小説仕立てのビジネス書

投稿者: | 2011年4月25日

「アレックスは寝不足の頭を抱えながら会社へ向かっていた。期限が迫っているプロジェクトのことを考え始めると目が冴えてしまってろくに眠れなかったのだ。大きくため息をついて空を見上げた。
今日も暑くなりそうだ。」

…。
アレックスって誰?

「『アレックス、君はなんのためにそれをやっているんだい?』
『なんのためといいますと?』
主任のジャスティンはちょっと汚れた黄色のネクタイをさすりながら、ゆっくりとデスクを回ってきた。
『君の考えが正しいとしてもだ、それは誰のためになると思ってそれを思いついたのかってことだよ』
アレックスは答えに詰まったまま、じっと主任の顔を見つめた。」

…。
なんで絶妙のタイミングで絶妙の質問をする上司ばっかり現れるんだ?
っていうか、主任のジャスティンって誰?
そいつデブ?

ダメなものはやっぱりダメ

小説仕立てのビジネス書や自己啓発書は何年も前からありました。日本のものとしては(一番早いわけではありませんが)日本経済新聞社の『なぜ会社は変われないのか』などを思い出す方も多いでしょう。

それにしても最近「小説仕立ての~」が本当に増えました。
なんとなく「まんが版~」の一時の流行を思い出させるものがあります。
はっきり言ってしまいましょう。
どうにもダメなものや、小説仕立てにする必然性が感じられないものがだんだん増えてきて、イライラすることがあります。
十数ページのレジュメにまとめてしまえそうな情報を、無理矢理「薄目の単行本一冊」に水増しして読まされているように感ずることもあります。
逆に、こうまで細部豊富に「物語って」くれなくてもいいからもっと引き締めてポイントを絞って欲しいと思うこともあります。

テーマや主張が興味深いものであっても、なまじ小説仕立てにされているだけに小説としての疵を感ずるたびに興味がそがれます。逆に小説としてはそれなりに 力が入っていても、凡庸なテーマや主張、首を傾げたくなるような論理のアラや飛躍を、小説がカバーするわけではありません。
いや、この場合はむしろ論理のアラや飛躍を、小説にカバーさせてはいけない、と言うべきでしょう。

小説としての出来がいまいち

小説として最低限のレベルに達していないと、読んでいてかえって白々しさしか感じられません。
まんがの出来がへぼすぎて、大まじめなことを語っているはずなのに失笑するしかない「まんがで~」がたくさん存在しているのと似たようなところがあります。

  • 何度も名前を確認しないとキャラクターの区別がつかない。
  • 個性や性格がはっきりしない。
  • 「怒りっぽい」「神経質」など類型的な説明文を直に書いてすませてある。
  • 複雑な状況になってくると、それを適切に描き分けるだけの筆力がないために読んでいる方が混乱してくる。
  • 複雑な状況を省略無しに全部書くので緊迫した状況になっているはずの場面がおそろしく間延びしたものになり果てる。
  • 重要な説明は全て会話文でなされる。
  • 重要な心理状態は必ず直に「強い違和感を感じた」などと書いてある。
  • しばしば、都合の良いタイミングで都合の良い事件が起きたり、都合のよい幸運が訪れたりする。
  • 結婚しているはずなのに、家庭生活が全く感じられない。そんなことをしていたら多分離婚騒動になるだろうと思えるような状況でも平気。
  • 今が何月なのか全然分からない。
  • 主人公から見て異性のキャラクターに「花を添える」以上の役割がない。
  • 「悪役」キャラクターが弱すぎて実社会の重みが感じられない。

…などなど、ジュブナイル小説でももう少しましだろうというものにお目にかかることも珍しくありません。

 

ジャスティンのちょっと汚れた黄色のネクタイ

小説としての出来がそれなりに良くても、また別の問題が起こってきます。
読者が小説として読んでしまうので、細かいけれど重要だったはずの部分が読み終わる頃には抜け落ちてしまい、「とにかくアレックスのように死ぬ気で頑張らなくては」という感情的な部分だけが残ってしまったりします。
たとえ主題が「死ぬ気で頑張らなくても物事が進むように会社組織を改革する」ということだったとしても、です。
このようなことは、サスペンスとしての出来が必要以上によい場合に起こりがちです。印象的な場面の連続や効果的な省略を伴う場面転換など、小説としては誉 められるべき筆の冴えが、読者を「夢中で次を読ませる」ことになり、理解してもらわなければならないことを「読み飛ばし」させることになりがちです。

本題には全く関係ないのに「ジャスティンのような上司にならなくちゃ」などということしか覚えていなかったりすることさえあります。
キャラクター造形が無駄に印象的すぎる場合に起こりがちです。
「キャラクターが行動を通して主張したこと」を理解してもらわなければならなかったのに、キャラクターの存在全体に読者が思い入れを持ちすぎてしまいます。
ジャスティンが重要な場面で必ず少し汚れた黄色のネクタイをしている理由が、先代社長の遺訓を体現しているのなら、小説としてはあまり面白くありませんが、まあいいでしょう。
しかし死に別れた娘からのかつてのプレゼントであり、その背後には哀しいけれども豊かなジャスティンの全人生のエピソードが詰まっているということになると、小説としての「深み」を無駄に持ち込みすぎです。

実際に書かれていることとは全く逆のことや、主張などしていなかったことを、読者の感情的な色づけの中に勝手に作り上げることさえあります。
そんなバカな?
いいえ。残念ながら、本当です。
ある人から「○○の本にこう書いてあったじゃないか」と本気で主張されて、ちょっと呆然とした経験が、実際にあるのです。
いやそれは「やってはいけない」として書いてあったことなんだが…。
こうなると、小説仕立てにして、しかもそれなりに小説部分が面白かったがために、ビジネス書や自己啓発書としては大失敗です。

なんのための小説仕立て?

小説仕立てのビジネス書や自己啓発書というスタイルに、全面的に反対するつもりはありません。
しかし、小説というスタイルにこだわりすぎるのは無意味です。

たとえば、図表などを使った方が分かりやすい場合は、意地なって文章や会話で通しても仕方がないでしょう。

「さてしかし…」
アレックスは出席者たちをゆっくりと見回し、そして、ホワイトボードを指し示した。
「このグラフを見てください」

ここで、実際のグラフをページに直に示しても別にかまわないはずです。かまわないどころか、うまく作られたサンプルなら要点が一気に把握しやすくなるはずです。
たしかに普通の小説ではそんなやり方はめったにしません。ミステリなどで、謎解きに関係する重要な暗号や図を具体的に掲載することはありますが、多くはありません。
しかし、小説としての体裁を貫くことにこだわりすぎることに、あまり意味はありません。どうしたら読者に理解しやすいかを優先した方がよいはずです。

「硬い専門用語が並ぶのを避ける」「読み慣れた小説という体裁で導入の敷居を低くする」「具体的なキャラクタを設定することで感情的なつながりを持たせ、熱意を維持して読ませる」などの理由で小説仕立てという形を選んだはずです。
だったら、理解しやすい・読みやすいという目的を達成するためなら、何でも取り入れてかまわないと思います。

小説なの? ノンフィクションなの?

「小説仕立て」という体裁が、小説なのか、それともノンフィクションなのかということが、非常に曖昧になっているものもたくさん見受けられます。
なにかビジネス上の問題が発生し、それを何らかの方法で解決に導く過程を描くということであるなら(そこに描かれているのはおそらくフィクションの事例ですが)、基本的にはノンフィクションであるはずです。

ノンフィクションは実際のところどのようなスタイルでも書けます。報告書を列挙していくようなきわめて事務的なスタイルも可能ですし、小説のように中心となる人物の喜怒哀楽を含めて書くスタイルも可能です。
ただしどんなスタイルであれ、発生した事実とそれが導かれた理由をどこまでも追求していくことが基本です。
その意味では「小説仕立て」という用語に惑わされずに、ノンフィクションを作る、と考えた方が目的に合っている場合も多いと個人的には思います。
架空の設定・架空の人物達であっても、その事件を「取材」し、人物達に「インタビュー」した結果を読み物として再構成する、という考え方です。
特にビジネス書はそうでしょう。
このような手順を踏めば、いくら魅力的なキャラクターや血湧き肉躍るストーリーの勢いに引きずられようとも、論理の飛躍やアラは必ず見えてくるはずです。

ジャンルにとらわれるよりも質そのものを

さて。

「もっともな話かもしれないけれど、そういちいち細かなことに目くじらを立てなくてもいいじゃないか。
要は読んで面白くて、よく売れるならいいんだから。」

全く、その通りです。
その考えを本当にちゃんと実践しているなら。
ジャンルというものは、本に限らず、便宜的なものです。
何らかの分類をした方が整理したり記憶したりする時に都合がよい。先行する似たようなものに関連づけさせた方が新しいものを受け入れやすい。…などの理由で作られるものです。

「車」という大分類があり、その中に「馬車」や「牛車」があり、その関連づけで「自動車」があるようなものです。この場合は名付けそのものがジャンルの範囲や関連性を明示しています。
「自動車」が「カラシニコフ」という名付けでもかまわないはずですが、それでは人はそれがどんな存在であるか全くのゼロから取り組み、理解し直す必要があります。この場合はやはり「自動車」に類する名付けの方がずっと良いでしょう。

しかし、名付けの体系にとらわれすぎると、物そのものを名付けに合わせようとするようになります。
先行するものを定義している条件を無理にでも満たそうとしたり、逆にその条件に合わせて無理に機能や性質を削り落とそうとしたりし始めます。失笑を誘う、とてもいびつなものが生まれてくることになります。
このような、人が無意識のうちにとらわれてしまいがちなことをきちんと意識し、「読んで面白くて、よく売れる」ものを自由な気持ちで作れているか。
それが出来ている自信があるなら、ジャスティンのちょっと汚れた黄色のネクタイをおおいに語ってください。

※ご注意:一部の記事は書かれた時期が古いために現状と合わない場合があります
この文書の趣旨」でもご紹介しているように当コーナーが本にまとまったのが2008年(実際に原稿をまとめたのは2007年暮)なので、多くの記事はそれ以前に書かれています。
そのため一部の内容は業界の常識や提供されているサービス・施設等、また日本の世間一般の現状と合わない可能性があることにご注意下さい。