60歳になってみた

投稿者: | 2018年3月8日

3月7日に60歳に…なってみた。

60歳になった、とか、とうとう60歳になってしまった、とか、まあいろいろ言い方はあり、すくなくとも「なってみた」は変だろうとは思う。
60歳になることを自分の力で拒むことも出来ないし、なるかならないか選択可能でもないのだからおかしい。
でも、なんというか、気分としてはそんな感じがする。
いつかはその歳に到達することはずっと前から分かっていたし、強く嫌だと思っていたわけでもないが、なんだか未知の地点という気がして少し戸惑っていたが、とりあえず自分が60歳になったことを受け入れてみた、すなわち、なってみた。

実のところ、この数年は親族関係ではさまざま大変なことが継続していて楽ではない。自分も歳とともに基礎体力も落ちてきているのをはっきり感ずるし、そんな中で会社の責任者になってしまったのもこれまたらくでも楽しくもない。
事実だけを並べていくとそんな感じだけれど、その一方で、もしかしたら今が一番幸せな時期かもしれない、とも思っている。

歳をとって無理が効かなくなったけれどまだやらなければいけないことはやれる。しかし、無理が効かなくなった分だけやらないことはやらないと割り切ることもできるようになった。
いろいろな経験が自然と自分の中に溜まり、でもまだ現場から完全には離れていないので、経験が現実から遊離したただの役立たずの思い込みにまでは墜ちていない。
同じようなことが私生活にもあり、妻も私もあきらかに老いてきたけれど、まだ日常生活に支障はない。もっと老いていくと、場合によったら肉体的な大きな障害や認知症などの問題が起こってくる可能性はある。こればかりは、自分たちは大丈夫という根拠のない自信をもって将来を考えるわけにはいかない。でも今は、まだなんとかバランスを保っている。

青春時代は二度と無いというような言い方をされることがあるけれど、もしかすると、良くない要素が多くなりすぎる直前の、かろうじてよいバランスを保っている老人期というものもあるかもしれなという気がしている。
青春時代には、その後自分の人生になにが起こっていくか全く経験もなく、ただただ可能性だけしか見えない。確かに二度とない輝かしい時期だけれど、そう言われてもその時期を生きている当人にはわからない。
年老い始めたこの時期は、わかる。多分ね。
これから自分がだんだん肉体も知性も壊れていくことが分かっている。
でも今がそう悪くないのも事実で、貴重なんだと意識できる状態で貴重な時期を生きられる可能性がある唯一の時かもしれない。

もう爽やかな午前は過ぎ、暖かく明るい昼も、賑やかで活動的な午後も終わった。
それらは二度と戻ってこない。
陽が傾き、夕焼けが始まろうとしており、実際その先には夜しかないことは分かっている。
まあでも、夕焼けはきれいだよね。
けっこうね。