既刊を積極的に勧める

投稿者: | 2011年3月15日

ベテランの書店員の多くは既刊の勧め方がうまいかどうかで版元の営業さんの力量をひそかに計っています。
新刊をどんなに上手に売り込んでも、既刊の勧め方が下手なら尊敬しない、とさえ思っていただいて良いでしょう。

新刊は(当然ですが)初めて世に出る商品なので、それがよく売れるかどうかは未知数です。たとえ版元さんが心血を注ぎ、書店員も質の高い良書だと思ったとしても、それでも必ず売れるとはいかないのが商売というものの難しいところです。
様々な社会情勢から醸し出される世間の気分に、たまたまタイミング的にあわなかったせいで売れない、という悲しいことも起こります。半年早く、あるいは半年遅く出版されていればヒットしたかもしれない名作でも、そのように埋もれてしまうことがあり得ます。
タイトルの印象のほんのちょっとしたズレ、装丁のミスマッチ、値付けを200円誤ったがために売れなかった、ということだって起こります。
ですから、新刊が当たればよく売れる、ということは当然知ってはいても、書店員は実は新刊というもの全体にさほど信頼感を持っていません。期待はしていても、信頼はしていません。

過去の実績が積み重なっている既刊こそが、最も信頼に値する商品です。
派手な売れ方はしなくても、確実にある冊数までは売れるというのは、素晴らしいことです。
とある新刊は、期待され、15冊入荷して、しかし一ヶ月後に1冊しか売れていないかもしれません。
その側で、目立たないながらも 5冊仕入れた既刊が一ヶ月後に4冊売れていれば、店の売り上げに本当に貢献したのは、この既刊の方です。

どれも本当は古くない

そもそも、ある人が初めてある本に気付けば、それが5年前に出版された本でも10年前に出版された本でも、その人にとっては全くの新刊です。
5年前には時代の空気に合わずに埋もれてしまったものであっても、今は時代に求められるものになっているかもしれません。資料やデータが決定的に古くなっ てしまっているというような問題さえなければ、ある一定以上の質を持った本は何年経とうとも潜在的に売れる力を持っています。
出版業界にはいろいろと情けない問題点もありますが、一方では商品の寿命が非常に長いという特異な長所もあります。他のどんな業界の商品が、1914年以来変わらずに売れ続けるなどということがあり得るでしょう。
「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。」と広告されて出版された夏目漱石の『こころ』です。
書店人はその日以来、繰り返し繰り返し、この本を売り続けてきました。読者もその日以来、繰り返し繰り返し、この本を買い続けてきました。
今月は自信を持って薦められる新刊がないので今日はご挨拶だけで帰ります、などとおっしゃる方もおられます。
御社の既刊のラインナップに、もう一度日の目を見てもいいはずのものはありませんか?
既刊を薦めることは御社の利益になるだけでなく、書店にも、読者にも利益になるのです。

既刊の組み合わせをどう選ぶのか

新刊と同じ著者だからとか、同じテーマだからとか、同じシリーズだからとかいうような安易な組み合わせは極力避けてください。
もちろんそのような組み合わせ方は基本中の基本であり、いつでもそれなりの効果があります。しかし、オリジナリティのある組み合わせを混ぜ込んでいかなければ、日本全国どこの書店へ行っても同じようなものが同じように並んでいるということにしかなりません。
「同じようだ」と感じた瞬間に人間の注意力は一気に弱まり、ひょっとすると出会えたかもしれない本を探し出そうという意欲そのものも失います。
「掛け時計のある部屋に入った瞬間は時計の音が聞こえているが、やがて聞こえているはずなのに聞こえなくなる」という古典的な実験も有名ですが、書店員の間で間違いのない経験則になっているのは「もう動かなくなったので返品すると、直後に必ず問い合わせを受ける」というやつです。
これは毎日毎日同じ平台を眺めていた人が、同じであるが故に全く注意を払わなくなっていたのに、無くなるという大きな変化に接して「そういえばあの本が欲しかった」と(場合によっては数ヶ月も経った今)気がつく、ということが実証されているわけです。
同じようではない、ということの効果は明らかです。
さて、ではどのように「同じようではない」組み合わせを考え出したらよいのでしょう。
あなたが天然水が大変好きだとしましょう。しかしあなたはコンビニへ行って、そこに並んでいる天然水を片っ端から買うでしょうか?
おそらくそんなことはしないでしょう。
あなたが一番好きな天然水はせいぜい一つか二つに決まっているでしょう。
それよりもあなたは、その天然水と一緒に何を買うでしょう?
あなたがもしも健康に気を遣って天然水を飲み続けているのだとすれば、多分ヨーグルトではないでしょうか、それも、おそらく微糖の。それから、食物繊維を豊富に含んだシリアルかもしれませんね。
麦を沢山練り込んだ食パンということも、考えられます。
商品を組み合わせる、ということの本当の意味とは、そういうことです。
決して、天然水と天然水と天然水を組み合わせることではないし、ましてや「飲み物」などという大ざっぱなくくりでの組み合わせでもありません。
あなたが相手にしているのは、実生活のある人間です。

アドバイス:ありありと思い描く

訓練してみましょう。
世の中には50代サラリーマンという人間や、20代後半OLという人間は、いません。
本を読むのはどんな人だろう、とありありと思い描いてください。
実在しているのは、たとえばこんな人です。
名前があり、家族があり、少し太っていることを気にしていたり、肩が凝っていたり、片恋をしていたりして、通勤に55分かかり、途中の乗換駅の階段では本当は歩きにくくて嫌なのだけれど意地でもミュールで通勤するのはやめず、同僚に気の合う人が二人、どうに も気の合わない人が二人、どちらでもない人が十人いて、派手に立ち回る一見切れ者風の課長より実は係長の方が実質的に部署を支えていることにある日気付いて以来会社ってなんだろうということを少し考えるようになったりして、昼休みには節約のためにコンビニ のおにぎりで済ませるかマクドナルドの激安ハンバーガーで済ませるか悩み(なぜなら太っていることを気にしているから)、退社間際に入ったくどくどしたクレーム電話を自分が取ってしまった不運を笑顔にかみ殺し、田舎の親にもう三ヶ月も連絡を取っていないこ とをほんのちょっと気にしつつも友達と一緒に会社帰りに新しくオープンしたブランドのショップを見に行ってまた遅くなってしまったので電話をするのはやめておいて、電話といえば新しい携帯に買い換えるかどうかちょっと迷っていたんだった、と思い出したりし ながら自慢の桜色の健康的な爪をちらりと点検して、ごてごてとネイルアートで飾り立てたあの子より私の方がずっと、いやいやなんでもないと自分に言い訳し、猫でも飼おうかなとため息をひとつつき、そしてひとり遅い電車の中で時間つぶしに本を読んでいる…
そのとき、彼女は何を読んでいるのでしょう?
ありありと思い描いてください

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
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