目録を見直そう

投稿者: | 2011年4月19日

目録をきちんと更新していますか?
最新版が一年以上前なんてことはありませんか?
そもそもしばらく前から品切れになったまま…なんてことは?

書店員にとって目録は大切

以前、書店員にとって注文一覧が重要だというお話をしました。
書店員にとって、目録はさらに突っ込んだツールとして価値があります。
数行の簡単な情報が、題名・著者・価格だけでは分からないことをたくさん教えてくれます。自分の経験や知識の範疇にない本と本のつながり、著者同士の影響関係などが、新たな棚づくりやフェア企画立案に役立ちます。
数社の目録を熟読することで、自分が知らないサブジャンルの簡単な全体像さえ、おぼろげながらつかめることも少なくありません。
繰り返し使われるキーワードや複数の解説文に参照として現れる本を見つけたりすれば、しめたもの。それらを手がかりにしてそのサブジャンル全体を勉強していくことが出来ます。
つまり目録は、ある単品が存在しているかどうかを検索するためのデータベースというだけではありません。あるジャンルの商品の基本構造や商品同士の関連性を把握するために役立つ貴重なツールです。

あらゆる機会に目録を配る

ですから、目録はきちんと更新し、新しい版が出来たら営業に訪れている書店さんには必ず渡しておきましょう。
それを読めと書店員さんに強要することは、残念ながら出来ません。
「読まないようじゃあ書店員として云々」と偉そうに言ってみたいところですが、まあ、それは我慢しておいて下さい。
けれども、熱心な書店員さんの潜在的な欲求に応えたり、基礎力を養ってもらったりすることにとても役立ちますから、積極的に配ると良いでしょう。
緊急の客注要請で、本を直送や直納することなった時にも、問答無用で目録を添えましょう。
書店員さん自身に見てもらうことを期待しても良いし、そのままお客様に渡してもらって、さらに関連するものを読んでみたいと思ってもらうことを期待しても良いでしょう。
注文一覧を下さいと言われたら、これまた問答無用で目録も添えましょう。「ご必要ですか?」なんて聞く必要はありません。黙って、当然のごとく、一緒に送りましょう。
とにかく機会を見つけしだい、なにがなんでも目録を配りましょう。

読者にとっての目録の楽しみ

読者にとっても、もちろん目録は大切です。
私も昔(そうまだ中学生だった頃)から一読者として目録がとても好きでした。まだ高額な単行本を買う余裕はありませんでしたが、文庫目録は繰り返し繰り返し読みました。
自分が好きになった作家、好きになったジャンルにまだ読んでいない本が沢山あるということを確認するのは、とてもわくわくすることでした。
数行の解説文を読んでは、どんな話なのか想像をたくましくし、乏しい小使いで次に買うのはどれにするか、楽しく迷ったものです。
全点目録には Web 上で行う検索などとは全く違う楽しみがあります。
目的を持って何かを見つけるためには確かに絞り込んで検索した方がずっと早いでしょう。
けれども、まだ自分が読んだことのないあんな本やこんな本がたくさん並んでいることを確認すること、それ自体が楽しい。
ある作家やジャンル同士の意外なつながりを知ることも、楽しい。
ある作家やあるジャンルの「コンプリート」を目指してみようかと空想すること自体が楽しい。
自分がまだ踏み込んだことがないテーマやサブジャンルをのぞき見ることが楽しい。
ですから目録は書店員の仕入れのツールとして利用してもらうだけでなく、出来るだけ店頭に置いてもらうようにもしましょう。

ベストセラー不況

本を見つけられない

ベストセラーは相変わらず何点か出現するけれど、それ以外の本がどんどん売れなくなっていくので全体としての売り上げはいっこうに良くなりません。
多くの原因が絡まり合っていて、私などがしたり顔に○○が原因だ、などと言えるような状況ではありません。
しかし、読者が本を見つけられなくなった、という側面は大きいと思います。
これを、今の人は本を探す能力、自分にふさわしい本を見つける能力が落ちた、つまり読者のレベルが低下した、という風に言う人もいます。
そうなのかもしれません。
でもそれは、もしかすると出版業界側からの少しばかり傲慢な物言いではないかな、とも思います。
ごく当たり前に考えてみましょう。
年々出版点数は増えています。年々日本の暮らしは多様になっていきます。しかし誰にでも平等に24時間しか時間はありません。
時間だけではありません。何かを探したり判断したりする時に必要な精神的なエネルギーも同じく有限です。
多様になる暮らしの中で、以前よりも更に多くなった本に気付いたり判断したりするのが難しくなっていくのは、当たり前です。

情報のオーバードーズ

日本の都市部での暮らしが年々いかに情報過多になっているか、はっきりと自覚できている人は少ないかもしれません。「昔も今も都会はせわしないところで結 局大して変わっていない。それなのに今の若者は本を読まない」…などと思っているなら、あなたの認識の方が、多分間違っているでしょう。

膨大な曲数の音楽をほんの小さなプレイヤーで持ち歩け、携帯電話はもはや電話をするものというよりメールや Web を自在に扱うツールに進化しつつあるために情報がまるで決して離れることないオーラのように付き従い、山の手線の車内にさえ(活字よりさらに強制 的に注意を引く)動画のコマーシャルやニュースが流れ、駅貼りのポスターにさえ QR コードがあります。
自宅に戻っても(もしもそういう生活をしていれば、ですが)メールや Web だけでなく RSS リーダーが30分ごとに自動的にニュースサイトの最新ニュースを取得してきて知らせ、急速に安く・速くなる通信回線は興味を引かれさえすればどんな「重い」動画の情報であっ てもためらいなく見に行くことを可能にしました。
メーリングリストにでも参加していようものなら、次々と情報・意見が届けられ、場合によっては自分もそれに素早く反応を返さなくてはなりません。活発な掲示板もそうです。
素早く反応することは(そう望む人にとっては)とても大切です。
素早くないと多分他の誰かが反応してしまって、自分の反応は「その他大勢」になってしまいますし、そもそも反応しなければ時々刻々発生する小さな祭りに乗り遅れます。
小さな祭りは、実際下らないものだったかもしれません。でも少なくとも、その祭りに参加できなかったという後悔だけは残ってしまいます。

素早く反応することが大切なら、思考することより、その場その場で脊髄反射的に行動することが必要になります。結果として(たとえ本人が望んで行動したとしても)人生は意義や関連性の裏付けのない、限りない断片になっていきます。
ここまでくると、情報を得ようとすることより、いかにして情報を選別して捨てるか、いかにしてある閾値以下の情報を素早く忘れるかということの方がずっと切実になってきます。
少し大げさに聞こえるかもしれませんが、これはアイデンティティを保っておくためにはどうしても必要です。
もっとどぎつい言い方にしてみましょう。
情報は麻薬のようなもので、オーバードーズ(薬物過剰摂取)で死んでしまわないように常に気をつけていなければならないものに、すでになってしまったのです。

それでも人は本も読みたい

それでも多くの人は何か本「も」読みたいです。
おいしいもの「も」食べたかったり、友達とおしゃべり「も」したかったりするのと、同じです。
膨大な情報過多の中で本を選ぶには、何かを指標にしなければなりません。その時、ベストセラーは少なくとも「安全パイ」ではあります。自分以外のたくさん の人が読んだらしく、その人々が「金返せ」などと言っていないのですから、傑作なのかどうかは分からなくても安全ではあります。そこで「とりあえず」それ を買ってみる、ということになります。
この「とりあえず」がベストセラーが出つつ不況だという状況を、より一層加速させます。

道草は自然。「正しい道と目的地」は不自然

本は関連で読むものです。
「今時そんなまめな読書をする読者などいない」という反論は、却下です。単にそうできなくなってしまっているだけで、そうしたくないと望んでいるからではないからです。

携帯でメールのやりとりをするだけで丸一日が過ぎていく誰かを想像してみましょう。
沢山のメール友達がいるでしょうが、それでもそのメンバーは毎日全く異なるランダムな人々でしょうか。もしもそうだったら、それはおそろしく疲れるだけでなく、自分の一日一日を「こんな自分のこんな一日だった」とさえ言えなくなるような、支離滅裂な日々でしょう。
たとえ200人の、あるいは500人のメール友達がいても、必ずその中には(自分にとっての)中心メンバーがおり、そして自分が特に興味が持てる話題があるはずです。
そうでなければ、前段で述べたように「意義や関連性の裏付けのない、限りない断片」が残るだけです。

自分が本来持っている興味や嗜好を中心にして、その関連で行動するのが人間のごく自然な姿です。
あることを知り、興味を持ったらそれに関連することを追いかける。
その中でまた新たなことを知ったり興味を持ったりしたら、またそこから脇道を進む。脇道を戻ってきて元の道を少し先まで進み、また新たな脇道に入る。
それがごく自然な姿であり、気持ちがよいことです。
子供の道草と同じです。果てしなく時間がかかり、どこへ行ってしまうのかハラハラしても、結局はうちへ帰ってくるようなものです。

せっかく楽しそうな特定の場所や催しに連れて行ったのに、その途中で「道草」を始める子供はたくさんいます。
大人は目的地である「点」をひたすら目指して途中は出来るだけショートカットしようとしますから、時としてののしり合いになることもあります(笑)。それ でも大人は「次。次!」と言います。子供はそんなときちょっと不満です。目的地に着いてみればそれはそれで楽しいんですが。

幼い子供は移動途中でよく眠ります。
単純に体力がないということもありますが、ある一定量の経験をしたら自動的にそれ以上の情報をシャットアウトして経験を反芻・整理をしてもいます。
それをさせないと子供の「思い出」は混乱し、いくつもの別々の場所での経験がごっちゃになったものになったりします。最悪の場合断片的な印象と疲れたという嫌な気持ちだけが残ったりします。
膨大な情報を並列に投げ出し、「発信者側」が強調したいものだけを強制的に目立たせようとやっきになっている状態の中へ人を投げ込めば、自然に道を辿るという行動が出来なくなります。
幼い子供を車に放り込んでディズニーランド新江ノ島水族館群馬サファリパークのはしごをするようなものです。多分、子供は泣くでしょう。

それぞれお近くの有名アミューズメント施設を三つ無理矢理詰め込んで読みかえてみてください。 
 

道草を助ける目録

ここまで述べてきたように、点としての「おもしろ推奨スポット」だけを強調し、そこへ出来るだけ早くたどり着くことが「正しい道」だという態度を強くとりすぎるのは、いささか不自然だという考えに沿って、もう一度出版業界の現状を見てみます。
そうすると、(あら不思議)派手に広告宣伝をしたり、書店店頭で単品のしかけ販売を展開したり、ベストセラーを喧伝したりする今の出版業界はきわめて不自然な状態になっている、ということになってしまいます。
情報過多の世界の中で、さらに人々に「きわめて断片化された」情報を投げ与えるという行動ばかりを夢中でしていることになるからです。

現実問題として、広告宣伝に力を入れたり、マスコミや書店店頭での露出を競い合ったりすることそれ自体は悪ではありません。
そもそも自信のある本を出版したのに一切宣伝もせずに、意識的にじっと身をひそめている人や出版社があるわけもありません。
宣伝行為を控えることを求めているわけではありません。同時に、読者に道草行動を許す、むしろ積極的にそれを支援することも積極的に行わなければ、能動的な読者は減り続けてしまうということです。

ささやかなものですが、それを助けるツールが目録です。
自分が読んだ一冊から関連を辿って、道草的に読書を続けられるように助けるのが目録です。
目録はメンテナンスしていくのに手間もかかかりますし、目録それ自体は売れません。目録があったから売れたと確実に知る方法もありません。
ですから無責任には申し上げられませんが、新聞広告を一回削ってでも目録をメンテナンスして欲しいところです。

目録を活かすためにやらなければいけないこと

目録を活かすためにもうひとつやらなければならないことがあります。
読者が目録で何かを見つけてそれが欲しいと思った時、それが書店の店頭にない可能性は高いです。
それは、基本的には、書店のせいではありません。ある個人の道草として見つけだされた本であり、今現在の売れ線やベストセラーではないからです。
読者が道草として見つけたものが夏目漱石の『道草』だったのに書店になかったというなら、やはりそれはまずいでしょう。けれどもノルベルト・オーラーの『中世の旅』だったりしたら、責められないでしょう。

そこで、読者が目録から見つけだした本を、可能な限り素早く取り寄せられるように書店・取次・出版社全部が真剣に取り組む必要があります。
何かを読みたい! と思った時、そのわくわくした気持ちが持続できるのは普通3~4日程度です。
10日かかってしまっても、結局手元に届けば思い出して「せっかくだから」読むということはあり得ます。しかし3~4日以内に入手できないということを知った瞬間に、注文することを取りやめる人はたくさんいます。

本は読みたいという気持ちが持続している間に読むというところまで含めて商品です。
こう言うとなんだかもっともらしいですが、嗜好品はおおむねどれもそうです。「あれが食べたい!」という気持ちは「じゃあ5日後に来てください」は許容しません。あれが食べたいと思い、その場で食べられるというところまで含めて、商品です。
書店員は「いつまでにご必要ですか?」とお客様にお尋ねすることはあります。何かの会で使うとか試験が迫っているなど、ある期限をこえると無意味になってしまうような事情がある場合にはなんとかして間に合わせますよ、と申し出るわけです。
でも本当は、全てのお客さんの気持ちの「いつまでにご必要」は、「出来るだけ早く!」なのです。

一旦発注をキャンセルした人が、どの本屋へ行っても店頭在庫が無く、発注すればほぼ同じ程度長い時間がかかるということが分かれば、結局あきらめて行きつけの本屋に注文すると思いますか?
甘いです。
非常に多くの人が、そのままその本を読むこと自体をあきらめてしまいます。
あなた自身そうやって読まないままになっている本が一冊もありませんか?
あなたがお勤めの出版社に読者から、本の定価を考えるととても割に合わないほどの送料を支払ってもかまわないから今すぐ本をくれという電話がかかってきませんか?
現状のままでは実現不可能ですが、もしも注文した本が全て3日以内に手に入れば、本はいまよりずっと売れます。
もしもあなたの会社が書店に直納や直送を出来るなら、機会をとらえてそれをはっきり書店に伝えておきましょう。「ああ、あそこの本ならお客さん、明日の夜までには手に入ります」と書店の店頭で言ってもらえます。

嘘くさいアメリカンな口調でのまとめ

もう分かったよね。目録は、目立たないけどとても大切なツールなんだ。
それは無料でヒイヒイいいながら配りまくるための「サービス品」てだけのもんじゃない。ちゃんと売り上げに貢献するはずだ。

目録は、本を扱う業界全体にとってとても大切なツールだ。
オーバードーズ気味の今の社会の中で、自分を取り戻させてくれる。
O.K. それから?
それからそう、本は早く届かなくちゃいけない。
自ら進んであるものを見つけだし、それを欲しいと言ってくれた人を「本気ですか? そんなもの探してる人なんていやしませんよ」とか「今欲しいって? わ がまま言うんじゃないよ。ちゃんと渡してあげるから口を閉じて大人しく10日待ちなよ」とか言われてるような気分にさせないってことさ。

だんだん早く届くようになってるって?
そりゃ当たり前だろう。もし遅くなってたら大変さ。
でも20数年前に私が本屋の新人で、いかに素早く正確にレジを打ち、笑顔でお客さんを送り出すかってことだけを考えていた時と比べて数日しか早くなってない。ワーオ。
そう、確かに早くはなってる。
でもどうなんだい。それは「なんのために」早くなった? 「どこを目標として」早くなったんだい?
80点取れなきゃ合格しない資格試験があるとしよう。君は毎年それを受験してるんだ。20回目の受験で、去年よりも1点いい65点になったってことを誇るわけかい?
私だったら、少なくともそれを人には言わないね。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。