無償の優しさというある種の正義

投稿者: | 2012年1月1日

先の記事の最後で、こういう出来事があったわけですが、ちょっと思ったことを書き留めておきます。

12月31日

1月1日

  • おお…。うん、これは素直に喜べるな。 “@takashimt: 例のあれに返信が付いますよ! 感涙です。” posted at 09:28:07

こういう無償の優しさというのは想像以上に「おとなの社会」では少ないけれど、それはべつに大人になると優しさを失った冷たい人間になるから、とかではないんだよね。
大人が無償の優しさを発揮する時というのは、世界にある種の正義を行おうとしている時なんだと思う。

人は長く生きれば生きるほど、世界は自分のために存在しているわけではないし、人間のためにあるわけでもないし、もっと言ってしまえば生物のことなど世界はなにも考えていないということが分かるようになってくる。
今存在している地球の姿はもちろん多くの生物の存在「も」織り込んで出来上がっていて、それを素晴らしいとか心地よいとか感ずることは可能だけれども、もし隕石が地球を直撃すればおそらく一瞬で失われる。そこには善意が無いだけではなく、悪意さえない。ただ世界はあるようにあるというだけであり、悪意さえないものに対抗することはほぼ不可能だ。
その中で「このようであって欲しい」と望み、そのために何か行動するというのは、実はとても大変だ。大げさ過ぎると思うだろうけれど、優しさというのは世界そのものには全く存在しておらず、人間が無の中に自分の中から創りださなければならない。世界にそれを全力で押し付け、押し通し、世界をねじ曲げなければならない。
優しさがある種の正義だと思うのは、世界に対して「世界かくあるべし」という意志を押し通すことだからだ。

世界に合わせてうまいこと生き延びていくのは「処世」にすぎず、それがどんなによく出来ているように見えても、決して「正義」ではない。
人が大人になって行く時、おそらく生き延び続けるために多くの「処世」を身につけるけれど、処世は限定された範囲内での最適化をつきつめることなので「世界」の多くの部分から意識して目をそらす訓練を、結果としてすることにもなる。実際、毎日毎時間、世界には善意も悪意も意図もなく果てしなく「ただそうある」が広がっているだけだということを意識し続けていたら、日々を暮らしていくのはとても難しい。
でももちろん目をそらしたからといって見ないものが無くなるわけではないし、誰でも心の底ではそのことを知っている。
無償の優しさが現れるとある種の驚き、感激や賛同だけでなくある種のショック、を感ずるのはこういうわけなんだと思う。
今ここで一人の人間が世界全体と正面切って闘った姿を見たんだという驚きが、見る人を良くも悪くも「落ち着かなく」させる。落ち着かなさは、たとえば必要以上に持ち上げたり、逆に話を必死に「処世」のレベルに引き戻してバカにしたりする、というような行動に走らせたりもする。そしてそれをまたお互いに批判しあったり、というようなことを始めたりするが、その頃にはたぶんもう、正義が行われたという真実からは目がそれ始めている。

そういうことなんだと、思う。
世界と優しさとそれをめぐる人々の行動は、そんな感じなんだろうと、思う。