ野郎どもの目を覚まさせてろうと思って、窓ガラスを100枚かそこら叩き割ってみたけれど、それじゃどうしようもないということがわかった。残念ながらな。
じゃあどうやって奇跡的で貴重な瞬間を失わずになおかつ普通に生きていくことができるか一生懸命考えなくちゃならん。それができなきゃ、実際、生き続けていくことが出来ないんでね。
これが、サリンジャーがたどった道だ。

そして、そこがサリンジャーが並みの作家じゃなかったところだと思うんだが、この第三段階に達した時、この誠実そのものの作家は、普通に生きていくということをまさに普通的な描き方をしなければいけないとけっこう真剣に考えたんだろうと思うわけだ。説教臭く、もっともらしく書くんじゃなく、こういうきわめて難しいテーマをアメリカのホームドラマの調子でえんえんと書くという道を選んだ。くだらなくて、物質主義的で、口汚くて、実にありふれた、1000くらいのホームドラマの、ソープオペラの、学園ドラマのテープを適当に切り刻んでつなぎあわせたらできる上がるかもしれないと思わせるようなシーンの連続で、ともかく兄が妹に「真のキリストとは誰か」を教える話を書いたりしたわけだ。そう『ゾーイ』というあのとんでもない作品で。
たいしたもんだ。

ここでまた、残念な発言をしなければならないような気がするが、実はそう多くの人は残念に思わないんじゃないかという気もする。つまり、その後の『大工よ、屋根の梁を高くあげよ』『シーモア-序章-』は、実はそんなには良くない、ということ。『シーモア-序章-』の方はじっさい、そんなに良くないどころじゃないかもしれない。作品そのものの中でシーモアが弟であり語り手であるバディに、幼いころ、友人とビー玉遊びをしているところに語りかけてくるシーンがある。

「そんなにむきになってねらわないようにはできないのか?」と、彼はわたしにきいてきた、あいかわらず、同じ場所にたったまま。「ねらって当たったとこで、そんなのはただの幸運だぞ」

–鈴木武樹 訳

『シーモア-序章-』は、まさにそんな感じのする作品で、必死でねらわないようにしようとし続けながら結局それに失敗し続ける。
えーと、ごめん、家の本棚のどこかに『ハプワース16、一九二四』も間違いなくある(もしかすると二冊ありさえするかもしれない)のだが、多すぎる本の何処かに埋もれていて見つけ出せなかったので、今回はここまでだ。


ここからはサリンジャーの作品そのもとは直接関係ない。
口調もいつもの自分のものに戻してみる。
ただ、サリンジャーを読み続けていた時、脈絡なく浮かんできたことが妙に印象的だったので書き残しておく。

私はいかなる宗教の信者でもない。
ただ、もしも死後というものがあり、神やそのような何かにあいまみえ自分の人生について問われるようなことがあったなら、どのような質問をされそうか、とふと思った。
どんな業績を残したかは多分聞かれないだろう。よい仕事をしたかとか誠実に責任を果たしたかとかさえ聞かれないような気がする。
実は妻を愛したかとか、人に、出来るときには、親切にしたかとかも、ひょっとすると、ないかもしれない。
毎日朝ごはんを食べたかどうか聞かれるなどというのが、実にありそうなことだ。
そんなふうに、ふと、思った。
そして、もしも神のような存在があるのだとしたら、それでいいのだ、という気もした。
正しいことを正しいと信ずるから行うのではなく、単にそれが好きだからするというあたりになって、初めて聖。
結局正しいことをするのさえも、自分の努力や能力ではなく、賜物だということ。
人間にできることは、よく耳をすますことだけで、他の全ては驕りだということになるんだろう。
ずいぶん昔から、何人もの人が似たようなことを思ったらしいということは、知っている。
でもまあ、ふと、そう思った。

痛いと言うため専用のTwitterアカウントを作った

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10月 212013
 
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「痛い」と言うため専用のTwitterアカウントを作った。

痛くて泣けますセンター(INC)

朝からずっと肩が痛むわけだがいつもいつも痛いという言葉を聞かされるのもうんざりな人々も多かろうと我慢するわけだが痛いものは痛いし言いたくなるものなので専用のTwitterアカウントとか作ってそこで思う存分ふざけ半分に言いまくればいいじゃないかな、とか思いついた。

というツイートをして、その通り実際に作ってみた。

ここしばらく一番ひどいのは右肩の痛み。
基本的には五十肩なのだけれど、通常の期間をはるかにこえて炎症をおこしていたためひどいことになっている。
調子が悪いとただなにもしないでいるだけでも、肩関節の中心から前面にかけてズキズキし続けるし、夜どうしても痛くない体勢を見つけることが出来なくてとぎれとぎれにしか眠れないこともある。
そこまでひどくない時期でも、うっかり腕を素早く動かすと激痛でしゃがみこんでしまうので、たとえば、右手に持っていたものを取り落としそうになった時は、あえてそのままボトッと落としてしまうことにしているくらい。というか、最近はそもそも持ちにくそうなものは右手では持たない。
右腕は後ろへもほとんど回せないので、服を着替える時も慎重にゆっくり。
ジーンズの右の尻ポケットに入れたものを、ひどい痛みを感じずに取り出すことが出来ない。

まあ、五十肩は時間はかかるにしても、いずれは痛みはとれる。
しかし、その他に、腰の痛みと、中学生の時からずっとつきあっているひどい神経痛もあるので、この痛いと言うため専用Twitterアカウントは、当分いらなくなることはないと思う。残念ながら。

というわけで、自分もいろいろと痛みに悩まされているという方はぜひフォローして、お互い気兼ねなく一日中でも「痛い」と言い合いましょう。
言いまくると、少しは気が晴れます。

ヘミングウェイを読み返す

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10月 122013
 
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しばしば「〇〇は今読んでも面白いのか」を試すために、一人の作家をまとめて読み返す。
先日までヘミングウェイを読み返していた。

ヘミングウェイは高校生の頃にはじめて読んで印象に残り、いささか影響も受けた。しかし本気で、一気にまとめて読み返したのは久しぶりだった。
今の私には『日はまた昇る』はなかなかよい作品に思われ、それ以外のほとんどがだめだということ分かった。『老人と海』はなかなかよかった。そしてこれは、若い頃の感想とまるで反対だということに気付いた。若い頃は『日はまた昇る』はいくつか印象的なシーンはあっても全体としては退屈だと思っていたし、世間で『老人と海』がひじょうに高く評価されているのがよくわからなかった。

『日はまた昇る』は素直できれいな作品で、ヘミングウェイに間違いなく才能があったことがわかる。
最初に読んだ時から今になっても覚えている、とても好きな一節は、たとえば第5章の冒頭部分などだ。

マドレーヌからキャプシーヌどおりをオペラ座まで歩き、オフィスに向かった。はね蛙のモチャを売っている男や、拳闘家のおもちゃを売っている男のそばを通りすぎた。相棒の女が拳闘家をあやつっている糸を踏みつけないように、ぼくは、わきへ寄って歩いた。女は組み合わせた手に糸を持ったまま、よそ見をしていた。おもちゃ屋は、二人の観光客に、しきりに買うようにすすめていた。ほかに三人の観光客が足をとめてながめていた。ローラーを押して歩道の上にぬれた文字で「チンザーノ」と書いていく男のあとについて、ぼくは歩いていった。

–大久保康雄訳 新潮文庫

ヘミングウェイは『日はまた昇る』を書き上げて自信がついたのだろうと思う。同時に「俺はよい文章を書くし、会話を書くのがうまい」と気づいたのではないかと思う。それは事実だったが、次に『武器よさらば』を書く時にはそれを意識しすぎ、いい作品を書くことよりもほんの少し、よい文章を書き、うまい会話を書くことに力をかけすぎてしまったように思う。
『武器よさらば』の最後は実に印象的で、見事だ。しかしそれ以外、あまり心に残らない。
そしてヘミングウェイは、少なくとも長編作品では、意識しすぎるという悪癖から二度と抜け出せなかったように思う。
『武器よさらば』では、自分はうまいのかもしれない、うまいはずだ、と意識しすぎたし、『誰がために鐘は鳴る』に至っては登場人物は何かまっとうな人生観なり使命感なりを持っていなければならないのではないかと意識しすぎて、青二才がひたすらぶつぶつ言うのを聞かされるというありさまだ。
ただ、楽しんで、書けばよかったのにな、などと私は勝手なことを思う。

それにしても、ヘミングウェイくらいが相手になると、誰でもずいぶん長々と論評するものらしいが、そもそも小説などは論評するものではなく、ただ愉しめばよいのにと思う。
どれと名指しするのは今は避けておくが、とあるヘミングウェイ作品の文庫解説の大部分がアメリカ文学がいかに底が浅くてつまらないかというとても長文の悪口で、それでもこの作品はましだ、と最後にちょっと書いてあるというすごいもので、思わず笑ってしまった。
何がしたかったのか、この人は。
だから私も、なぜ『老人と海』だけはなぜなかなかよい作品なのか論じ始めるなどということはやめておく。

短編の名手だと言われるが、長編よりいっそうあらわに、よい文章を書き、うまい会話を書くことを意識しすぎてしまったものが多いようにも思う。完成度も高く、うまい作品だとも言えるが、ほんの少数の作品をのぞいて、素直できれいとうヘミングウェイが元々もっていた才能が出ていない。たとえば『キリマンジャロの雪』はいい。それ以外は、あまりよくない。

ここに書いたことは全て、今この年齢、この環境にいる私が読んでみたらこんなふうに感じたというだけのことで、ヘミングウェイを評価したり、論じたりするものではない。
もし論じたり評価したりするつもりがあったとしても、そもそも今回の読み返しでは原文を読んでいないので(若いころには読んだ)、する資格はない。

『武器よさらば』の一番最後、妻が死んだあとのシーンは、先にも言ったように見事だ。
ヘミングウェイがそういうものを書くことが出来た人だったということだけは、変わらない。

「ホテルまでおおくりしたいのですが」
「いや、結構です」
 彼は廊下を歩いていった。ぼくは病室のドアのところへ行った。
「いまはおはいりになってはいけません」と一人の看護婦が言った。
「いや、はいる」ぼくは言った。
「でも、まだはいってはいけません」
「きみが出ろ」ぼくは言った。「それから、きみもだ」
 看護婦たちを追い出して、ドアをしめ、電燈をつけたが、何の役にも立たなかった。塑像に別れを告げるようなものだった。しばらくして、ぼくは病室を出て、病院をあとに雨のなかを歩いてホテルへ戻った。

–大久保康雄訳 新潮文庫

いつもどおり、漠然と迷う夢

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9月 152013
 
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起き上がって少し経ってから、また迷子の夢を見たことに気付いた。
そもそもそんな所にいる理由も分からないままかなり遠いところから自分が普段知っている生活圏内へ戻ろうとして乗り物に乗るけれど、ちゃんとたどり着けるのかどうかよく分からないまま漠然とした不安の中にいる、というよく見る夢のパターンを忠実になぞっていて、「ああ、またあのタイプか」と思い出した時に思った。

大型の長距離バスだと思って乗り込んだが、動き出してしばらく経ってから実は小型の高速フェリーでどこかの大きな湾を一気に横切ろうとしているらしいということに気付くのが、ちょっと珍しいだけ。夢で船に乗っていることは、記憶にある限りでは一度もないのだが、(面白くもなんともないが)早朝の激しい雨音でそんな連想をしたのかもしれない。
一応どこかにはたどり着いてフェリーを降りるが、降りて入っていったそのビルの中ですぐにまた迷子になっているのも、いつもどおり。
やたらと広い階段がある、というより、部屋などほとんどなくとても広い階段と別の階段への通路ばかりがあるという建物で、人通りも多くべつに怪しい雰囲気もないが、やっぱり建物としてはちょっとおかしい。建物の中というのは基本的には幾つもの目的地(個室とか会場とかそのようなもの)があって、通路や階段はそこへ到達するためにあるものだと思うが、この建物にあるのはどこかへ移動するためのスペースばかり。
そんな中を少し疲労と憂鬱を感じながら、自分でも本当はどこへ行きたかったのかだんだん考えなくなりながら、とぼとぼ歩き続けていると、遠くにダース・ベイダーの衣装をまとった人が、なんともさり気なく歩いているのに気付く、というあたりで目が覚めた。

夢の話を書く時すでに何度も言ったのではないかと思うが、迷っているけれど出発点も目的地もはっきりしなくて、しかもさほど焦ってもいない、というこのタイプの夢をくり返し見ながら自分は人生を過ごすのかなぁ…と、なんとなくため息をつきたい気分になる。

まあむかしむかし、若気の至りでvagrantというドメインをほんの一時期所有していたような人間だしなぁ。
苦笑。

なにも生み出さずに生きることは出来ない

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7月 132013
 

ここしばらく、ぼんやりと考えていることがある。
「苦労そのものに価値はない」とか「何かを手に入れるために苦しみがなければならないという考え方は単なる思い込みだ」とか、そういう類の発言。一見、正しい面もありそう、に見えるけれどなぜか素直に頷いてあげられない。それこそが思い込みに囚われたかわいそうな人ですね、とか言われそうだけれど。

全部ではないが、苦労しなくたって何かを手に入れてもいいんだ、と主張する人が手に入れた何かは、実は別の人が苦労して作ったり、見つけたり、築きあげたりしてきたものだ、という場合もあるはずなんだが、そのことに対する感謝や尊敬が感じられないんだよね、そういう主張をする人々って。

それはまた違う話だろ、と思う人もいるかもしれないけれど、かなり前
スマホが人間をダメにする | 瀧口範子 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト
に対して、反対意見がかなりネット上に出ていたことを思い出す。
まあ、記事のタイトルに煽られて条件反射的に反発している人も多かったが(そりゃもちろんスマホそのものはべつに人間をダメにしない)、そうではなく、リアル店舗をショールームとして使う「ショールーミング」について、今の時代そうなって当然だというような意見がかなりあった。

そこは、時代とは関係ないのよ。
リアル店舗を構えるには相当の経費と労力が注ぎ込まれるわけで、それをタダで使われることに拒否姿勢を示す店があっても、それは店として当然の行動「のひとつ」だ。
古臭いと否定しさるなら、そもそもショールーミングをするな、という話になっても反論してはいけないわけだ。ショールーミングしたくても、街にひとつもリアル店舗は無い、というのがショールーミングを肯定する人々がもたらす未来であっても不思議じゃない。
まあ、現実には当分来ないと思うが、そういう時代が来たら今ショールーミングを肯定している人々は「不便だ」とか平気で言い出しそうなんだよな。

そもそもリアル店舗という商売の形態はある時代までの技術的・文化的制限の中で作られてきた特殊なものであって、リアル店舗を構えることで収入が得られるという仕組みは今後減っていく、とか、店舗というものは必然的にショールームとしての役割しか果たさなくなり、店舗はその場所以外で収益を得る仕組みと結びつかない限り存続は難しい、というような議論をするのはべつに反対しない(Amazonなどは随分前からそう考えていると思う)。
そういう考察もあり得るだろう。
でも、俺が便利だから他人の苦労や出費は知ったことではない、というレベルの話は、聞くに値しない。

生み出すことはしないで、便利に消費することだけに浸って生きるのは、怖いよ。
何もしなければ何も生まれなくなる。

アフィリエイトで食ってます、というある種の人々への微妙な反感も、同じだな。
アフィリエイトは無から金を生み出しているんじゃなく、誰かが作ったものや、誰かが生み出した金を「移動」させているだけなんだよ。
世界中の全員がアフィリエイトで暮らすことは出来ない。だれかがモノを作り、だれかがそれを実際に金を出して購入しなければ、成り立たないんだよ。

スティーヴン・キングを読み返す

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4月 062013
 
book@2x

なにがきっかけだったのかもう忘れてしまったけれど、スティーヴン・キングの作品はほんとうに面白いのか、ということが気になった。
より正確に言うと、これまで沢山のキングの本を楽しんで読んできた、はず、だが、今この歳になって読み返してもやはり本当に面白いのか、ということが気になった。
そこで、他の本の読書の合間に、初期作品から順々に組織的に読み返しはじめた。

そして、気づいた。

「呪われた町」とかの頃までのキングって、そんなに上手くない。「シャイニング」もそう。
あまりにも普通のアメリカの田舎の日常の描写を丁寧に重ねることでかえってじわじわと異常性へのスリルが高まる、というのがキングを評するときの定番で、手法としては事実その通りなのだけれど、この頃のキングは実はまだそれに習熟していない。
ズバリ言ってしまうと、そのあまりにも普通のアメリカの田舎の描写が、あまりにも普通で退屈な時がある。無駄にかさばっている。

キングをたくさん読んできたとはいえ、もちろん私は一冊も原書では読んでいない。
だから厳密に作家としてのキングを分析的に評価する資格はない。翻訳の質に左右されるという要素も加わってしまう。
でもキングのほとんどの作品は名翻訳者である深町眞理子さんが手がけたものであり、数冊の範囲でその翻訳の質が大きく変わるとは思えない。よって、作品の質に感じられる変化は、おおよそはキング自身のものだ、と考えても大丈夫だろうと思う。

「ファイアー・スターター」になると、急に良くなる。
今回読み返すまで実は忘れていたが、チャーリーが生み出されるきっかけとなった彼女の両親の過去が、しばしばカット・バックとして入ってくるが、これが話の流れを混乱させずに読ませるというだけでも実に大したもので、この頃キングは作家としてはっきりレベルが上がったんだな、ということが如実に分かる。

さて、まだこのままキングの読み返しを続けていくつもりで、きっともうひとつくらいは面白い発見があるだろう、あるといいな、とは思っている。
しかし、飽きるかもしれない。いくらキングであっても、一人の作家を読み続ければ、飽きる時は来る。
だから、とりあえず初期作品を読んだところで、一旦記事にしておいた。

デビッド・ボウイの新譜を予約した

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2月 212013
 

next day
デビッド・ボウイの新譜 The Next Day を予約した。

さて。
実はちょっと迷った。
でも結局、Amazonで物体としてのCDを購入することにした。
ちょっと迷った、という自分の中の心の動きが、興味深かった。

最終的には、ひさびさのボウイだし、ひょっとしたらこれが最後のアルバムになるってことも無いわけじゃないような年齢にボウイもさしかかっているし、そんなこんなを考え合わせると、なんだか「物体としてのCDが手元に欲しい」という結論に達した。

もっと若い人だったらどうなんだろうなぁ、と思ってみても、よく分からない。
若い人が特別な思いを持ってボウイの「The Next Day」を買うという例はあまり無さそうな気がする。年齢に関係なく、ボウイの音楽が好きな人はいるだろうけれど、同時代に近い感じで生きてきて、もうボウイもこのままフェイドアウトするように引退していくのかな、などと時々思い出したりしていて、そこへこのThe Next Dayがいきなり来て…というような特別感を持つ人は、多分少ない。
そうなると「わざわざ物体としてのCDを買う」という行動をどう思うか、尋ねてみるのも難しいのかな、と思ったりした。

2月 032013
 

私は昔から、時計を見なくてもおおよそ今何時なのか分かる。
大体前後10分程度以内の差で分かるし、調子がいい時だと1分しか違わないとか、ずばり1分以内だったりすることもあり、それがものすごく珍しいという程でもない。つまり、かなりしばしば5分以内程度の差で時間を言い当てることが出来ている、ということ。

たとえば、外をしばらく歩いていていて、周囲に時計はなく、自分も携帯をもっていない、というような状況でも、分かる。
夜中にふっと目が覚めて、まだ外も暗くて、部屋に明かりも物音もなくても「多分今4時ちょっと過ぎだ」などと分かる。
そして、時計を確認すると、だいたい合っている。
ひどい方向音痴のくせに、時間は、分かる(苦笑)。

自分ではそれなりに便利な能力だと思ってはいるけれど、実は、なぜ分かるのかが、まったく分からない。
気になって自分自身を観察し始めてから、本当は自分は「いま何時なのか」という問に即答はしておらず、ちょっと考えてから答えを出している、ということに気付いた。
夜中にふっと目が覚めた時、反射的に「◯◯時頃かな?」という思いが浮かびかけるけれど、そのあとちょっとの間本当は何時なのかを考えている。そして、考えた後で出した答えが99.9%確実に正解に近い。
分からないのは、じゃあその時何を考え、何を参照して本当の時間を推測しているのか、ということだ。
自然の光が一切差し込まない無音室にでも閉じ込めて実験してもらわないと断言できないけれど、あまりにもいろいろな環境、いろいろな状況でも、ほぼ同じく時間を当てられるので、光の具合を無意識に確認して計算しているとかそういうことは無さそうに思う。
だとしたら、反射的に浮かぶ(間違った)答えを否定して正解に近い答えを引き出してきている仕組みは何なのだろう、というのが分からないわけだ。

自分を観察してみて別のことにも気付く。
たとえば仕事に集中してPCを前に何時間か経っていた、というような時には、時間あての正解率が低いか、いつものように「ちょっと考える」だけでは分からないので(その方が早いので)結局時計を見てしまったりする、ということにも気付いた。
だからひょっとすると、やっぱり自分の体内の何かを無意識に参照しているのかもしれない、と思ったりするが、その「何か」がなんなのかは分からない。

そんなものがあるのかどうか知らないが、絶対音感のように絶対時感の持ち主というのが存在するかもしれないが、少なくとも私はそうではない、というような感じがする。相対時感の能力が優れているけれど、絶対時感の持ち主ではないので、最初の直感で即答することは出来ない。

海外でやってみたことがないので、時差が大きくある国でやっても同じく時間が分かるのかとか、白夜の時期の北の国でやってもほぼ正しく働く能力なのかとか、考え始めると(自分のことなんだけれど)いろいろ実験したいことが思い浮かんで尽きない。

なぜそれを「歴史」と感じるんだろう

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1月 272013
 

1966年東京の日常生活を記録したドキュメンタリー映像 – モジログで知って、観てみた。

45年とか50年とか経ってしまうと、それはもう個人と直接連続している過去ではなく、感覚としては歴史になってしまうんだよなぁ、などと思う。
若い人の多くにとっては、その頃生まれてもいないわけだから当然、それは自分と直接つながりのない「歴史」。
でも不思議なことに、今54歳の私にとってもかなりの程度、歴史に感ずる。私は1958年の生まれだから、実は1966年のこの映像の中の子供達とあまり変わらない年頃にこの映像の中の世界を実際に生きていたはずだ。だから論理的にはこれは私個人とちゃんと連続しているものと感じられてもいいはずだが、あまりそうは感じない。
まるで、時もある程度以上経つとかび臭く変質してきて、自然に歴史臭さのようなものが漂ってくるかのようだ。
以前から、なぜそれを「歴史」と感じるのか、というカラクリを解き明かそうとしているけれど、いまだに分からない。絶対に幾つかそう思わせる理由があるはずなんだが…。

ところで上の映像は、当時は人々がどんな服装をしていたかとか、どんな行動をしていたかといったような記録としてはよくできているけれど、現在の感覚で言うところのドキュメンタリーとはいささか違うということは、ちょっと意識しておいたほうがいいかもしれない。これは、記録したいものを映像にきちんと残すためにお膳立てされ、演出されている。
冒頭付近で牛乳屋が配達に来るがお母さんが牛乳を取り込む時に、空き瓶がそこにおいたままになっているのが見える。あれは、ない。牛乳屋は前日の空き瓶の回収を同時にやるわけで、ああいうところを見ても、映像におさめるために「はいではいつも配達するようにバイクを走らせ下さい」的なことをやったんだろうと思う。
当時は今のように小型で、手持ちでもブレを抑えこむような高度なカメラはなかったから、お父さんがバイクで出勤するシーンもかなり大掛かりに準備してから撮っているはずだ。
だから、当時をある程度覚えている自分が観ても、記録されている風俗や行動はほとんど正しいのだけれど、リアルタイムに近い状態で演出なしでどんどん撮っていってあとから編集で仕上げるという現在の簡易なドキュメンタリー手法とは違う。

さて、そんなことは全部余談で、なぜ50年経つと自然と歴史臭がしてくるのかという謎の答えが、やっぱり分からない。

1月 202013
 
pencil@2x

これまでやらせていただいた「書店営業の基本セミナー」の、個別詳細編、という感じのものです。

書店営業促進ツール活用術セミナー

日程:2013/02/21(木)
時間:13:30~17:30 (13:00より受付開始)
会場:トーハン本社 (東京都 新宿区東五軒町)

「書店営業の基本セミナー」では、小売業とはそもそもどういうものなのか、そしてそれに対する営業とは、というようなことからお話を始める場合も多いためどうしても扱う範囲が広くなり、対面での営業行動を実習する以外は個別項目について詳細に触れるのは難しい面がありました。
以前からご要望もありましたので、ファックス原稿を具体的にどういう点に注意して作成したら良いのか、電話営業はそもそもしても良いのか、など「書店営業の基本セミナー」では時間的に割愛せざるを得なかったようなことについて、実習も交えて集中的にお話をすることになりました。

このセミナーには、外回りで実際に書店さんを訪れる方だけではなく、社内でそういう方々を支えている立場の皆さんにも、出来ればおいでいただきたいなぁ、と思っています。
ここ、けっこう大切なポイントです。
社外に出る方と社内にいる方が協力しあうと、実際の効果が全く変わってきます。

ご参加お待ちしております。

2月1日 追記:
早くも募集定員に達してしまったそうです。
ありがとうございます。
びっくりですね。