人並みに連休になったので……ひさしぶりにネット上をぶらぶらしていた。
【それは】ネットサーフィン【死語】
なんだかインターネットは技術やインフラの発展に支えられて随分変わったなぁとジジイ丸出しの感慨にふける今日このごろだけれど、あぁまあ違うな、がんがん日常に浸透して本当に「使える」インターネットになり、商利用も進んで、今ようやくサイバーパンクが予言し続けてきたひどい世界にさしかかったわけか、と思う。
もっとネットの闇が本当に深くなって、荒廃するのはむしろこれから。多分。
荒野があって、ひどい自然と人間より強い野獣がいた頃は確かに自衛手段を持たずに旅するのは死の危険があったけれど、実は都市ができ、発展して、さらにちょっと都市が古びるくらいになったあたりの方が理不尽な闇が深くなるのと同じ。
むかしむかしのインターネットの方が法整備もほぼ全くなく、ひどいものだったけれど、荒野のようにわかりやすかったという感覚は、今となってはちょっと意味不明かもしれない。
岬兄悟『インターネット危機一髪』が本として世に出たのが多分1998年で、1995年頃からネット中毒になっていた話が生々しく書かれているが、この本も当時のインターネットの荒野ぶりをうかがい知るひとつの資料だろう。
インターネットには違法と悪趣味が満ちているということが面白おかしく綴られているが、今のインターネットのように、違法ではないが可能だから追求してみた結果なんだか狂気じみた状況になっている一見まっとうな営利企業の奮闘ぶりに比べると全然サイバーパンクではない。
(岬兄悟を知らない人も、もう多いだろうなぁ。大原まり子の旦那さんで自身も作家ですよ…と書いてみて、もしかすると大原まり子を知らない人さえいるだろうなと思ったり)。
その後2001年に糸井重里『インターネット的』が出て1998年に「ほぼ日」をはじめた頃を振り返りつつ、もしかすると幸せなインターネットというものがあり得るかもしれない、という興味深い手探りがはじめられている。
先の岬兄悟からほんとうに、ほんの少しあとでしかないあたりにインターネットの動きの激しさを実感させられる。
これにさらに、2003年発行の鈴木淳史『美しい日本の掲示板』を加えると、日本のインターネットがどのように荒野から都市へ、そしてお茶の間へと進んできたか感じられると、個人的には思っているがあくまでも、感じられる、のであって論理的であったり分析的だったりするわけではない、どの本も。
そんなことをぼんやり考えつつ、Facebookのプライバシー設定や通知設定をガシガシ変更する。
いやそもそも、君の言う「友達」の定義とはなんなんだね、Facebook?
ものすごく機械的なくせに、ものすごく空気を読めないおばちゃんみたいな人間くささが鬱陶しいという稀なネットサービスだねFacebook。サイバーパンクだわ。うん。