書店が嫌い

投稿者: | 2011年4月28日

書店が嫌いだという声

最近、書店店頭がおしつけがましくて嫌だという話を、直接聞いたり、インターネット上の日記やブログの記述を目にしたりすることが妙に多くなりました。
具体的には「プロモーションビデオやBGMがうるさい」「誇大なPOPの乱立が目障り」「本の装丁が派手で見ていて疲れる」等々。
本が好きで本屋へ行くけれども、それらが不満で早々に出てしまうようになった。
本屋が好きだったけれど、あまり行きたくなくなってきた。
などの具体的な行動の変化を語る方もあります。
ごく一部の人々の意見、という見方もあります。
けれども、ごく一部にしろ以前よりあきらかに増えてきているようであれば、それは背後に発言しないまま同じ思いを持っているかなりの数の人がいる可能性がある、ということでもあります。

不満を伝えてくれるとは限らない

有償のサービス(物品販売ももちろん含まれる)に対して、誰でもがストレートに苦言を呈してくれるわけではありません。
サービスを提供する側に立っていると「苦情がなければ満足している証拠」と思いがちですが、もちろんそれは勘違いです。
あなた自身が自社以外のサービスを利用する時のことを考えれば、苦情を伝えないことと満足していることは全く違うとすぐ分かりますね。

何か不満を感じたとしても、それがわざわざ言い立てるほどのものではない「小さな不満」だと思えば、あなたはおそらく口に出さないでしょう。
このサービス・この商店・この施設を使うことが今のところどうしても必要だから、小さな不満はあってもとりあえず使い続ける、ということになります。

非常に大きな不満を感じたり、きわめて不快な思いをしたりすればそれをサービス提供側に伝えることはあるでしょう。
しかし、一切それを伝えずに「見限って」同等のサービスを提供する別の業者に無言で乗り換えるということもあるでしょう。
小さな不満が改善されずに度重なる。
あるいは、サービス内容がよりいっそう悪化したり、改悪されたりして小さな不満の種がむしろ悪化していって大きな不満になってしまう。
そういう道を辿ると、非常に多くの場合、ひと言も言わずに去っていくことになります。
なんだか苦言を呈するタイミングそのものを見つけらないまま、気が付くとそのサービスを利用することをやめてしまっていた、という場合さえあるでしょう。

「小さな不満」は小さくない

「小さな不満」は、本当は「小さい」「些細なもの」ではありません。
「小さな不満」とは、自分が得られる利益と不満を秤にかけた時、どっこいどっこいになりかけているけれど、まだわずかに利益の方が多い、という状態です。

いろいろな問題点が「数え上げれば」存在しているサービスであっても、得られる利益が非常に大きい時には気になりません。大量の満足感が不満を圧倒しているからです。
「小さな不満」を感ずるようになるのは、すでに満足感が不満を圧倒するほどではなくなっているからです。秤がどっこいどっこいにじりじりと近づいている時「小さな不満」を意識するようになります。
つまり「小さな不満」とは、実のところは「かなり大きな不満」なのです。

なぜ不満が増えるのか

さて。 話を書店店頭に戻しましょう。
「書店も商売なんだからしょうがないじゃん」
こういう意見は非常に多いと思います。
一見正論です。
しかし、上に述べた「小さな不満は秤がどっこいどっこい」ということをよく考えれば、正論ではない、ということが分かります。相対的に、利益が不満を上回らなくなって来ているからそういう声が出てくるのです。
利益が不満を上回らなくなって来ているなら、そもそも商売としてすでに失敗しかけているわけですから、「商売なんだからしょうがない」は通りません。
なぜ「秤がどっこいどっこい」になるのか、ということには幾つか原因が考えられるでしょう。

  1. 相対的に、書店に本来求められるサービスが低下する
  2. 誤った行動をしていることに気付かないままそれを繰り返す
  3. 本は読んだり考えたりするものだという根本を忘れている

 

相対的に、書店に本来求められるサービスが低下する

この場合の具体例は、多くの方がすぐに思いつくでしょう。
そうです。「店員が本を知らない」「品揃えが貧弱」「棚構成が意味不明」等々、ここであらためて繰り返すまでもないことです。

さて、この場合気付いて欲しいのは、「相対的に」本来求められているサービスが低下するから、不満が目立ってしまうのだ、ということの方です。
訪れる人々の希望はそれこそ千差万別ですから、全員の不満を完全にゼロにすることは事実上不可能です。クレームや不満として表面化したことを順々につぶしていくという考え方だけでは、おそらく永久にクレームや不満は減りません。

何かクレームを受けて、大慌てで指摘されたことだけを社内で改善通達することは良くあります。「全員決して~してはいけない」とか「~の強化に今まで以上に努力するように」とか。
そのこと自体は、まあ、悪いことではありません。
しかし、モグラ叩きのようにたまたま突出したクレームに取り組んでも、おそらく全体的な満足度はあまり上がりません。

「言葉遣いが悪い」とか「態度が悪い」というクレームを受けたとしましょう。
言葉遣いは悪いより良いに越したことはありません。
それは当然です。
しかし、どのくらい丁寧な言葉を使えばお客様全員が満足するのかという方向へ突き進んでも、実はあまり益はないでしょう。

かつて言葉遣いに神経質になるあまり、客注を受ける時に「お名前様を頂戴できますか」という用語を店内で統一して使っていた書店を知っています。
これには正直失笑させられます。
「お名前様」と言われて客の方がとっさに何を言われたのか分からず聞き返すなどという光景も繰り返されました。
そんなトンデモ用語を統一するより、客注手続き全体をスピードアップする方法を考えるとか、「いつ届くのか」「確実に手に入りそうか」など客が一番気にしているであろうことを応対の最初にテキパキと伝えるように手順を変えるとかした方がましです。

とある宅配ピザの若い配達員が、ほぼ完璧に隙のない敬語でしゃべってはいるのだけれど、ふと気が付くと私が財布の中を探っている間中片足のつま先でトントン地面を打っている、という光景に出くわしたこともあります。
この場合ならむしろ敬語はかなりおかしくても、全身で「ありがとう」という気持ちを素直に表してくれていた方が365倍くらいうれしかったでしょう。

例がちょっと「敬語か態度か」というところに偏ってしまったために、話がわき道にそれてしまいました。
クレームに取り組まなくても良い、という意味ではありません。
しかし、書店の基本的なサービスを充実させることに力をかけなければ、クレーム自体が減ることはおそらくありません。

相対的に、のもうひとつの意味

「相対的に」という意味は、他の同種のサービスや業種のレベルと比較して相対的に、ということでもあります。
20年前から全く同じサービスレベルを保っている書店があったとしましょう。一切悪化はしていない。これは立派なことです。
しかし残念ながら、その書店のサービスの質は世間一般と比べて、おそらく「相対的に」低くなったと感じられるでしょう。

たとえば、メールやインターネット上で何万円もの商品が24時間購入出来、宅配便で時間指定で自宅に送ってもらえる時代に、数百円のために何度も足を運ばなければならないサービスは「相対的に」質が低下していると感じる人もあるでしょう。

全体としては供給過多の(ものがあふれている)印象が強い現在の消費社会で、ヒット作、ベストセラーであるはずの商品が実にしばしば、どこへ行っても品切 れしているなどという業種は、相対的に質が低下している、少なくともいっこうに改善されていない、と感ずる人もあるでしょう。

本来期待されているサービスの質は、絶えずより良くなり続けない限り「悪くなった」という印象を持たれることになります。
たとえ、それが完全な誤解であったり、業界の現実からするといささか無茶な要求であったとしても。

誤った行動をしていることに気付かないままそれを繰り返す

小さな不満が蓄積する理由には、もっと非常に分かりやすいものもあります。
少なくとも外部から見ると非常に分かりやすいのに、内部ではあまり真剣に考えていないらしい、以下のようなことです。

今でもしばしば見かけますが、熱心に本の補充をしている店員さんが、かなりバタバタと音を立ててやっていたりします。慢性的に人手不足ですから、短時間のうちに出来るだけたくさんテキパキとやりたい、という熱意はよく分かります。
でも、うるさいです。
もっとひどくなると(最近は減りましたが)棚一杯に本を詰めるために本の背をパンパン叩いていたり、きれいに揃えるために棚の本に手をかけてガタガタ揺さぶったりします。
殴りつけたり揺さぶったりと手荒に扱われた本を、必ず平積みの下の方から本を抜いて買うことが圧倒的に多いお客様達が、喜ぶとは思えません。

開店した後の店内利用の「優先権」はお客様にあります。
お客様に見ていただいて、選んでいただいて、買っていただいて成立している商売なのですから当たり前です。
ところがそれをじゃまするようにうるさい音を立てたり、ひどい時には現にお客様がご覧になっている目の前の棚まで割り込んで補充や整理をしたりします。
今の15分間を逃したらもう今日は(シフトの都合などで)その部分の棚の補充は出来ない! という理由がたとえあったとしても、それでもお客様の優先権を侵すのは絶対に間違いです。

補充のために棚の下の引き出しを開けるのも同じです。
かなり多くの書店員さんが「すみません」というひと言を口にして、お客様がどいてくれるのを待ちます。
お客様がどいてあげなければならない理由はない、と本気で考えたことがありますか?
たまたま展示用の棚の下をストック場所として使っているというのは、あくまでもお店側の都合です。しかも(現状ではやむを得ないかもしれませんが)店舗設計としてあまり良くありません。
「すみません」と言いさえすれば必ず許されるというものではありません。

熱意を持って働くことは文句なく素晴らしいことです。
しかしそのことと、お客様の優先権を侵してもよいのかどうかは、全く別のことです。
お客様が夢中になって、宝物を持ち帰るような気持ちで買うということだってあり得る商品を、殴りつけたり手荒に揺さぶったりしてもよいかどうか、も別です。
熱意も、忙しさも、人手不足も、一切免罪符にはなりません。
あなたが本当にプロとして熱意ある仕事をするのなら、たとえばテキパキとしていながら静かな仕事ぶりを身につけよう、と考えてごらんなさい。
あなたが責任者なら単に「順々に担当者をレジから出す」のではなく「今お客様のじゃまにならない場所の担当者をレジから出す」ようにしてごらんなさい。

 

本は読んだり考えたりするものだという根本を忘れている

そもそも本好きな方、読書量の多い方には想像もつかないのかもしれませんが、多くの人々にとって本を読むことは:
疲れる
難しい
時間がかかる
ことです。

業界に全く関係のない暮らしをしていて、いわゆる「読書家」ではない友人・知人に片っ端から聞いてご覧なさい。
「疲れる」とか「難しい」とストレートに認めることはなくても、単行本を一冊読了することは達成感のある一仕事だと思っている人はたくさんいます。
ある本に対する感想が、普段から本をたくさん読んでいる人とそうではない人で大きく異なる場合も良くあります。
その原因は様々ですが、普段あまり本を読まない人の場合、自分自身がその本を「完読した」という重い達成感と本そのものへの評価がないまぜになっていることが良くある、というのも原因のひとつです。

あなたやアナタのように、一日中数分でも暇があれば本を読み、時に複数の本を同時並行で読んでいても混乱せず、外出先でうっかり持ってきた本を読み終わっ てしまうと麻薬が切れたように駅の売店を覗いたり近くに本屋がないか探し回ったりし、出張先のホテルで眠る時に読む本がなかったので備え付けの聖書を読み ながらようやく安心して眠りにつく…というような人ばかりではありません。
かなり多くの人は同時に二冊以上の本は読めないし、本を読むことは「読書くらいしなければ」と意識してすることであり、努力と集中力を必要とするのです。

この当たり前のことに気が付けば、うるさすぎるBGMやプロモーションビデオが、本を選ぶことのじゃまになるのは当然だと分かるはずです。
本を山のように読んでいるあなたやアナタであっても、大音響とイルミネーションのロックコンサート会場の中で冷静に本を選ぶのは容易ではないでしょう。(周りでは、ロックバンドのファンが叫んだり跳ねたりしてますしね)。
あるいは、こうです。
いわゆる街宣車が「皇国なんとかが…!」と大音響で繰り返し続けているすぐそばで本を選ぶように強要されてそれが1時間でも2時間でも続くなら、あなたやアナタでもやっぱり苛立ちが押さえきれないでしょう。

大根や人参を買おうとしている時に「キノコがおいしいよ」という宣伝テープがエンドレスで流れている、というケースとは意味が違います。
本は一冊一冊その中身を、おおよそであれ、理解しなければなりません。購入する前の段階で、すでに知的で複雑な判断が要求される商品なのです。
「書店も商売だから」なにかを宣伝しても良いということと、スーパーマーケットの「キノコがおいしいよ」のテープは同列ではありません。

まず、普通のことをちゃんとやる

かつて私は書店内のBGMにパンクロックをガンガン流していたことがあります。
それから20年経ったからといって今になって、そんなことは無かったことにして偉そうに講釈をたれるというのでは、いかにも卑怯です。
ええ、そうですとも。ごめんなさい。

でも今になれば、その時の自分に欠けていたのは想像力だということがよく分かります。
自分自身は確かに「がむしゃら」といいたいほど一生懸命働いていました。けれども、全ての基準が自分でした。お客様のためにと思ってやったと信じていても、実は「自分が、お客様のために思う」熱意に夢中になっているだけということも沢山ありました。
熱意があることや、よかれと思ってやったことだからということが、何でも許されたり誉められたりするわけではありません。

長い間右肩上がりの経済成長の中で、単にその波に乗っているというだけの理由で右肩上がりに過ごしてきた書店が、右肩が下がり始めてはじめて「書店も商業だ」と気付く。
気付いて、慌てて「商売気」を出してみようとするけれど、慣れないし、不勉強なので、コンビニでああだといえば真似をし、ドンキホーテがこうだといえば取り入れ、CDショップがアレらしければやってみる。
他業種に学ぶ姿勢そのものは大変良いことです。
しかし、それが書店業、あるいは本という商品そのものの性格に合うのかどうかということを、真剣に考えることは忘れてしまっているように見えます。

自分自身とそれを支えてくれているお客様を、よく見ましょう。
よく見、よく考えて、奇策に走る前にやれるはずの「当たり前のこと」をちゃんとやりましょう。
まずいお菓子は、どんなに大宣伝しても、まずいお菓子です。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。