幸せのお持ち帰り

投稿者: | 2011年3月30日

子供達

私は、児童書売り場でいつまでも本を眺めて帰ろうとしない幼児を見るのが、とても好きです。
幼い子供達にとって本は「商品」ではありません。親がもう帰ろうと言っても、買ってなんかやらないと言っても、それら全てに逆らってまでしがみついていたい「素晴らしい何か」です。
幼い子供にとって本は「買う」ものでさえありません。
親が別の大人と何か意味不明のことをしてくれると、持って帰ることが出来るものです。持って帰るのは形としての本であるよりも、楽しくて、惹きつけられ て、我慢出来ない程の魅力を持ったものと一緒にいられるという「喜びそのもの」です。幸せをおみやげとして持ち帰るわけです。

書店員だった時、子供が手に握った「見本」を手放させて、新品の「商品」の方に取り替えさせることに大層苦労することがありました。かなり多くの幼児が、 この取り替えの意味が理解できずに、怒ったり、泣いたりします。親や書店員が「きれいなのにしよう」とか「新しいのにしよう」と言っても、全然だめです。
子供にとっては自分が夢中になったオンリーワンの「これ」を持って帰りたいのであって、交換の効く「商品」を持って帰りたいのではない。よりきれいである とか、他人の手が触れていない新品である、というような価値は、ここには全くと言っていいほど関係していないということなのでしょう。
子供は「幸せをおみやげとして持ち帰りたい」という何よりの証拠であるように思います。幸せが交換の効くものであるなんてことは、あり得ないですからね。

子供達は一般に大変保守的でもあります。
ひとつのお話、ひとつのキャラクターが気に入ると、果てしなくそれを追いかけます。
児童書売り場で良く耳にする親と子の会話は「それはもう持ってるでしょ」「これは、もってない」「同じのがもういっぱいあるでしょう」「これがいい」です。
幼い子供はある特定の幸せな経験をどこまでも、いつまでも深く味わい尽くしたいのであって、新しい経験をしたいとは思っていません。幼い子供達が最も望んでいるのは「終わらない物語」「果てしない物語」かもしれません。

大人達

このような経験をした人々の一部が、大人になっても本屋へ通い続けます。
このような人々は、さすがにもう本は「商品」として流通しているということは分かってはいます。それでも、おそらく心のどこかで、子供の頃の「幸せのお持ち帰り」という至福の経験を繰り返したいと思っています。

商品としての本というものを考えると、物事はそんなに理想主義的ではない、と厳しい指摘をされる方も多いかと思います。大部分は消費されるためだけにあ り、消費されることで、それに関わる全ての人の間をお金が巡り、経済が動き、暮らしが成り立っていくという、きわめて現実的なものであると。
その通りです。

しかし、なぜ消費されるための本というものにそもそも消費される力があるのでしょう?
本には幸せがあると、誰もが漠然とではあっても認めているからでしょう。それがなければ、どんな本でも毎回全くのゼロ地点からお金を払う価値があるかどうかの勝負を挑まなくてはならないはずです。
至福の記憶のこだまが、本という漠然としたものを魅力的に見せることに、全く影響していないと?
終わらない物語への願いのこだまが、シリーズものや続編に手を出す動機に、全く影響していないと?
私にはそうは思えません。

現実の幸せと麻薬の関係のようなものです。
麻薬の力を「みじめな奇跡」とマラルメは言いました。
言い得て妙ですが、その言葉は、みじめではない本当に奇跡的な体験はあり得るという信念がなければ出てきません。
本に関しても同じです。

私達

私たち本に関わる仕事をしている者は、それを仕事にしてしまったがために、時々とても皮肉になったり、偽悪的になったりします。最悪の場合には、実は本が嫌いになってしまっているということに、ある日気付くことさえあります。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
私たちの仕事の全ては、あの幸せのお持ち帰りの上に成り立ち、常にその恩恵をこうむっています。それを求めて今日も本屋へ立ち寄る人々の手伝いをするのが、私たちの仕事の原点です。
とても難しいですが、とてもやりがいのある仕事です。
幸せのお持ち帰りですよ?
こんないい仕事はないでしょう。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。