沈黙

投稿者: | 2011年4月4日

沈黙を恐れるのは一種の本能かと思うほど、人間はしゃべり続けます。
むかし私が
「なぜ人は天気の話をするのか。いくら話したところで天気は絶対に変わらないし、今どのような天気であるかをひたすら互いに確認し合うことで何か得られるものがあるのか」
と言ったら怒られてしまいましたが、そのくらい人間は、確かに、しゃべり続けます。
しかし、交渉ごとの場では、結論が出なければなりません。
結論を出すためには、考えなくてはなりません。
結論を出すために考えるのは、あなたではなく、相手です。

上手なのでしゃべりすぎる人

ある程度経験も積み、自分なりの営業スタイルが出来上がってきた人は、いわゆる流れるようなトークができるようになります。ところがそうなれた後に、不思議と時々全く成功しないことがある。
過去の実績からすれば今回も必ず成功するはずなのに、なぜか相手の注意力がそれていってしまって結局成功しない。
流れるようなトークのはずが、流されてしまうトークに・・・。

流れるようなトークの出来る「うまい人」は、過去の成功経験から作り上げた万能のセールストークを信じすぎるために、かえって相手の話を聞かなくなる危険があります。
たとえ形としてはきちんと受け答えをしていても、相手の反応を全て自分のセールストークの中へどのように抱き込んだらよいかという効果を判定するための材 料としてしか見ていないために、実際には全く相手を尊重していないという、慇懃無礼すれすれになってしまっている場合もあります。

上手なのでしゃべりすぎる人の傾向と対策

このような人に対面していると「口を挟む余地がない」と感ずることがよくあります。
計算しつくされた組み立て。機能美に達している滑らかな表面。こちらが口を挟むとその表面に醜いひびが入ってしまうように思え、それがなんだか申し訳なくて、思わず積極的な発言や反応を差し控えてしまいます。
相手が期待しているだろうなとあきらかに思える返答だけを口にしたりさえ、してしまいます。

ちょっと意地悪な気分になって、わざとひびを入れるような反応を返してみることもあります。
普通は目くじらを立てずに「はあ、なるほど」「ええ、そうですね」などと聞き流すところで、わざと「いや本当にそうですか?」とか「そうは思いませんが」などと、基本的な話の流れを作っているはずの部分に対して反対をしてみる。
普通はわざわざ問いつめないような実に細かな部分に大げさな興味を持ってくどく質問をしてみる、というような大人げないこともしてみます。
「話の流れ」にそって相手が踏み出してくる足に、足払いをかけてしまうわけです。

見事に体勢を立て直す方もありますが、実はかなり多くの方がこの「足払い」で思いっきり転んでしまいます。
話の流れが完全に止まったり、混乱してその後のトークがボロボロになってしまったりします。
転んでしまう方というのは、表面上は完璧でも、会話は双方向のものであるという基本を忘れてしまっています。
双方向の会話を上手に制御するために苦労して身につけてきたものであったはずですが、いつのまにかそれが単に身を預けるためのシステム、悪い意味でのテクニックになってしまっていたわけです。

私のような意地悪をする人は少ないでしょうから、このタイプの方は、自分の失敗に気付きにくいかもしれません。
努力を積み重ねて「うまく」なった方こそ、むしろ、要注意です。努力の末に獲得したものはついつい守りきろうとしたり、頼ろうとしたりしがちです。
おかしいと思ったら、もう一度下手になってみることです。

情熱的なのでしゃべりすぎる人

自分の仕事に熱心なだけでなく、扱っている商品やそれらにまつわる全てのことが本当に好きで、常にポジティブ。どんな質問をされても、正確な情報を、豊富に伝えることが出来る。熱く語る。
ところが自分がこんなに熱心に、大喜びで語っているのに、相手の目がうつろになったり、あろう事か、相手がイライラし始めたりする…。

「情熱的な人」は、しばしば相手が求めている以上のことをしゃべりまくります。
誠実で熱心ですから、正面切って非難することは出来ないのですが、軽い気持ちで食事に招かれてみたら相手はやたらと幅広の本物の中華包丁をかまえて見たこともない素材をものすごい勢いで千切りしていた…というような、善意のプレッシャーを感じます。
そして大抵は、その材料についても実に詳しく説明してくれることでしょう。
相手が軽く、くつろいだ気分で話をしたいがために食事をそのきっかけにしたかっただけだ、というようなことは眼中にありません。気付きません。

情熱的なのでしゃべりすぎる人の傾向と対策

多くの方は、初めから「見たこともない素材をものすごい勢いで千切り」し始めるわけではありません。初めは普通に話をされていることの方が多い。
ところが、自分や相手の発言の何かをきっかけに中華包丁が振り上げられます。
それが一見どんな些細なことであっても、自分の興味を刺激したり、自分が日頃考えていることに新たな光を当てるようなものであったりするとのめり込んでしまいます。

相手が求めていたことを話す。
相手が求めていたことに対して、さらに付加価値のある周辺情報や詳細情報を話す。
ここらあたりまでは、いいのです。
相手がもはや求めていないし、興味も持てないことに「話している自分は興味津々なので」話し続ける、という段階に入った時が危ない。
この段階に入ったあとで話を遮ったり、話の本筋とは関係が無くなっていることを指摘したりすると、それはそうかもしれないがこれはとても大切なことなのだから良く聞きなさいというような、無茶な態度をとられることもあります。
今話は木星のあたりにさしかかっているけれども、数光年経てば地球に戻ってくる。太陽系全体をきちんと理解してから地球に戻るということが大切だ、という教えを賜る場合もあります。
いや確かにおっしゃる通りですが、今数光年は待ちたくないんですが…。

この場合も、相手のことを忘れているという根本的な問題が発生しています。
自分が今地球から何光年のところにさしかかっているか、常に自覚する必要があるでしょう。
実は地球から何光年離れようとかまわないのです。ただし、そこまであなたが相手をちゃんと導ければ、です。その面白さを相手と共有しようという、言ってみれば、強い「サービス精神」が必要です。

ええ、そうです。
生身の私をご存じの方は、皆さんここで苦笑されたことでしょう。
私はしばしば太陽系外まで出かけます。
「さあ地球へ帰るぞ」と必死で自分に言い聞かせながらしゃべっていることが多いです。

自信がないのでしゃべりすぎる人

自分の営業技術に自信がない。いつ相手が No!と言ってくるか、あきあきした顔をし始めるか怖くて仕方がない。
だから相手が否定的な反応を返してくる隙を与えないようにひたすら自分が言いたいことを言い続ける。
そして、全てを言い尽くした後で、一言 No!と言われる…。

「自信がない人」は、怖いものを見ないように目を閉じていればそれは存在しないと信じたい子供のようなものです。話すことが、相手とコミュニケーションするためではなく、自分の身を守る壁を作るために使われています。
そもそも、営業に出向いておきながら「自分の身を守る」というのも如何なものかとも思いますが、少なくありません。成功するためではなく、失敗の烙印から自分を守るためにしゃべり続けているのです。

自信がないのでしゃべりすぎる人の傾向と対策

失敗したっていいじゃないか、などという無責任なことを言い出すつもりはありません。
もちろん失敗しない方がよいのです。
しかし、何をもって成功と言うのか?
あなたが望むとおりに相手が反応してくれ、あなたが望むとおりに行動してくれることをもって成功と言うなら、自信がないと言いつつ、あなたの最終的な夢は ヒトラーやある種の教祖のような強力な煽動者になり、正常な判断を奪われた狂信者を作ることだということになってしまいます。

そんなことは考えていない。あり得ない。
何しろ自分はそもそも自信というものにいちじるしく欠けるのだ。
ただこの商品が素敵なものだということには同意してもらいたいという、ささやかな望みを持っているだけだ。
そんな風に思いますか?

独裁者でありながら非常に小心だったという人物評がよくありますが、小心だったからこそ(たまたま権力の座に着くことに成功すると)独裁者になってしまうのです。独裁者がしばしば狂気を伴っているのも根本的にはきわめて小心だからです。
同時に「ささやかな望み」は、ささやかだと自分で思いこんでいるために、まともな検証にさらされたことがない場合が多いです。

「暴走族なんてみんな死んじゃえばいいのに」
でも、どうせそれは実現する可能性はないからあなたの心の中だけにある「ささやかな望み」のままです。
ところがあなたが暴走族を取り締まる立法を出来る立場に、たまたまなれたら、どうします?
さすがに死刑にはしないでしょうが、非常に厳しく取り締まり、刑罰も重くなるようにしませんか?
暴走族と呼ばれる行動をしている人々の中には、実に様々な事情や背景を背負った人々がおり、結局は「暴走族」という抽象的なものを取り締まるだけでは根本的な解決にはならない…というような「正論」で反対されると、耳を傾けなくてはと思いつつも、とても苛立つのではないでしょうか?
ホロコーストまであと数歩です。

誰に対しても同意を強制することは出来ませんし、魔法のように同意を勝ち取るテクニックも存在しません。
そもそも同意を得て安心することが成功だと思っている間は、いつまで経っても成功はしないでしょう。
相手の役に立つために話をする、という基本に立ち返らない限り、このワナから抜け出ることは出来ません。

ただおしゃべりな人

えーと…。
本当にいますね、とにかくしゃべることが好きなので制止されないかぎりしゃべり続ける、という人が。
こういう人は確かに話はおもしろい。
でも、果てしない。
そして、脱線する。
時として、自慢話まで始まる。
こういう人については、ここで分析的にあれこれいうことはとても出来ません(苦笑)

おまけ:沈黙そのものに耐えられない人

営業のトークという限定された場でのことではなく、そもそも沈黙している状態そのものに耐えられない、という人もいます。
沈黙している状態に耐えられなくて、内容や上手い下手には関係なく、とにかく何かしらずっとしゃべり続ける、しゃべり続けずにはいられない、という人です。
気持ちは分かります。
特に相手がほとんど面識がない人だったりするとつらいですね。
沈黙していると

  • つまらない人間と思われているのではないか
  • さきほどひと言ふた言しゃべった何かでひどい誤解を受けているのではないか
  • 相手を不快にさせているのではないか

などなどの不安がはてしなくふくらんでいきます。
目の前の相手との接点が完全に失われたように感じ、おそろしく居心地の悪い、孤独な気分になったりさえします。

人間というものが相手のことを十全に分かるようには出来ていませんから、これはもう、仕方がないとしか言えません。

私個人のことをいえば、ある時期から「相手にどのように受け取られているか」を気にすることはあきらめてしまいました。
どうでもいいから好き勝手にする、という破滅的な意味とは少し違います。
自分は出来るだけ誠意を持って他人に接するけれども、相手にどのように受け取られるかを決めるのはやはり相手自身だから、そこは完全にゆだねるしかない、ということです。
もしも誤解されたり嫌われたりしたら、それはあきらめるしかない。自分のアピールの仕方がまずかったのかもしれないし、相手の受け取り方が下手だったのかもしれないし、そもそも単に「気の合わない」者同士だったのかもしれない。

相手に誤解されたり嫌われたりするリスクも含めて相手を尊重することには、勇気がいります。実のところ、今でも怖いと思う時がよくあります。
けれども私を嫌うという相手の判断にも敬意を払う、という態度が貫けなければ、おそらく相手も、こちらが敬意を払うに値する存在「かもしれない」と思いついてさえくれないでしょう。
沈黙を恐れているよりも、誠意ある言葉を選んで口に出すことに全精力を傾けた方が、いくらかはましです。

沈黙しよう

さて、営業の現場に話を戻しましょう。

タイミングの良い沈黙は、相手に自由に意見を述べる時間を与え、一方的にプレッシャーを受けているわけではないという安心感を与えます。
自分が物事をコントロールできていないと感ずることを、人は非常に嫌がります。たとえ実際にはコントロールできなくても、コントロールできる可能性があると感ずることが大切です。
かなり多くの場合「参加」と称する行動は、実はそれだけのためだったりさえします。

ですから、沈黙して、相手に主導権を渡す時間を作る必要があります。
それは同時に、相手に敬意を払っていると知らせることでもあります。

タイミングの良い沈黙は、もうひとつ、「あ、このことについて決断を下すのは自分か」ということを相手に思い出させます。
あなたが一方的に話し続ければ、交渉ごと全体の責任があなたの側にあるかのような印象を与えます。Yes も No も、相手にとって重みが無くなります。Yes も No も、あなたの側に属するものに感じられるからです。
すると、ためらいなく、いとも簡単に No と言うことが出来るようになってしまいます。
勇気を持って沈黙しましょう。
沈黙することは相手に敬意を払い、相手に決断をゆだねることです。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。