読者の声は役に立たない

投稿者: | 2011年4月18日

昔懐かしい読者カードにせよ、最先端であるかのように思えるインターネット上を検索して見つけた読者の記述にせよ、すでに出版されてしまったものに関してはいずれにしても手遅れです。
第2版で読者の批判・要望に答えて内容や構成を大幅に変えてしまうというようなことをやる気があるなら別です。そうでないなら単に賞賛や批判に一喜一憂するだけです。

その一喜一憂が「読者の生の声に触れている」という気分にはさせてくれるかもしれませんが、士気向上以外に役には立ちません。
手遅れなだけでなく、実は根本的なところでは役に立ちさえしません。なぜなら読者は,まだ世に出ていない本については何も語らないからです。

すでに世に出た本については驚くほど詳細かつ論理的に語ることが出来る人はたくさんいます。しかし、次はこのような本が読みたいということを、今読んだ本の改良版としてのアイディアではなく、まったくの新作として明確に述べることが出来る人はほとんどいません。
それが出来る人は著者か編集者になるべきで、そこら辺をうろうろさせているべきじゃありません。

役に立たないとは?

根本的なところで役に立たないというのは言い過ぎではないか?
別のことに置き換えてみましょう。

たとえば私は Web サイトを作るのが趣味でもある(最近は、やや仕事「でも」ある)ので、家族や知人に「インターネットのどんなところが好き|嫌い?」というような質問をたまにします。
皆いろいろと答えてくれます。
しかし、注意深く耳を傾けていると、それらの99%は今すでに存在しているサイトの分かりにくさや使いにくさへの批判、デザインやレイアウトの好き嫌い等々であることが分かります。

多くの人が述べられるのは「好き嫌い」であり、最大限論理的でも「改善要求」です。
たとえばの話ですが、サイト内を移動するためのメニューは、左右や上に配置するのではなくど真ん中にあるべし、というようなサイトの基本構造を提案してくるということは、滅多にありません。

「好き嫌い」や「改善要求」に従って既存のサイトをより良くしていくことは可能です。
しかしそれは自分のサイトだけではなく、他のサイトでも可能なことです。どのくらいまでそれを徹底して実行するかという「量的」な背比べです。
「品質」さえある面では「量的」なものに過ぎないのです。
全く異なるコンセプトのわくわくするようなサイトは「改善要求」からは生まれません。

ずいぶん古い話になりますが、Web サイトに Flash のナビゲーションというものが使われ始めた頃、私はそれに魅了されたあまり何時間もナビゲーションをいじってその動きを確かめてはため息をついたものでし た。翌日も朝から仕事なのに、深夜3時になってもやめられません。
けれども、ごくごく少数の本当に創造的なサイト制作者以外の誰が、Flash がツールとして世に出る以前にそのようなナビゲーションもあり得ると考えたでしょう?
さらに言えば、こんなにも急速に Flash がありふれたものになり、鬱陶しいものにさえなっていくなどと、何人が確信を持って予測したでしょう。

わくわくするものは、今すでにあるものに対する好き嫌いや改善要求だけからは生まれてこないのです。

あらゆるデータには偏りがある

近頃インターネットが普及してきたおかげで「読者の声」を拾い上げようという動きが出版関係者の一部で実践され始めているようです。
営業の方だけでなく、編集の方にも広がっているようです。自分が作った本と読者の間に、取次、営業、書店など多くの仲介がはさまってしまっていることに対する苛立ちもあるのかもしれません。

やらないよりは良いことです。いや、やるべきです。
しかし、その結果集めることが出来た「読者の声」をどう扱うかに関しては、幻想を抱くべきではありません。

前段ではいささか断定的に「役に立たない」と述べました。
言い過ぎの面もあります。慎重に扱えば役に立つこともあります。
営業さんにとっては、すでに出版されたものがどこでどのように言われているか。需要に対して供給は多いのか少ないのか。発売時点で想定していた購買層とズレがあるのかないのか。等々を判断する補助材料にはなります。
そのような面では役に立つ場合もあります。完全に「手遅れ」というわけでもありません。

しかし、どんなデータにも必ず偏りがあります。
読者カードが、そもそもそのようなものを投函しようとする人々という段階で大きな偏向があることは、さすがにもう誰でも分かっていることです。個別の意見の中には参考になるものもあります。しかし、分母が偏っています。

インターネットで見つかる発言も、やはり偏っています。そこに日記や blog を開設しているという時点で、すでに偏っています。
私の妻は、おそらく私以上に本をたくさん読んでいます。しかし、これまで自分のサイトを持ったことはありません。今後もおそらく、持たないでしょう。
あなたは大変読書好きなこのある女性が読み終えた、膨大な量の本に対する感想を聞いたことはないし、これからも聞くことはないのです。

積極的に本のことについて書き綴ろうとする人自体、偏っています。それなりに本を読んではいても、そのことについていちいち書こうとしない人はたくさんいます。
毎日の食事についていちいち書かない人がたくさんいるのと同じです。少数の人は、食べたものを熱心に記録し、それについていちいち喜びをもって論評します。

さらに Amazon のアソシエイトやbk1のブリーダーなどであり、他人に本を薦めることにことさら熱を入れている人々の場合には、もっと偏っています。
全部ではありませんが、そのような人々の中には自分が個人として感動した本ではなく「売れやすい」ことを主眼に紹介する本を意識的に選んでいる人もいます。

インターネットから無作為に集めた「読者の声」はなんとなく、偏りのない生の声であるような気はしますが、必ずしもそうではありません。
必ずしもそうではない、ということを常に意識しているべきです。

人々が本に対してどう「振る舞っているか」を知る

特定の本に関する反応を知りたい場合には、単純に書名や著者名で検索すればよいので、特に難しいことはありません。
しかしながら、最初に述べたように読者の声は役に立たないのだとすれば、むしろ特定の書名に絞って検索をするよりも、「本」とか「雑誌」とか「本屋」とかいう漠然としたものに対して検索をした方が、長い目で見れば、役に立ちます。

このような漠然とした検索を実行すると「今日暇だったから本屋にふらりと入ったけれど…」というようなちょっとした書き込みも含めて膨大なものが引っかかってきます。
「もう何ヶ月も本を読んでいないなぁ…」というような文章だってひっかっかってくる可能性があります。
漠然としたこれらの文章はその人が何かを読んで面白いと思ったかというようなことではなく、本というもの全般に対してどのように振る舞っているかということを教えてくれます。

これは私が書店で働いていた時、暇だったらレジからお客さんの行動を見ていなさい、と教えたことに少し似ています。
何が売れたかを集計することだけに夢中になるのではなく、ある本を手に取るが結局棚に戻してしまうという行動を繰り返すお客さんを見守るとか、熱心に棚や平台をご覧になりながら結局出て行ってしまうお客さんの表情を観察するといったようなことです。
インターネット上のとある文章が、即座に何かの役に立つということは無いかもしれません。しかし、毎日毎日これらのものを流し読みしていると、業界の中に身を置いて物事を考えてしまう悪癖を少しは矯正できます。

読者と本の間には

思惑のすれ違い

読者と本の間には「書店」「取次」「出版社の営業」「出版社の編 集」などに関わる様々な人がいます。
読者と本そのものは直接出会います。しかしそれを作ろうとする人、売ろうとする人、配ろうとする人等々と読者は、必ずしも直接接してはいません。そこにはどうしても思惑違いや読み違い、いろいろなすれ違いがあります。
「本が売れないのでなんとかしなければい」ということが話題になる時も、それぞれの立場からくる微妙な食い違いがあります。
単純に営業職の方がこまめに書店まわりをして、書店員の意見を編集職の方に伝えれば万事が解決に向かうというものでもありません。
書店員の意見はあくまでも商品(利益をもたらすもの)としての本についてという観点から語られることが多くなります。必ずしも、読者の意見がストレートに反映されているとは限りません。
このことは、書店で働いているアルバイトさんなどのネット上の日記をいくつか見つけて読めば、すぐに分かります。たとえば、担当分野の売り上げに本気で腐心する一方で、帰り道に自分個人の楽しみのためにしばしば新古書店まわりをしている方はたくさんいます。

読者と著者も直接ではない

「読者と本そのものは直接出会います。」と書きましたが、読者と(「本」ではなく)著者も、直接出会ってはいません。
私はすぐれた編集職の人の力というものを信じているので、本=著者という甘い夢は見ません。
昔、お茶を飲んでの雑談の最中に私がふと出版物のアイディアを漏らしたことがありました。
それに対して、その長所や欠点、どう編集すると読むに値するものになりそうか等々、たちどころに十指に余る指摘を繰り出す編集さんの「プロの力」に唖然としたものでした。
圧倒されました。とりあえず何に関しても思い上がって生きているしょうもないこの私が、この時ばかりは圧倒されました。

実際に著書を持っていらっしゃる方や、ある著者の本をとても愛していらっしゃる方は「出来るだけナマ!」信仰が強いかもしれません。
しかしこれは素材と料理人の関係のようなものです。
いきの良い素材を「さっと炙っただけ」の料理があったとします。
それなら自分でその素材を入手して自分で炙っても同じですか?
どんなものがおいしく食べられる可能性がより高い「いきの良さ」なのかを判断する能力、さっと炙るという場合の「さっと」とは実際にはどのくらいの温度 で、どのくらいの時間なのかというような経験と理論からくる技術力。これらはとても素人が太刀打ち出来るものではありません。

著者がセルフプロデュースしながらインターネット上などで書物を直販していくことを「著者と読者の新しい関係」と安易に賞賛するつもりもありません。
ごく少数の編集能力も兼ね備えた著者は、確かにインターネット直販で自著を売ることで成功するでしょう。これまで出版社という企業と取引をした上でなければ活動できなかったことからくる(精神的な面も含めての)制限から解放され、大成功する事例も少数は出るでしょう。
また、すでに存在していらっしゃる可能性も高いですが、そのような直販作家のためのフリー編集者という仕事選ぶ方も現れるでしょう。
そのような形での出版が今より増える可能性を否定しません。これまでの流通経路を通じての出版と比べて見劣りするとも考えません。
しかし「どんどんそうなる」とか「それが未来の出版だ」などとは思いません。そんな風に言うのは実に無責任ですし、根拠も曖昧すぎます。
少なくとも、成功の主な理由が「直販だからだ」ということにはならないでしょう。

「読者」って誰

私たちのように出版業界やそれに関係する業界の内側に身を置いている人間は、かなり安易に「読者」という言葉を使います。
しかしこれは実に不可解な言葉です。
とりあえず本(少なくとも文字主体で構成されたメディア)を楽しむ人のことを読者と言うのだ、ということにしてみましょう。
すると、音楽を聴く人は「聴者」、服を(主に趣味として)買う人は「服者(あるいはファッション者?)」などということになりますが、そんな言葉はありません。
単に耳慣れないからおかしく感ずるというだけではなく、そのようにひとくくりにすること自体にかなり無理があります。
クラシック音楽を好んで聴く人とラップばかり聴く人を「聴者」でひとくくりには出来ません。そのようなひとくくりで「聴者はこれこれを求めている」「聴者を増やすにはこうあるべき」などという議論も出来ないでしょう。
ファッションとなるともっと無理があります。

「乗客」と「ゲーマー」の違い

ある一定の消費行動をする人々にすでに名称がある場合もあります。
たとえば「乗客」や「ゲーマー」です。

「乗客」の場合はあくまでも「電車・バス・航空機などの交通機関などを利用して移動する行為をしている時の人々」のことを指しています。
分かりやすいですが、しかし移動手段を提供する側は、ビジネスの出張で移動すると人々とフルムーン旅行をする人々を一緒くたに扱うことはありません。

一方「ゲーマー」の場合は、かなり絞り込まれています。
単にゲームをする人々全般を言うわけではなく、ゲームにお金や時間を最優先で注ぎ込むことをためらわない人々のことを特にゲーマーと呼びます。
また、ゲーマーは年齢(世代)で区分けされるわけではありません。
若くても年輩者でもそのような強い嗜好を持った人々がいることを、ゲーマー自身もソフト供給側も当然のことと受け止めています。

人は皆、プライベートであれビジネスの必要からであれ乗客になる可能性があります。その意味では日本人の大半が「乗客」です。
しかし全ての人が交通機関で移動することこそを生活の主体として暮らしているわけではありません。ゲーマーのように、ゲームをするためには他の多くのことを進んで犠牲にするわけではありません。

「読者」は、どちらかというと「乗客」のような言葉です。
本を読むという行為をしている時の人々、のことです。
人は皆何らかの形でかなりたくさんの本を読んでいますが、資格試験の受験をするための参考書を読みふける人と、ドラマのノベライズを楽しむ人を一緒くたには出来ません。
また(「ゲーマー」のような意味で)本を読むためには他の多くにことを進んで犠牲にするという程の人は、実はそれほどは多くありません。

「読者」という非常におおざっぱなくくりだけで物事を考えようとし続ける限り、どんなに調査したり、アンケートを採ったり、データ分析したりしても、何も見えてこないでしょう。

クソゲー

ゲーマーとまではいわなくとも、ゲーム好きな人々の間でかつて最も口にされた言葉は「クソゲー」だろうと思います。
つまりそれほどリリースされるゲームタイトルの多くが、どうにもひどいものだったということです。

ゲーム好きな人々がはっきりと「××はクソゲーだ」と始終口にし たのは、ある意味とても健全なことです。
一方本に対しては、まるで本というもの全てが粗略に扱ってはならないものであるかのように洗脳に近い教育をされているためか、誰でもが始終「××はクソ本だ」とはっきり決めつけの言葉を口にするということは、ありません。

「私にはあまり面白くなかった。まあ、人それぞれの好みだから…」
などという曖昧な言い訳がくっつきます。
「それほど良い本とも言えないが、これが本を(あるいは特定のジャンルなどを)読むきっかけとなるなら、それもよい」
というような発言もかなり見かけます。
良くないものが入門になるなどということを許す気持ちが、私には理解できませんが。

批評とは究極のところでは批判することではなく誉めること、愛を語ることだ、というようなことを言ったのは小林秀雄だったと思います。
その通りだと思います。
クソゲーは、クソゲーでありながら愛着の対象になることもあります。あまりの外れっぷりがむしろなんとも言えない愛着を生んだりするのですが、しかし、それがクソゲーであることは決して変わりません。

本をクソ本と決めつけた上で、でも自分はこの辺が笑えたよ、ここだけは妙に好きだよ、というような正しい「批評」をしている姿を滅多に見ることがありません。
非常に多くの人が無意識に本を、最低限一定以上の価値を持つものであるという前提で取り扱います。
広い意味での実用書は別として、本の多くは実生活の必需品ではありません。
必需品ではないのにお金を払うわけですから、お金を払う価値があったと自分も他人も納得させる必要がある、と無意識に思うのかもしれません。
そのこと自体を「勘違いである」「やめよ」と主張したりはしません。
むしろ人間といういきもののことを考える場合、勘違いではない、とも思います。
しかし、多くの人が半ば無意識にそう思ってくれることを前提にし、それに寄りかかって、本を作ったり売ったりするのはひどい怠慢であるには違いありません。

ぬるゲー

「ぬるい」という言い方があります。
ひどく悪いというほどではないが、これといって特筆すべきものもない無難なものや行動、といったような意味合いです。
破綻するかもしれない危険を冒してでも何かに挑戦してみる意志が、はじめから無いという侮蔑的なニュアンスを含むこともあります。

ゲームにも「ぬるゲー」が大量にあります。
そこそこ時間をつぶせる程度には楽しいけれど、やり終わったあとなにも心に残らないような、無難なゲームです。「○○円払って損したよ!」と怒り出すほどではないけれど遊ぶ前に内容を知っていたら多分買わなかっただろうな、というような。
ぬるゲーは非常に増えました。名作を作るのはとても大変であり、その一方、一旦出来上がってしまった会社組織は維持していかねばならない。とりあえずぬるゲーを出しておけ、というわけです。
ぬるゲーがいかにもそれと分かる様子をしておらず、重厚な大作であるかのような風情でリリースされるという凶悪なケースもあります。ビッグタイトルの続編などによくあります。

これがゲームソフトの世界に大変な悪影響があったのは周知のことです。少数の良いゲームと大量のクソゲーの方がまだましだったわけで、ゲームソフト産業全体が傾きかけました。
ゲームを一点一点吟味して遊んでいた(ある意味古いタイプの)ゲーマーをゲームから離れさせてしまいました。またそのような状況になってからゲームを遊び始めた人々は、そもそもゲームの大部分はぬるいもので、ぬるく消費するものだと思うしかありませんでした。

ゲームの過程を楽しむのではなく、即物的に謎の答えや成功のためのテクニックの情報を仕入れ、素早く終わらせる、というおかしな癖も蔓延しました。
しかしこれは、当時一部で言われたような、「マニュアル教育が」どうのとか「受験のための高得点獲得テクニック至上主義教育が」どうのということに原因があったのではありません。そのように遊ぶしか意味のないゲームがあまりに大量にあったという事実が、そこにあるだけです。
この頃「中古ゲームソフト販売業者がゲームソフト産業のじゃまをしている」という声も盛んに出ました。
しかし大量のぬるゲーが出回ったからこそ、人々はそれを「手元に置いて何度も遊ぶほどではない」とごく自然に思い、中古店に次々売り払うという行動をした、ということは明らかです。
ゲームソフト産業は自分で自分の首を絞めたのです。

編集者さんへのラブコール

自分で自分の首を絞めて自殺することは出来ないと言われています。
死に至る前に気を失って手がゆるんでしまうからです。
「ですからゲームも本も、やがて自然と再生するでしょう」などと続ければ言葉の綾としてはしゃれています。一見すっきり収まります。
しかし紐を用意すれば完遂出来てしまうと考えついたりするところが人間の困ったところです。
そんなに甘いものではありません。

どうか編集さんはもっと「キレて」下さい。
マーケティング主導の本作りに思いっきり逆らってください。
本を「ありがたがる」人々が無難な評価をはき散らすのを黙らせてください。
売れなければ意味はないというのは一見正論です。
しかし、多くの「美人」といわれる人々の写真を何十にも重ね合わせてモンタージュするという実験を見たことがあるでしょう。出来上がってきた結果を見て、どう思いましたか?

編集さんと営業さんは「よく話し合う」のではなく、プロとしての意地をかけて喧嘩をしてください。きっと得られるものがあります。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。